サンタバイト

QUILL

サタンバイト

「ねぇ、明日のイブは一緒に過ごせるよね。朝まで横で寝かせてほしいし、キスくらいはそろそろ良いよね……」


僕はおもむろに取り出したスマホの通知を見て、その文面を鼻で笑った。クリスマスを明後日に控えた未明町の夜は、普段からネオンが多いのにLEDの電球が眩しく明滅していた。僕は邪魔になった女からのLINEの返信を考えながら、ホテルが連なり合う裏通りを歩いていた。


「俺以外にも良い奴いるだろ」


頭の中にまず浮かんだ言葉は、これだった。けれど、これくらいじゃ生温すぎてあの女には理解できないであろうこともまた、分かっていた。散々考えた末に、「お前以外に好きな子ができたんだ、その子と順調だからこれ以上俺に関わらないでくれ」と、強めに返すことを決めた。さっきすぐにポケットへ戻したスマホをまた取り出して、その文面を書き起こした。指が震えて、思うように打てなかった。けれど、一言一句間違いが無いように確認しながら打ち込んで、僕はそれを送った。たったの2行程度なのに、打つのに3分以上掛かっていたことに気づいた。




 僕はまた、未明町の夜を彷徨い始めた。いつもなら、沙羅は一番街のアーチを潜ってから3本目の電柱の影に控え目に座って待っているはずだが、今日はどうなんだろう。



さっきしっかりと別れを告げた茉菜という女は、顔にも性格にも惚れたわけじゃなく、都合が良かったから付き合ってみただけだったのだ。軽く酒で酔わせて、そのままの流れでホテルへ行った。そこから3回くらいヤッて、その割には別のベッドで眠った。それからも何回か、すぐには寝れなそうな蒸し暑い夜に電話を掛けて、疲れ切るまで果たし合った。けれど、季節が夏から秋へ移りゆく頃に、彼女はデートの誘いを持ち掛けてきた。僕はこれが心外だった。僕が彼女に好意を持ったことは一度もないし、まして「好き」などと口にしたことも一度もなかったのに、彼女は勝手に勘違いをしていたのだ。僕は深く恐れた。よくもまあ美容というものに一切努力をしていないようなあの顔面で、僕を射止めたなどと思い込んだものだ。ホテルで落ち合って、チェックアウトは別々で出てくるのだって隣を歩きたくなかったからだと、そんなことも分からなかったのだろうか。


「ごめん、仕事があるんだ」


僕はそう言ってデートの誘いは全部突っぱね、夜の誘いも減らしていった。それからだった。電話が何度も何度も掛かって来るようになったのは。スタンプも嫌がらせのように送られてきた。僕は頭がおかしくなりそうになって、別れたいという明確な意志を匂わせ始めた。しかし、鈍感なのかわざとなのか、あの女はそれに全く気付かない風だった。だから、寝る時だけは何の通知も来ないようにしていたのだが。



と、そんなことを思い出しながら目当ての電柱の前まで来るも、沙羅の姿は見当たらなかった。今夜は珍しく、体調でも崩したのかもしれない。僕の気持ちは、完全に彼女に傾いていた。




 沙羅がいない夜、僕は特にすることも無くて、未明町を意味もなく練り歩いていた。未明町の入ったことのない通りに足を踏み入れると、高級宝石店が目に入った。


「良いなぁ」


本当に羨ましげに吐いたその言葉は、宝石を自分の懐に所有する人への羨望ではなくて、今自分の中で本命になっている沙羅へプレゼントしたいという純粋な恋心の表れだった。けれど、僕を含めてこの未明町という街にいる人間は、常に金欠を極めているのだ。何故ならば、異性をたぶらかして毎晩ラブホに入る金や、孤独を紛らわすために世間一般的にはチャラいホスト、キャバ嬢の類に散財するからだ。この街に王子様なんていない。女王様だっていない。けれど、僕の中では沙羅はたまらなく可愛い。黒いオフショルダーのニットから、華奢な鎖骨が覗いて、それがべらぼうに唆るのだ。沙羅に何かをプレゼントして、本格的に付き合い始めたい。そんなことを思いながらまた、来た道を引き返す道途、電柱に気になる貼り紙を見つけてしまった。


『サンタ急募、日給3万円』




 行くしかない、と思った。クリスマスイブは明日で、募集してるのは今夜の仕事。ならば、今夜稼いで、明日は沙羅に何か3万円のプレゼントを買ってやれるんじゃないかと考えた。貼り紙を読み込んでみると、どうやら、サンタとしての夢の運搬作業ではなく、プレゼントを荷詰めする裏方の仕事らしいのだ。しかし、そのプレゼントは一体、誰の元に渡るのだろうか。そんなに大々的にプレゼントを準備して、クリスマスの夜に子供へそれを届ける企業など見たことも聞いたこともないが。僕は興味本位でそこへ行ってみることにした。場所は、未明町3丁目デビルビルの地階。駄洒落のようでふざけているように見えるかもしれないが、何度自分の目を疑ってその部分を見直してみても、そこにはデビルビルと書いてあった。




 未明町、3丁目。セメント塗りの建物や、煉瓦造りの建物が立ち並ぶ中で、それはあった。1つだけ、鉄筋コンクリート造の建物。夜の帳の中にひっそりと溶け込んだ周りの建物とは違い、それだけが何だか冒険RPGのダンジョンのような気味の悪さでぼんやりと浮かんでいた。本当に、ここなのだろうか。恐る恐る1歩を踏み出して、また1歩後ろに退いて、そんなことをやっていたら本当に勇者になったような気分になって、満月の空を少し仰ぐと、スチール製で観音開きの扉を開けた。



ガタンと耳障りな音で扉が閉まると、そのビルのロビーらしき空間には沈黙が流れていた。赤を基調としたタータンチェックの絨毯や、一人掛けの革張りソファが綺麗に規律正しく並べられたそこは、ラウンジのような独特な雰囲気を放っていた。ひとまず奥の方にあるフロントまで行って呼び鈴(ここではアナログにベルが置いてあった)を鳴らすと、「少々お待ちください」との指示があったので、僕はそのロビーの雰囲気を味わうことにした。




 改めて細部を見回してみて、やはり不思議な建築だと、素人目で見ても思った。そのビルの階上がどこまであるのかは分からなかったが、ビルの天井がガラス張りになっていて、日光を直にフロントに取り入れるようになっていたのだ。採光の面で考えればものすごく良いことだと思うのだが、ビルであまりこういうタイプの建築は見ないので、少しだけ不思議な気分だった。

そこから覗く冬のくっきりした月を見て、あんな寒空の下を飛び回るサンタがいるならば、彼は相当ストイックなんじゃないかと、そんな子供みたいなことを考えた。やがて、フロントの奥から黒いローブを着た覆面のスタッフが出てきて、「これにサインをお願いします」と言った。僕はそれに快く応じた。ペンを受け取り、サッと名前を書いて返した。その紙(これは誓約書だった)には、ざっとこんなことが書いてあった。


1.今夜は立派な従業員の一人として、心を込めて顧客子供の夢を詰めること。


2.顧客子供の夢の為ならば、サタンになることも厭わない。


3.このバイトのことを他人に口外しないこと。特に顧客子供需要を壊すような言動は以ての外。




 契約書にサインをすると、「承りました」と黒いローブは言った。ここで気付いたことだが、よっぽど黒いローブは正体がバレたらいけないのか、声までもマスクの下に変声機のようなものを入れて声を変えているのだ。閑静なビルのロビーに、奇怪で、耳障りで、不審な音としてそれは響いた。契約書を挟んだバインダーを手にした黒いローブは、奥の方へ向かう。僕はまだどうしていいのか分からずにソファに深く腰掛けていたが、「こっちきんしゃい」と言われた。僕はその言葉の響きに不思議な感覚を覚え、反射的に腰を上げた。ニュアンスで意味が分かるようなその言葉だが、僕はそれを聞き慣れていたのだ。黒いローブが僕を招く左手に、鈍く光が反射した。




 エレベーターホールには豪華なシャンデリアが掛かっていて、僕は思わず驚嘆せざるを得なかった。黒いローブは無駄な発言はせず、黙っていた。僕だけがそのシャンデリアや豪華絢爛な建築に目を見張りはしゃいでいるのは、何だか結婚式場に初めて来た子供のようだと思ってしまい、そんなに綺麗でもない服の襟を正した。



結婚式、というと蘇るのは5年前の記憶だ。恥ずかしい話だが、僕には妻がいる。結婚式の日は見事に雨で、綱渡りのような恋愛が好きだった僕は、何だかもうゴールをしてしまった風で、つまらなく思っていたのだ。妻に飽きるのは案の定早くて、この町に来た。それがつい2年前くらいの話で、最初は風俗に通っていたのだ。だが、とあるウイルスが流行し始め、僕の行きつけの店は閉店してしまった。元々胡散臭い表情で僕に奉仕する彼女らにシラケる瞬間も無くはなかったし、生身の女性と交わりたいと思い、僕はこの町でナンパを始めたのだった。と、回想を止めるようにエレベーターが到着して、またもや「きんしゃい」という言葉と共に僕はサンタの作業場へ向かった。



ドアが開いた、瞬間だった。

後ろからいきなりロープを身体に巻き付けられ、素早く拘束されたのは。突然のことに身を守る術もなく、僕は相手のされるがままになった。そして、思いっきり前に蹴り出されると、僕は勢いよく顔からぶっ倒れた。そして、顔を上げた先に、恐ろしい光景を目にした。



教会のような空間、椅子が沢山並び、そこには数十人、いや、百数人いたかもしれない……というくらいの数のサンタが暗くぼんやりした闇の中に座っているのだ。そして、祭壇のように設えられたサンタの視線の先の空間には、裸の女性が吊り下げられている。僕は目を細めて、それが誰かを多少認識しておこうと思った。けれど、その女性は僕の知っている人だった。もっと言えば、数回見たことのある裸だった。華奢な鎖骨、控えめなおっぱい、雪のような美白……。ああ、実に綺麗だ。けれども、彼女、いや沙羅は眠っているようだ。鎖で逃げられないように巻かれた、僕の最愛の人——。


「おい、起きろ!」


黒いローブが大声で呼びかけると、沙羅はゆっくりと目を開け、そして、

「ぎゃあああああああ!」と取り乱したように叫んだ。自分が身ぐるみ全部剥ぎ取られていることへの恐怖だろうか、いや、違うのかもしれない。沙羅が見ているのは、椅子に詰めて座るサンタの姿。何だろうと気になったが、生憎、拘束が解か れなければ見に行くことすらままならない。過呼吸を繰り返す沙羅がこちらを捉え、そして、安心して蕩けるような何とも言えない表情をした。


「やあ」


僕は柄にもなく気さくに振舞ったが、思ったように声が出ない。


「どうしてここに?」


そう訊ねる沙羅に対して、「こっちのセリフだよ」と投げかけた。


「いや、私はクリスマスが近k……」


「全く同じだよ」

と僕も言って、その勢いで問いかける。


「黒いローブさん、僕らは今日は何をすれば許されるんですかぁ?」


僕がそう言うと、

『うるさい!』といきなり声を荒らげ、そして、おもむろにナイフを取り出し、顔のスレスレで振りかざす。僕のガラガラ喉はとうとう悲鳴すら叫べず、蓑虫のような情けない姿で転がる他なかった。




 黒いローブに何かを飲まされた後、数分気を失っていた僕は、取り乱して発狂する沙羅の声で目覚めた。何が起きたのかと心配になって目を覚ますと、沙羅はそんな僕を見るなり少し涙を浮かべた。何だろう、ジワジワと痛みを感じ始め、腕を見てみると、皮が削がれていた。いくつもの血管が、テレビ台の裏のコードのように断線して血が吹き出ていた。そして、後ろからは生温かい風が吹いているのを感じ、僕は振り向いた。エアコンか何かの設備から、物干し竿に掛けられた何かにつけて風が吹いている。意図的に焦点を合わせようとしない目は、きっとそこに掛かっているものを予感していたのだと思う。恐怖が膨れ上がる感覚と共に焦点は次第に合っていき、やがてそれを捉えた。それは、削がれた僕の右腕の皮膚だった。


「どうして……」


半ば独り言のように吐いた言葉に、黒いローブが答える。


『約束しただろ?顧客の夢の為だったら、サタンにもなるって』


「サタン?サンタじゃなくて?」


耳を疑った言葉に、黒いローブは高笑いをした。


『ハッハッハ、いやぁちゃんとああ言うのは読まなきゃ駄目だよ』


「サタンって何ですか?」


質問をした僕に、黒いローブはまた笑う。


『敵対者、堕天使って意味よ』


それを聞いて、僕は些か疑問を感じ得ない。


「僕は誰と敵対してるんですか?」


『この街の女性全員よ』


言葉に詰まる僕を嘲るような口調で、黒いローブは言う。


『だからあなたには、制裁が必要だった。ここに来る人は8割が金に目の眩んだ愚人間なの。だけど、その中でも善良な人だっている。そんな人には寄付という形で、プレゼントを提供してもらっているわ』


複雑化してきた話を要約するように僕は問う。


「つまり……。この会社は身体の器官の何かしらが足りていない顧客の夢を叶える需要に応える為に設立された機関っていう感じかな?」


『機関って言い方は、うちみたいな闇組織には合わないと思うけれど……。そう、ここは、身体の器官を提供してくれるドナーを金の匂いで誘き寄せて、その容姿、言動からどんな処置を下すかを私が判断しているの』


「でも、人は見た目だけじゃ分からないんじゃ……」


黒いローブはまだヒラヒラと揺れている僕の右腕の皮膚を悪戯に弄ったりしながら、『事前調査をしているのよ、君さ、私の姿とか言動に不審点とか感じなかった?』と言う。


僕は恐ろしくて気づきたくなかった最悪の正体を、恐る恐る口にした。


「もしかして、絹子?」


絹子とは、僕の妻の名前である。




 絹子と出逢ったのは、自分探しという名目で昔行っていた一人旅でのことである。一人旅とは言えど、孤独感は常に感じていて、ただ、色々な地域の美人さんなんかを見つけて、酒で引っ掛けられないものかと、そんな下心も携えながら旅に出ていた。そして、旅を始めて半年ほどになる頃、12月は博多ラーメンや明太子を食べたいと思い、福岡に行ったのだ。その福岡のクリスマスマーケットで、僕と絹子は出逢った。ホットワインを飲みながら顔を赤らめているおひとり様の博多美人。僕はすぐさま声を掛けた。


「僕、ここら辺に1人で旅行に来た者なんですけど、右も左も分からなくて。もし良かったら、あとの3日間くらい、付き合ったりしてもらえないですか?」


「良いよ、初めてなんでしょ。忘れられない旅行になると良いね」


白い歯を覗かせてニっと笑う彼女は、クリスマスの魔法もあってか、とても可愛く見えたのだ。その夜はまだ、彼女に言い寄ったりすることもできず、話を少しして、隣同士別のベッドで眠った。次の日からは、彼女に観光スポットを教えてもらい、二人で福岡のそこかしこを周った。二人で美味しいグルメもたくさん食べて、ホテルに入った。昨日よりも少し良い部屋にもなって、彼女も僕の想いに気づき始めていたのかもしれない。彼女はキスを拒まなかった。そして、キスだけじゃ満ち足りなくなって、彼女は吐息混じりになって、冬の人肌恋しさのようなものは、次第に融解していったのだ。


「電気を消して」


彼女の身体は、月光の下で初雪を思わせる白さだった。



最終日にもなると、僕らはまるでカップルのように手を繋いでいた。そして、もちろんホテルでも電気などは消さなかったし、彼女は自分から脱いでくれた。けれど、僕が後々申し訳なく思ったのは、欲求が止められずに、生身で交わり合う僕と彼女をまだ、ギリギリ隔てていたあれを行為の途中で外してしまったことだった。旅情に任せてそれを外して、僕は見事に彼女との一生を約束させてしまったのだ。充足感と共に押し寄せた罪悪感の波で、ベッドの端っこでただ僕は黙っていたのだ。そこに彼女、いや絹子は抱きついてきて、耳にそっとキスをしたのだ。


「良いよ、私もずっと寂しかったから」


絹子は、妊娠が発覚した夜、福岡を出てきたと僕にLINEをしてきた。




 そんな出逢いを超えて結ばれた夫婦だったのに、僕は絹子にすぐ飽きてしまったのだった。子供の面倒は彼女が見て、僕は「まだ仕事」「まだ会議」「今日は上司と飲み」などと都合のいい言い訳を立てて、大して実りもしない仕事は定時までに済ませて、毎日風俗通いを始めたのだった。それが、さっき思い出したことへと繋がる過程だった。黒いローブは、もう正体を分かったものだと僕の表情から推測したのか、仮面、そしてフードを外した。やはり、絹子だった。そして、絹子は言った。


『あんたがこんなクズ人間じゃなかったら、私もこんなことしてなかった!』


鬼刑事のような形相で僕に詰め寄り、血塗れのナイフを次は左腕にかけた。


『もう麻酔なんてしない、あなたは痛みで自らの罪を自覚して!』


そして、ローストビーフのような切れ味でザクリ、メリメリと音を立てながら、皮膚は剥がれていったのだった。


「痛い痛い!!」


「拓郎さん! 拓郎さん!」


沙羅が僕の左腕を見ながら叫ぶ。まだ今どういう状況なのかが、飲み込めていない様子だ。


「どうしてこんなことするんですか!?」


沙羅が叫ぶと、『うるせぇなぁ!』と絹子が叫びながら、今度は沙羅の方へと進んでいく。


『どうせそんな姿で拓郎とも交わってんだろ、このクソビッチが!』


「そんなこと、ない!」


泣きそうな顔で反論する沙羅は、やはり可愛いと思った。


『いい加減現実呑み込めよ! 私が拓郎の妻なんだよ! それ以上喚くなら、てめぇも拓郎みたいな憐れな姿にしてやるぞガキが!』


ついに沙羅は泣き出してしまう。僕は沙羅がいたたまれなくなってきて、暴れ出した。


「やめろ! 沙羅は何もしてないだろ!」


『いや、この街であんたを魅了した。それだけで有罪。てか、暴れ回んない方がいいよ。ほら、さっき麻酔に混ぜといた脱毛剤が効き始めてる』


見ると、暴れたせいか、振り乱した髪の毛が全部抜けていた。


『いい加減反省した? ならそろそろ解放してあげてもいいけど』


いや、俺はこの女が心の中でどうしても許せなかった。タイミングを見計らって、絶対自分の手で絹子を殺してやる。僕は首を横に振った。




『そうですか、現在回収できているのは、右腕の皮膚と左腕の皮膚ですね〜。それじゃあ、次はどうしようかなぁ』


絹子はそう言いながら、吊るされた沙羅の下にあった扉の奥へ消えていき、数秒後、サンタの白い髭のようなものを持ってきた。


『はい、これ付けるね〜』


ベチャッとした感触と共に貼り付けられた白い髭に、僕は不快感を覚える。


『あらやだ、可愛いじゃない』


そう言いながら機嫌良さげな絹子は、部屋の片隅にあったコンポからワルツを流し始め、それに合わせてステップを踏む。


「頭おかしいよ、あなた」


そう言ったのは沙羅。僕は恐ろしくて、冷や汗をかく。


『そうだなぁ、ハッハッハ! でもこいつ、私と不倫してるのもあるけど、それに加えて二股してるんだよ』


「そうなんですか?」


疑惑の目を向ける沙羅の顔はまだ、少女の顔立ちだった。


「してないよ。全部、こいつの絵空事だ」


そう言うと、沙羅は再び安堵したような表情で、「うん、分かったよ」と信じた。


『馬鹿どもが。私だったら、そんな嘘、口が裂けても言えないわ!』


そう言いながら僕の白い髭を剥がし始める絹子。

顔の表情までもが共に剥がれ始める。


「ああああああああぁぁぁ」


『あら、口まで裂けちゃったわねぇ。なんちゃって』


絹子はそんな皮肉たっぷりのギャグで僕らを侮辱し、もう僕は喋ることすらできない。そして、口が裂かれた時の反動で飛び出た目玉も時間の問題で、こぼれ落ちる。ポロリ、ポロリ。


——と、その瞬間。


ピンポン。エレベーターが着いた音が鳴って、後ろから何者かが駆け寄ってくる。


「大丈夫!?」


この声は、さっき振ったばかりの茉菜のものだ。僕は答えられず、ただ首を横に振る。


「でももう、手遅れね……。私も捨てられた身だし、好きにしてちょうだい」


そう茉菜は言って、絹子は恐らく頷いた。


『じゃあ最後の禊といきましょうか』


耳が、脳味噌が、心臓が、胃が、膵臓が、肝臓が、腎臓が、そして性器が……。

僕は、骨だけになった。意思が無くなった。処置の全てを受けた。


『おめでとう、これで君はもう人間じゃない』


「そうね、サンタさん、いや、サタンになれたのね拓郎さん」


吊るされたままの沙羅は発狂した後、気を失った。そして後の二人は、普通のクリスマスの雰囲気で、ププププ、ワハハハと笑いあった。


『きっと拓郎って、子供の頃にサンタがプレゼントを置いていったっていう嘘を友達に言われるまでずっと信じて疑わなかったタイプなんじゃない?』


「確かに! そうじゃなかったら普通、こんな怪しいビル入っていかないもんね」


『うん、サタンになるのも無理ないわ。なんてね』


けれど実は、僕はこんな仕打ちを実際に受けたわけではなかったのだ。これは、数日後になって、無くなったと思った意識が戻った時に気づいたことで、仕組まれていたのは師走のまだ初めの頃のことだった。




 どうにも僕一人で制御することのできなくなった性欲は、あの街で暴走をする以外に、発散する術が無くなっていた。それを自覚していながら、僕個人ではどうすることもできない切実な問題へとそれは変わっていき、ある日、奥さんに相談を受けたのか、僕の兄が家へとやってきたのだ。


「お前は恋愛中毒者だ、病人なんだ、女を平気で傷つけられるお前は病院に行った方がいい」


と、そんなことを言って、過去にラグビー部で鍛えた身体で僕のことを抑えつけながら車に乗せたのだ。人生の終わりだと思った。どうやって死んでやろうかと思った。けれど、あの街からやっと離れられることに少しだけ安堵も覚えた僕は、フロントガラスに引き攣った笑顔で写っていた気がする。山奥の真っ白な精神病院に連れていかれ、まずは様子が見たいと、処方箋を貰ったのだ。病名はやはり、恋愛中毒で、医者は哀れそうな目で僕を見ていた。僕は処方箋をもらっても、いつもと同じような生活を送っていた。僕が変わったところと言えば、頼るのが女性ではなくて、その薬に変わったことだ。あの街で馴れ合う男女を見て殺意が湧いても、あの薬を飲めば、幻覚が女性を敵対する者、恐ろしい生き物だと錯視させてくれるのだった。けれど、クリスマスが近づいてくると、とうとう僕は耐えられなくなって、薬を一気に飲んだのだ。すると、幻覚はあらぬ方向に逸れ、恐ろしい殺戮の一部始終を僕の眼前に描いた。僕はあの日のショックを今も忘れられない。奥さんが本当に絹子だったのか、僕は沙羅という子を好きになったのか、それすら僕の記憶からは抜けていってしまっている。毎朝鏡を見ると、それこそサンタクロースのように、老いた男がそこにはいる。

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