1輪め


 エーゲ海を吹き抜ける風に乗って大鷲が羽ばたく。太陽に目が眩んだが、どこまでも見ていたいほど立派な鷲だった。あれはゼウスが化けた鷲か。昨日枕に聞いた神々の英雄譚を思い出してアキレウスの胸は膨らんだ。

 ──我が名はアキレウス。ペーレウス王と女神テティスの息子、俊足の英雄ぞ。

 いつかメドゥーサを倒したペルセウスのように名を轟かせるのだ。イアソンのように英雄たちと共に戦ったり、ヘラクレスのように冒険に出たりするのも良い。幼い頃に賢者ケイローンから学び、誰よりも速い脚と強靭な体を持っている。少年の前途は有望に思われた。

 だが、この運命の狂わせぶりはどうだ。アキレウスが9歳になったとき、母である女神テティスは突然現れたかと思うと「ここに暮らしていると危険だから」と、生まれ故郷プティーアから彼をスキュロス島に連れ去った。しかもアキレウスを守るために「人前に出るときは女装しなければいけない」という。

 母は過保護すぎるのだ。嫌いではなかったが、朗らかで豪胆な父ペーレウスのほうが一緒にいて気楽だった。生まれたときに強靭な体を与えてくれたのは何のためかと疑問に思ってしまう。

 12歳の幼い英雄は、窮屈な島で自由に空を舞う鷲をながめ、英雄譚に思いを馳せることがわずかな慰めだった。



 ギリシアの都市国家はどこも似た特徴を持っている。小高い丘の上に神殿、その下の広場をかこむように評議場や居住区がある。身分ごとに住む場所が違い、アキレウスたちが住むのは王族や高級官僚の区画だった。

 9歳の時にやってきて3年経つが、この街の様子がアキレウスはどうも好きではない。島だからか人の行き交いが少なく、近所付き合いにも積み重なった暗黙のルールがあるのだ。子どもたちの中にもそれはあって、アキレウスが大勢の子供と遊んでいると目に見える形になる。戦争ごっこで誰が将軍になるだとか、誰それと一緒にしてはいけないだとか。

 遊びたいように遊べば良いし、誰と何を話しても良いじゃないか。それが原因で揉め事が起こったとき、アキレウスは誰よりも腹が立った。そんなとき、気持ちを押さえ込むためにケイローン先生の言葉を思い出す。

『アキレウス、怒ったまま戦ってはならない。必ず破滅につながります』

 もう一つ面倒なことがあった。隣の家に9歳のミアという娘がいる。小柄で大人しい娘は花が好きで城壁の外へ行きたがった。兄弟がいれば一緒に行くところを、この家には兵士で取られている兄しかいなかったため、隣に住むアキレウスに声がかかるのだ。月に一回程度だが、女の子の守りをさせられていることが恥ずかしくて親友のパトロクロスにも黙っていた。

 午前の鍛錬を終えてアキレウスが帰ってくると、隣家の奥さんとミアが玄関に立っていた。奥さんは帰ってきた彼にうすい笑いを浮かべて話しかける。

「今日も鍛錬でしたか、ご立派ですね」

 お世辞を言われても目的は分かっていたのでアキレウスは黙っていた。

「申し訳ないんですが、またミアを外に連れていってもらえないかしら……」

 女性たちは結婚適齢期を迎えるとあまり外に出なくなる。くわえて隣家の奥さんは違う都市から嫁いできたので知り合いが少なかった。隣に住むアキレウスのほか頼む人がいないのだ。それを分かった上で断るのは気の毒だった。

「いいですよ」

 アキレウスはミアを連れて行くことを承知した。家に籠る気分ではなかったし、遊びに誘われて住民同士の暗黙のルールに従わなければならないのも億劫だった。

 黙っていたミアは表情をあかるくした。断らなくて良かった、とアキレウスは思った。



 城壁で囲まれた都市の外は農地と草原が広がっている。エーゲ海に浮かぶスキュロス島は年中晴れていて、陽に焼けた緑が島全体を覆っていた。その灰緑に白、黄、赤の花が咲き乱れている草原が城壁から程遠くないところにあった。ミアは野生に群集している花が好きだった。城壁を出るまでアキレウスにくっついていたくせに、花畑がみえると一目散に走り出した。

「あまり遠くに行くな。足元には蛇がいるかもしれないぞ」

 ミアは振り向いたが、アキレウスが自分を見守ってくれているのを確認して花に夢中になった。

 普段は大人しい少女も、女神の息子が護衛なら怖いものなしか。

 目を輝かせながら花を摘む少女をアキレウスは見つめた。無邪気なものだ。たしか昨日聞いた神話の中に、花摘みをしていて冥界にさらわれた少女の話があったな。

 ──黄色い水仙を見つけたペルセフォネは、あまりの美しさに驚いて水仙に両手を差し伸べた。すると、大地は大きく口を開け、多くのものを迎える王、多くの名を持つ冥界の王ハデスが、不死なる馬を駆って彼女の前に現れ出た。そしてあらがう処女をつかまえて黄金の馬車に乗せ、泣き叫ぶのも構わずに、無理やりにつれ去った……。

 神話の乙女にミアを重ねた。花を摘む少女は色白で髪が艶々と輝き、のびやかな手足をしている。だが9歳だ。頬はまるくて手も小さく、背丈も12歳のアキレウスの胸ほどしかない。花に夢中になるような子どもだ。

 アキレウスの視線に気付いたのか、ミアは顔を隠すように体の向きを変えてうずくまった。白い顔が見えなくなり、小さな背中が見えた。

 こんな風にそっけない態度をとるようになったのはいつからだろう。前までおんぶや手つなぎをねだってきたミアに、嫌われるようなことをした覚えはない。

 それをパトロクロスに相談すると、

「そんなことは分かりきったことだ。どこの娘に慕われているんだい?」

 と物知り顔で言った。あんまり鈍感だと泣かせるぞと茶化してくる。でもパトロクロスの言葉をアキレウスは信じていない。

 ──だってまだ、子どもじゃないか。

 風が花を揺らした。大きな百合がミアの前で揺れ、その花を手に取ろうと両手を差し出す。うなじに流れた汗がひやされて、その心地よさにアキレウスは放心していた。

 突然、悲鳴が聞こえた。ミアの姿がない。アキレウスは彼女のいた方向に一目散で走り、百合の咲いている先が崖になっていることに気づいた。ミアの体は半分落ちかけている。悲鳴をあげて地面にしがみつく彼女を、アキレウスはぐっと抱き上げた。

「大丈夫だ。もう目を開いて良い」

 抱いて地面に下ろした後も、ミアは目をつぶってアキレウスに抱きついていた。恐怖がこみ上げてきているのだろう。アキレウスは安心させるために震える肩を抱いてやった。

「大丈夫だ。安心できるまでこうしてやるから」

 やがて震えがおさまってミアは目を開いたが、うつむいたままアキレウスを見ようとしなかった。アキレウスは彼女が危険に晒した事に腹を立てていると思った。「まだ花を摘むか」と聞くと、もういい、と言ったので、腰を上げて城壁へ歩き出した。ミアは少し後ろをついてくる。

 そのまま無言で居住区にたどり着くと、家の中に入る前にミアは小さく頭を下げた。

「ありがとう」

 わずかに震えた声で言うと、ミアは走るように中へ入っていった。

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