貴方が欲しい

美濃由乃

第1話


「ねぇ、何見てんの?」


 現在時刻は深夜零時に差し掛かろうとするところ。


 場所は僕以外に人がいないはずだった駅のホーム。


 スマホを見ていた時、急に声をかけられた僕は驚いて顔を上げた。


 季節は春。この時間になると外はまだ肌寒い夜空の下、視界の隅でひらひらと何かが揺れているのが見えた。



 僕は今年から新社会人になった。


 今日もやっと仕事が終わり、いつものように終電間近の電車を待っていた。


 ホームのベンチに座りながらスマホを取り出す。


 この待ち時間に怖い話のサイトを覗くのが、最近僕の中で密かなブームになっていた。


 そうして次の電車が来るまで一人で静かな空気に浸っていたとき、不意に先程の言葉をかけられたのだ。


 顔を上げると目の前には若い女の子が立っていた。


 肩くらいまで伸ばした髪は明るめの茶色。制服を着ているところを見るとどこかの高校生だろうか。


 短いスカートから引き締まったすらっとした脚が伸びている。


 耳には綺麗な、それでいて主張し過ぎないピアス。整った顔立ちからはどことなく気の強そうな印象を受ける。


 なんというか今どきの子だった。


 リアルが充実してそうな、学校カースト上位にいそうな印象の女の子。


「スマホ、何見てたの?」


 こちらがいつまでたっても答えないからだろうか、女の子は答えを促すように再度口を開いた。


 馴れ馴れしいというか、遠慮のないような聴き方。


 というか、会ったこともない知らない人に自分から声をかけるなんて、あまり危ないことはしない方がいいと思う。


 もし話しかけた相手が危ない人物だったら、彼女のような若くて可愛い女の子は格好の的になってしまいそうだ。


 というか、冷静に考えると深夜帯のこの時間、高校生が一人って不良なのだろうか。


 色々気にはなったが、そんな個人情報を聞こうとすると、今の世の中それはもう立派な不審者になってしまう。


 馴れ馴れしい女の子にいろいろ言いたいことはあったけど、深夜に女子高生と二人きりという社会的にまずいこの状況を早く切り抜けるため、僕は要件のみに答えることにした。


 つまらないと思えば向こうからすぐに離れて行ってくれるだろう。


「怖い話とかのサイトを」

「そのサイト見るの辞めた方がいいよ。寄ってくるから」


 そう言って、女子高生は二つほど離れた席に座り大胆に脚を組んでスマホを取り出していじり始めた。


 その姿をジッと見てしまっていたことに気付き、慌てて自分のスマホに視線を戻す。


 スマホには怖い話を掲載している先ほどまで見ていたサイトが表示されていた。


 黒を基調としたサイトデザインで、壁紙をよく見ると薄っすらと腕や指のようなものが描かれている。それがまた雰囲気を醸し出してくれて僕は気に入っていた。


『そのサイト見るの辞めた方がいいよ。寄ってくるから』


 視界の隅で相変わらず何かがひらひらと揺れている。


 あれは、外灯に集まってきた蛾だ。


 僕には先ほどより風が肌寒く感じた。


 いきなり見ず知らずの女子高生に言われた言葉の意味を考える。


 寄ってくるとは、何が寄ってくるのか。


 そもそもいきなりそんな事を知らない人に話すこの子はなんなのだろう。


 深夜の駅のホームで怪しい女子高生と二人きり。


 顔を上げれば静まり返った闇の中に消えていく線路が見える。


 駅の外灯が届かない闇の中に消えて行く線路はまるで、辿っていくと二度と帰ってこれない場所に繋がっているようだ。


 非日常感溢れる周りの環境に、ビビりの僕は今まで見ていたサイトをそっと閉じた。


 意識すればするほど、何でもないような周りの小さな音に敏感に反応してしまい、闇の中からこちらを見ているような視線まで感じてしまう。


 気のせいだと自分に言い聞かせる。ビビりな自分の性格はこういう時困る。


 同じく電車を待っているであろう知らない女子高生をちらりと見る。


 初めは不気味だったが、今はその存在が頼もしかった。一人よりは二人である。


 見知らぬ不審な存在にまで安心感を感じるほど僕はビビりだった。


 そうこうしながら一人心の中で怖がっていると、ホームに放送が鳴り響いた。


 ホッとして一息つく。電車に乗ってしまえば安心だ。


 鞄を持ちドア位置に立って電車を待つ。


 たまに怖い話を読みたくなるが、今日は知らない女子高生のおかげでなんだか変な雰囲気になってしまった。


 まぁ電車に乗ればそれも終わりだ。


 不思議な子がいたものだ程度で、後々自分でも忘れてしまうだろう。



「見るの辞めたんだ。えらいじゃん。もう見ないようにね」


 気が付くと、座っていたはずの女子高生がすぐ隣に立っていた。


 思いがけない状況に声が出ない。


 女子高生は僕に密着するほど近くに立っており、その後、何故か大股で片足を私の足の前に出した。


 その動作はまるで、何かを踏んだようにも見えた。


 言葉を発せないでいると、女子高生は先に電車に乗って行った。


 見惚れていた僕は、我に返ったあと、女子高生が乗った車両とは違う車両に慌てて乗った。


 あの子はなんだったのだろう。


 不思議ちゃんなのか、それとも痴漢冤罪にされそうだったのか。


 何にせよ下手に関わらないのが一番だ。もう会うこともないだろう。その時の僕は、そう思っていた。




 仕事帰りに深夜の駅で不思議な女子高生に出会ってから数日。僕は特に何事もなく日常を過ごしていた。


 仕事が終われば寝るために家に帰り、起きたらまた仕事に行く。今日も今日とて仕事。


 本日のシフトも退勤時間は夜遅く、家に着いたらすぐに寝ることになりそうだ。


 僕の職場は介護現場だ。


 入居者確保のため広い土地が必要があったのだろう。街中からは離れた場所に僕の職場はあった。


 辺りには民家もなく、ぽつりぽつりと蝋燭のように灯る街灯を頼りに薄暗い道が続いている。


 この暗い道が何よりも苦手だ。


 入職してからずっと、夜にこの道を歩いていると誰かに見られているような気がして、いつもビビっている。


 それくらい僕は昔から気が弱く、大人になった今でも臆病なのだ。


 そのくせ怖い話やホラー映画が好きで、怖いもの見たさでよく検索してはいろいろな話を読んでいた。


 だけど、最近は少しその辺の趣味を封印している。


 数日前に駅で出会った見知らぬ女子高生のせいだ。


 そもそも会ったこともない知らない子だった。


 ある日の出来事にビビった僕は、あれ以降そういうサイトは見ていなかった。


 見知らぬ女子高生を忠告を聞いたわけではなく、単に怖かっただけ。


 謎の女子高生とは、あれ以来出会っていない。


 会いたくないが、一切見かけないとそれはそれで、幽霊だったのかとビビりの心を乱され複雑な心境だった。


 考えごとをしているうちに気付けば駅に到着していた。


 電車が来るまで時間がありそうなので、ホームのベンチに座って待つことにする。


 この時間帯、街中から離れたこの駅に人はほとんどいない。


 今日もホームはガランとしてベンチも座りたい放題、仕事終わりで疲れている身体には少しありがたいことだ。


 仕事疲れか重い足をなんとか動かしてノロノロと歩く。


 最近疲れが溜まっているようで、歩くのが辛く感じていた。


 足が前に進まないのだ。


 今日は家に着いたらすぐ休まないと、そう考えながらようやくベンチに座って一息着いたとき、



「ねぇ、またあのサイト見てんの?」


 横から急に声をかけられたのである。


 不機嫌そうなその声に驚いて顔を上げると、そこには何日か前に駅のホームで会った謎の女子高生が立っていた。




 いきなり声をかけられたことにビビった僕は、女子高生のイライラを隠そうともしない不機嫌そうな表情にさらにビビった。


「またあのサイト見たでしょ!」

「あ、いや、見てないです」

「絶対嘘、すぐわかるよ。今でも足を掴まれてるじゃん」

「ほ、本当です。ビビりだからあれから見てないです!」


 見知らぬ女子高生に訳もわからず叱られて必死に弁明する大人がそこにいた。


 なんともカッコ悪い状況である。


 だが、意外と必死に弁明する僕を見て女子高生も怒りを抑えてくれたのは僥倖だった。


彼女はキョトンとした後俯いて「じゃあかなり執着されてたんだ。これは私の……に」と呟いた。後半はよく聞き取れなかった。


 そのまま私の隣に座る女子高生。いい匂いがした。


「最近さぁ、よく転んだり足が疲れてる感じしてない?」


 呆けていると女子高生から質問が飛んできた。


 何でそんなことを、と思いつつも僕は口を開いた。


「えっと、転んだりはしないけど、足が重いような? 疲れてはいる。かな。」

「そっか、影響出てるんだ」

「いや、というかあなたは誰ですか? この前から何で……」


 そこまで言ったところで急に女子高生に手を握られた。


 世界の時間が止まったように感じ、自分の心臓が五月蠅いほどに高鳴っている。


 至近距離で見る女子高生はやっぱり可愛かった。


 色白な肌は言い方を変えれば青白いとも言えそうなほどだが、透き通るような肌は綺麗としか言いようがない。


「ねぇ」

「は、はい!」


 自分でも情けないような裏返った声が出てしまう。


 恥ずかしくて死んでしまいたい。もう痴漢冤罪とかまったく考えられていなかった。


「足見て」

「足ですか!?」


 言われた通りに短いスカートから伸びる女子高生の生脚を見る。


 細すぎず太すぎず、引き締まった綺麗な太もも。スカートはかなり短く、際どい部分しか隠していない。


 端的に感想を述べると、綺麗だった。


「き、綺麗ですね、脚」

「あ、いや、私のじゃなくて、自分の足元をね」

「へ? あ、あ、すいません!」


 苦笑いする女子高生を見て、自分がとんでもない勘違いをしたことに気付いた。


 ただでさえ手を握られて困惑していた僕は、とりあえず促されるままに自分の足元に視線を落とした。


 見えるのは自分の足と隣にいる女子高生の足。



 そして、ベンチの下から伸びてきて僕の足を掴んでいる 腐ったような緑色をした腕だった。


「足掴まれてるの見えた? 今は私の力で見えるようにしてるんだけど、それで手を握ったわけ」


 女子高生が何か言っていたが、僕の意識はもうほとんど飛びかけていた。


 仕方ないだろう、僕はビビりなのだから。




「ねぇ、起きて! もう、寝坊助なんだから」


 優しい声が聞こえて目を開ける。


 僕を優しく起こそうとしてくれていたのは、あの駅のホームで会った女子高生だった。


 彼女は僕が目を開けたのを見て優しく微笑む。可愛い女子高生に起こしてもらうなんて、なんて幸せな朝なんだろう。


 これなら毎日の辛い仕事も頑張れそうな気がする……。


「はっ!?」

「あ、起きた。大丈夫?」


 目覚めると自分の部屋ではなく、薄暗い駅のホームだった。


「腕が!?」


 気絶する前のことを思い出して慌てて自分の足元を見る。


 だがそこには自分の足を掴む腐ったような腕はなかった。


「ふぅ、よかった。幻かぁ」

「ほい」


 一息つくとまた女子高生に手を握られた。


 その瞬間、また自分の足を掴む腐った腕が見え、僕は意識が遠くなっていく。


「ちょっと! 気絶しないで!」

「痛!? ちょ、痛いです!」


 女子高生が握る手に力を込めたことにより、僕は痛みで覚醒した。


 下を見ると自分の足を掴む腕が見え、また気を失いそうになる。


「うわああああぁ腕がぁああ!」

「だから落ち着いて!」

「いた、痛いです!」


 覚醒する僕。そして腕を見て気絶。また力を込める女子高生。


 僕が落ち着くまでこの流れはしばらく続いたのだった。




「落ち着いた?」

「はぁ、はぁ、す、すいません」

「ふっ、面白かったからいいよ」

「あの、さっきのは一体?」


 ビビりな僕でも聞かずにはいられなかった。


 今は見えないにしてもはっきりとこの目で見たのだ。腐ったような人の腕を……。


 もちろんベンチの下に人なんていない。そもそもそんなスペースもないはずだ。


 恐る恐るベンチの下を覗き込む。すぐに壁になっていて何もない。


 だがはっきりと見たのだ。もう気のせいにはできなかった。


「お化けだよ。幽霊ってやつ」


 あまりにもはっきりと言われて言葉に詰まる。


 お化け、幽霊。怖い話を読むのは好きだが、それはただの怖いもの見たさ、ぶっちゃけ自分では出会いたくはない存在だった。


 そもそも本当にいるのかもわからない存在。


 だけど、はっきりと見てしまった。この目で。


「ほ、本当に幽霊 なんですか?」

「まぁ簡単に言うとね、ほら、この前見てたサイト。見るの止めるように言ったやつ、あれのせいだね」

「え、あのサイトが?」

「うん、あれは良くなかったね。思わず声かけちゃったもん」


 彼女と始めて会った夜、僕は怖い話を纏めているサイトを見ていた。


 他にもそういうサイトを見ていたが、そのサイトだけは他では見ないような話をたくさん掲載していて興味を持ったのだ。


 あの夜、彼女は側から見ても感じるほどの良くない空気を僕から感じ、忠告してくれたのだそうだ。


 あの時からすでに足を掴まれていたようで、電車に乗る前に踏みつけて腕を取ってくれたらしい。


「踏みつぶしたから、あれで取れたと思ったんだけどね」


 軽く伝えられる内容に衝撃を受けつつ、僕は女子高生がいい子だった事にも驚いていた。


 幽霊や痴漢冤罪かと疑っていた事を僕は心の中で謝っておく事にした。


「ていうかさ、なんか普通に信じてるけどいいの?」

「何がですか?」

「私が言うのもなんだけど、いきなり信じるような話じゃなくない?」

「だって、見ちゃったし、怖いし!」


 僕の答えを聞いた女子高生は「キミ、将来詐欺にあいそう」なんて失礼なことを言って笑った。


 よくわからないけど、その笑顔はとても嬉しそうに見えた。


「あの腕、手を繋ぐと見えるようになるんですか?」

「ああやってアタシの視点を貸してるから、だから今は見えないでしょ?」

「見えない。けど、見えないだけでまだあるの?」

「うん」


 なんの躊躇もなく肯定されて血の気が引く。


 今もあの薄気味悪い腕が自分の足を掴んでいるかと思うと泣きそうだった。


「ちょ、泣くなし」

「だってぇ」


 これまでの人生で一番情け無い瞬間は今だと思う。


 大の大人が情け無いと自分でも思うけど、それほどに恐ろしかった。


 だけど、そんな僕を見ても女子高生は呆れることなく、僕の頭に手を乗せ「大丈夫、アタシに任せて」とカッコよく呟いた。


 ごく自然に大人の僕の頭を撫でる女子高生。カッコよかった。


「どうにかしてくれるんですか!?」


 藁にでもすがる思いで聞き返す。


 このままだとどうなるのか知らないし知りたくもないけど、なんとかできるならして欲しかった。


「いいよ、特別ね。キミ気弱そうでほっとけないから」

「た、確かに気は弱い、と思います」

「そういう人には寄ってくるからね、自分からスキを作ってるような感じだから」


 だから特別ね。そう言って笑う彼女は、今の僕には女神に見えた。


「じゃあ、もう一回手を握るね。しっかりと知覚してもらわないといけないから」

「え、またあれ見ないとダメなんですか?」


 できれば遠慮したかったが、お祓い? するためには今のままでは存在が薄すぎて接触できないそうだ。


 しっかりと認知することで存在をはっきりとさせて、こちらからのアクションを受け付けてもらう。そうして祓う。のだそうだ。


 しっかりと理解したわけではないが、なんとなく理屈はわかる気がした。


 ただ、理屈はわかっても感情は別だ。


 あの腕、どす黒い緑色、発酵して膨らんでいるような、まるで水死体だった。


 もう一度あれを見ないといけないかと思うと吐き気までしてくる。


「大丈夫、アタシがついてるから、できる?」


 きっと僕は青白い顔をしていたのだろう。


 心配してくれた女子高生が顔を覗き込んできて励ましてくれた。


 小さな子供に言い聞かせるような、優しい表情。


「で、できます!」


 年下に母性を感じた僕は力強く答えていた。まるっきりお母さんに強がってみせる子供だった。


「うん、えらいえらい! じゃあ、これから祓うためにもう一度腕を見てもらうけど、一つ大事な注意ね、それは……」



 それは、見すぎないこと。だそうだ。



 祓うために見て、認知することで存在をはっきりとさせる。そうすることでこちらからのアクションを受け付けるようにする。


 それはつまり、向こうからのアクションも受けてしまうことになるという事。


「見すぎちゃうとどうなるんですか?」

「まず掴まれてる感触がわかっちゃうよ。それからあの腕はずっとキミの足を引っ張ってる。そのまま引きずり込まれるだろうね。向こう側の世界に」

「……もし、お祓いせずそのままにしておくとどうなります?」

「その腕、キミから気力を吸ってる。キミは日を追うごとに疲れていくし、腕は日に日に存在感が増して、普通に見えるようになる。最後は引きずり込まれるかな」


 そこでビビりの僕も流石に覚悟を決めたのだった。




「先に手順だけ伝えておくから」


 女子高生が教えてくれた手順はこうだ。


 まず手を繋いで僕が腕を見れるようにする。


 腕がいい感じに実体化したら、女子高生が華麗に祓って万事解決。


 めでたしめでたしだ。簡単、安心、僕は見ればいいだけの簡単なお仕事。


 それだけでもビビりな僕には辛いです。


「ま、実体化したら祓うのはすぐだから。ちょっとくらい見すぎても連れていかれる前にケリをつけるよ」


 ガタガタ震えている僕を励ますように言う女子高生は年下とは思えないほどカッコよかった。


「じゃ、いくよ」


 やっぱり女子高生と手を繋ぐなんていいのだろうか、なんてくだらないことを考えていると手に柔らかい感触を感じた。


 女の子に免疫のない僕はそれだけで心臓がバクバクと高鳴って、次の瞬間には自分の足を掴む腕が見えて心臓が止まりそうになった。


 この瞬間だけで僕の心臓には多大なダメージが蓄積されているに違いない。


「目をそらさないで、見続けて」

「は、はい!」


 僕を勇気づけるためだろう、女子高生が繋いでいる手を力強く握ってくれた。


 さんざんビビりまくっていた僕だけど、ここでやらなきゃ男じゃない。


 力強くつないだ手から勇気をもらい、しっかりと自分の足を掴んでいる腕に視線を向けた。


「あ……」


 その瞬間、僕がかき集めた微々たる勇気は、砂が流されていくように、瞬く間になくなった。


 腐ったような黒い緑色。水死体のように膨張している腕をはっきりと見てしまった僕は、もうその腕から視線を外すことができなかった。


 次第に腕が存在感を増していく。


 掴まれている脚に冷たくドロッとしたものを感じた。


 腕の感触なのだろうか、冷たい粘着質な泥を脚に塗り込まれているような、その感覚を何倍も倍増させた気持ち悪い虫唾が走るような感触。


 それだけでは止まらない。そのまま掴んでいる力が強くなり、脚に鈍い痛みを感じた。


 掴まれている部分は氷を押し当てられているように冷たく、脚から徐々に身体全体を悪寒が包んでいく。


 痛みと寒さで僕はもう何も考えられなかった。


 こんなことあってはならない。


 こんなものこの世にあってはならないんだ。


 気持ち悪い。


 きもちわるい。


 キモチワルイ。


 思考が悪いものに支配されていく。


 僕は自分の脚が引っ張られているのをただ見ていることしかできなかった。



「大丈夫、私を見て」


 声が聞こえた瞬間、掴まれている脚から身体全体に広がっていた寒気が緩和された。


 深いところにいってしまっていた思考が引き上げられる。


 視線を上げると、微笑む女神がそこにいた。


「よく頑張ったね。あとは任せて」


 僕はこの娘に一生付いて行こうと思った。


 そのうち女子高生の周りが青白く光り始める。本当に光っていたのかはわからないが、今の僕にはそう見えた。


「いただきます」


 漫画みたいな奇妙な呪文や、長い詠唱などそんなものはなく、女子高生は一言呟いただけだった。


 それからは一瞬の出来事だった。


 風を感じて光が見えなくなったあと、気付くと足を掴んでいる腕の感触もなくなっていた。


 自分の足元を見る。腕はない。


 女子高生とは手を繋いだままだ。見えなくなったわけじゃない。ということは、


「祓えた、のでしょうか?」

「うん、お疲れ。もう大丈夫だよ」


 全身から力が抜ける。緊張でガチガチに力を込めていたようで、体の節々が痛かった。明日は筋肉痛かもしれない。


「あ、ありがとうございます。声をかけてくれなかったら目を離せないところでした」

「気にしないで、だいたいそういうものだから。ねぇ、こういう言葉を知ってる?」



『深淵をのぞく時深淵もまたこちらをのぞいている』



 普段からオカルト関連に興味があった僕には聞き覚えがある言葉だった。


 ようは見すぎて魅入られる。向こうからも目を付けられるという事だ。


「ま、大抵はさっきのキミみたになっちゃってアウトなわけ」


 あっけらかんと言われる言葉に恐怖がぶり返してきそうだった。


 いろいろ聞きたいことはあるが、聞きすぎるのもよくない気がして、一番重要なことだけ確認する。


「あの腕はもういないんですよね?」

「大丈夫、もういないよ。ほら、手を繋いだままだけど、見えないでしょ?」


 そう言われて今更ながら手を繋いだままだったことを思い出す。


「ご、ごめんなさい!」


 慌てて手を放すも女子高生は気にしていないようで、いいよいいよと笑ってくれた。


「あぁ、そうだ。最後にスマホ、貸してくれる?」


 スマホをどうするのか気にはなったが、もう今更と思い素直に女子高生にスマホを渡す。


 女子高生は自分の掌に僕のスマホをのせ、もう片方の手でスマホの上の空間を切るようにはらった。


「ほい、終わったよ」

「え、今のなんだったんですか?」

「繋がりを断ち切ったの」


 どうやら、僕のスマホはあのサイトと見えない繋がりが出来てしまっていたらしい。


 一度見たら最後、ブラウザを閉じただけでは消えない繋がりが出来てしまうそうで、その繋がりをたどって、先ほどの腕のような良くない者がやってくることがあるのだそうだ。


 アフターケアまで完璧とは、何から何までありがたい限りである。


 僕はこの女の子に魅了されていた。


 颯爽と現れて僕を助けてくれた謎の女子高生。


 まるでアニメや漫画の世界に出てくるヒロインのようで、そんな子に夢中になるなという方が無理な話だ。


 彼女のことをもっと知りたい。そう思った。


「あの、何かお礼をさせてください!」

「え、別に気にしなくていいよ。アタシから提案したことだし」

「それでも、物凄く恩を感じてるので」


 何か彼女との繋がりをつくりたくて、僕は必死に提案する。


 彼女もにこやかに笑っていて、まんざらでもないように見えた。


「ふ~ん、まぁいいけど、お礼ってなんでもしてくれるの?」

「もちろんです!」


 僕が間髪入れずに答えると、女子高生は花のような笑みを浮かべた。


 あまりに綺麗で、年の割に妖艶なその笑顔に僕はくぎ付けになった。


「じゃあ、まずはキミの名前を教えてよ。そしたら私の名前も教えてあげるから」

「え、そんな事でいいんですか!?」

「そんな事って、名前って重要なものでしょ?」


 言い返されて納得する。


 確かに、命の恩人に名乗らないのは失礼だし、この子の名前も知りたい。


「そ、そうですね。僕は――です」

「へぇ、いい名前ね」


 僕はそこで違和感を感じた。


 はっきりと声に出して言った名前が、自分では聞き取れなかったからだ。


 その時、どうしてそう思ったのか自分でも分からないけれど、僕ははっきりとこう感じた。


 まるで、名前が音が何かに吸い込まれた……いや、食われたようだと。


「じゃあ次は私の名前ね、私は――っていうの」


 にこやかな笑顔で名前を教えてくれる女子高生。


 僕はしっかりとその名前を聞いた。


 耳ではその音をしっかりととらえた。


 頭でも、彼女の名前を理解した。


 けれど、言葉として、僕が知っている人の言語として、彼女の名前を発音する事が、どうしても出来なかった。


 僕の困惑が高まる中、まるで気にしていない女子高生は機嫌良さそうに語り掛けて来る。


「実はさ、駅でキミと初めて会ったあの日、あの日より前に私は、キミのこと知ってたんだよね」

「……そうだったんですか?」

「うん、そうだよ。私が一番初めにキミを見つけたんだもん」

「え、見つけたって?」

「キミがこの辺に来るようになってからずっと見てた。だからね、後からあの腕がキミを掴んでるの見てすっごくイライラしちゃった。それは私のだーってね」

「……あの」

「まぁでも、余計な存在が寄って来るのもしょうがないよね。だってキミはこんなに魅力的で、こんなにも美味しそうなんだもの」


 話の内容が途中からおかしくなっていく気がした。


 女子高生は可愛らしい笑顔のまま僕に話しかけてくる。


「嬉しいなぁ、キミが名前を教えくれて、私を受け入れてくれてよかった。私はね、ず~っとキミを見てた。やっとキミも私を見てくれたね」


 そう言われて、僕はようやく気が付いた。


 僕は見すぎてしまったんだ。


 あんなに見すぎるなって教えてもらったのに……。


「お互いの名前も交換できたし、これでもう私のもの」


 そう言って差し出された綺麗な手を、僕はすぐには掴めなかった。けど、


「ほら、おいで。なんでもするって、言ったよね?」


 そう言われて大人しく手を握った。


 女子高生の手は柔らかくて気持ちよくて、それでいて、氷のように冷たかった。

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