2輪め


 パンクラッチオンはギリシア語で「全力」を意味し、打撃技と組技を組み合わせた格闘技である。賢者ケイローンはこの暴力的な格闘技に、無心で取り組むように、とアキレウスに教えた。

『パンクラッチオンには何事も持ち込んではいけません。相手に勝つという意識以外は』

 流れるように腕を前に出しすばやく打つ。先生の動きはなめらかで、重みなど一切感じさせない。しかし打ち込みを一つでも食らえば身体中に衝撃が走る。余念を捨てなければ相手の動きを見定められないとアキレウスはまず教え込まれた。

 アキレウスは目をいっぱいに開き、相手をかわしながら隙を見つけて打ち込んだ。

「アキレウス、少しは手加減を……」

「今日はパトロクロスから誘ったんだ。もうやめるのか」

 パトロクロスが新技を考えたと言って鍛錬の後に引き留めたのだ。アキレウスはうずうずとして脚を前に振り上げた。重心を落とし、相手の虚を打つ。頭の中でシミュレーションを立てながら、ケイローン先生と対話した。

『アキレウス、あなたは左の軸が弱い。踏み込みは腰を落として』

『組み合ったときはまず首をおさえなさい』

 生まれ故郷プティーアで学んだ日々が遠く懐かしい。アキレウスは14歳になっていた。伸びやかに成長した彼の肉体は丈高く、精悍な体つきは彫像のようだった。

 成長したアキレウスにケイローンはどんな言葉をかけるだろう。同じほどの背丈になったのだ、先生は全くちがう技を教えるだろう。没頭している彼にパトロクロスが声をかけた。

「おまえならどんな相手だって勝てるだろう。おれでは相手にならない」

「そんなことを言わないでくれ。おまえだってじゅうぶん強いじゃないか」

 パトロクロスは2歳年上である。15歳から軍事訓練に参加できるため、彼はスキュロス軍ですでに頭角を表していた。

「アキレウスも来年は兵士に志願するのか」

 パトロクロスの問いにアキレウスは少しだけ考えて返答する。

「……どうだかな。おれは戦に出たいが、母上がお許しにならないだろうな」

「予言か」

 女神テティスは息子が若くして戦で死ぬという予言を恐れていた。しかしアキレウスにしてみれば戦で死ぬほど名誉なことはない。周りの男たちも幾人か戦で亡くなっているのだ。母の嘆きはちっとも理解ができなかった。

「リュコメデス王には申し出るつもりでいる」

「そうするといい。戦場で共に駆けるのがたのしみだ」



 修練場から居住区にもどる路地は正午の強い日差しが照りわたり、青々とした月桂樹の影に入るとほっと息をつくほどだった。

「このへんで少し休んでいこう」とパトロクロスは言い、アキレウスも同意した。

「戦場に行くなら、恋人の1人でも欲しいものだなあ」

 パトロクロスは指で月桂樹の葉を弄びながら言った。月桂樹には神と娘の恋物語がある。

「おまえに身を任せたい女はいくらでもいるだろう」

「勝利を捧げたいと思える乙女には出会えていないさ」

 親友と話しながら、アキレウスは隣家のミアのことを思い出していた。彼女は11歳になったはずだ。女性は月のものが来れば結婚できるので、彼女もパトロクロスのいう乙女になる。不思議な感じがした。

 年頃になったミアはあまり外を出歩かなくなり、居住区ですれ違うことはあっても、以前のように親しく言葉を交わすことはなかった。挨拶をするだけでうつむいて顔を隠しながらそそくさと通り過ぎる。

 その後ろ姿をアキレウスはぼんやり見送っていたが、自分の見送ったものがミアの尻のあたりと、すそから見えた白い足首だったことに気づいて、われに返った。

 ──おれはいま、いやらしい目で見ていなかっただろうか。

 だから顔を隠されたのかもしれないと、アキレウスは顔を赤くした。子供だったミアの体に丸みが加わってきたのは去年あたりからだったように思える。すらりとした体に丸みが加わり、肌が透きとおって光を帯びているようだった。見るたびに美しくなっていくミアの姿は彼を驚かせた。

 ──あの子も、大人になるのだ。

 パトロクロスとのたわいない会話で表れたミアの幻は、かすかな胸のうずきをアキレウスにもたらした。彼と別れたあと、アキレウスは家路をすすんだ。

 すると、ちょうど家からでてきたミアと鉢合わせた。彼女はアキレウスを見て顔を赤くし、体を反対に向けた。見てはいけないものを見てしまった気がして、アキレウスは慌てて目を逸らした。

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