第2話 別れと旅立ち


 ゴウッと燃え盛る森を、フィリスは空中から見下ろす。

 夜を真っ赤に染める炎を前に、フィリスは一筋の涙を流した。思い出の場所は跡形もない。きっとこれがこの場所との別れになるだろう。だから、師匠と過ごした場所だったとしても、森を燃やそうと思った。森を根城にしている魔物と共に。

「なっ、なんだこりゃあ……!」

「森が燃えとるぞ!」

「早く火を消せ! この森には貴重な薬草があるんだぞ! それに、あの子が……!」

 森が燃えていることに気づいた村の人々が、慌てふためきながら続々と森の入り口に集まってくる。そのとき、空に浮かぶフィリスを認めた。

「フィリス!? まさかおまえの仕業か!?」

 フィリスは答えない。

「なんでこんなことを……!」

「これじゃあ森が枯れちまう! 何も残らねぇぞ!」

「フィリス!」

 フィリスはおもむろに口を開けた。

「もう、ここに用はないから」

「何を言っているんだ! ここはおまえの師匠が大事にしておった森だぞ!」

「どこに行くつもりだ、フィリス!」

「わたしは悪い魔術師。大切なものは壊していく」

 頬から流れ落ちていくフィリスの涙が、魔術によって大きな水の塊になっていく。それが森を焼き尽くした炎を覆うように飲み込んだ。それに気を取られていた村人たちは、空からフィリスの姿が消えていることに遅れて気づく。

「フィリスは!?」

「どこにもいないぞ!」

「あの馬鹿っ」

 村人たちは知っていたのだ。フィリスとその師匠が、森の魔物から村人たちを守ってくれていたことを。貴重な薬草を格安で売ってくれていたことを。

 理由があって悪役になっていたことも、ちゃんと知っていた。

 けれどそれに気づかぬふりをするほうが恩返しになるというのなら、乗ろう。そう村人全員で決めたことだった。

「おい、みんな! 薬屋の裏手に薬草の苗が置いてあったらしいぞ! それもかなりの数が!」

「フィリス……そんな……。本当に馬鹿な子だっ」

 あんなに勢いよく燃えていた森は、今やすっかり鎮まっている。

 もともと魔物のせいで動物も棲みつかなかった森だ。魔物の声が消えれば、そこには静寂だけが広がっていた。


「――本当に良かったのかい、フィリス」

 夜闇に紛れて森を後にすると、ゼインが後悔はないのかと訊ねてきた。

 フィリスは「ない」ときっぱりと答える。

「だってもう、守れないから」

「私が言うのもなんだけど、あの森には思い出があったんだろう?」

「うん。でもね、思い出は、いつだってここにあるんだよ」

 そう言って自分の頭を指差す。ゼインとルディが二人揃って目を点にした。

「こういうときは心が定石だと思っていたけれど。どうしてそこなんだい?」

「師匠が言ってた。記憶は脳が処理する」

 すると、ゼインがたまらずといったていで噴き出す。

「ははっ、確かにね! 君の師匠はとても理知的な魔術師のようだ」

「それ、偏屈な魔術師って意味ですよね、ゼイン様」

「ルディ、人聞きが悪いな。私はそんなことは言ってないよ」

 それにしても、とゼインが話題を変えた。

「フィリス、君は私の想像以上にすごい魔術師だったよ。私は魔術に関しては知識しか知らないけど、知識があるからわかる。高密度の計算式が必要な飛行魔術と、大規模な計算式が必要な広範囲魔術の同時展開は、宮廷魔術師くらいのレベルじゃないと難しい。魔術師資格は持ってる? 何級だい?」

「確か……四級?」

「二級は受けてないの?」

「師匠が、資格がないのは面倒だからって。一番近くでやってた試験だけ受けた」

「それが四級だったのか。惜しいね。それが二級だったら君は宮廷魔術師の仲間入りだった」

 でも、とゼインは続けて。

「今となっては、君が四級試験しか受けていなくてよかったよ。そうじゃなかったら、こうして君を勧誘できなかった。弟に君を取られていたかもしれない。ただそうだな……悪い道に君を巻き込む私は、きっと噂の悪名高い魔術師より悪い人間なんだろうね」

 ゼインがわずかに瞼を伏せる。自嘲気味な笑みを浮かべるそれがなんの感情の表れなのか知ろうとして、ゼインのマントを引こうとしたとき。

「ゼイン様は悪い人間なんかじゃありません!」

「ルディ……。おまえはいつも私を肯定するけど、たまには否定してもいいんだよ?」

「俺はゼイン様に救われて、好きで一緒にいるんです。否定なんてっ――悪戯好きなところだけは、ちょっとあれですけど」

 きょとんと、ゼインから自嘲的な表情が抜ける。ルディはなぜか気まずそうに口をもごもごとしていて、フィリスはそんな二人を交互に見やった。

「ははっ、それは否定するんだ」

「否定というか、控えてほしいというか……! 今回のことだって俺は反対だったんです! 悪名高い魔術師に会いに行くって言ったときも、絶対面白がってるのがわかりましたし! ほんと、無資格じゃなかっただけマシですけど、実はすっごく弱くてどうしようもないくらい最低な魔術師だったらどうしてたんですか?」

「ああ、それなら大丈夫。ちゃんと問題ない確信はあったんだ。実は以前、この村にお忍びで視察に来たことがあってね。父上の視察の同行だったんだけど」

 ゼイン曰く、国境に近いこの村は、隣国の情報を得るのに便利な場所なのだという。そしてそのときにイリスの森の魔術師に関する噂を聞いていたのだとか。

「あの森にはとても悪い魔術師がいるから、どうか近づかないでくれと村人に忠告された。でもほら、私に嘘は通じないだろう? そう話す村人は、悪い魔術師を本気でそうとは思っていなかった。これは何かあると思って様子を見に行ってみたら、見事に魔物と遭遇してね」

「ちょっ、俺知らないですよ、そんな話!」

「ルディが私の従者になる前のことだから。それで剣で応戦しようと思ったんだけど、それより先に、とてもかわいらしい魔術師が一瞬で助けてくれてね」

 ゼインがフィリスにウインクする。そう言われて思い出したのは、いつもの腕試しの荒くれ者とは雰囲気の違う、洗練された空気を纏う少年を助けた日のことだ。

「残念ながらその小さな魔術師はすぐに消えてしまったし、騎士が私を追いかけてきてしまったから追跡は断念した。でもそのあと、もう一度村人に聞いて回ったんだよ。『あの森には、とてもい魔術師しかいないよね?』と」

 村人は頑なに口を割ろうとしなかったが、そこはゼインの粘り勝ちだ。彼らは本当のことを教えてくれた。あの森の魔術師が魔物から村を守ってくれていること。けれど森の魔術師は、皇都の貴族の反感を買ってしまい隠れて生きていること。弟子を守るためにわざと悪名を広めていること。

『あたしらはあの二人に感謝してるんだ。だから旅人さん、どうか見なかったことにしておくれ』

 ゼインは村人の願いを聞き入れた。

「でも、いつかまた会いたいと思っていた。私の小さな魔術師に」

 頭を撫でられる。この大きな手は、どうして自分をこんなに安心させてくれるのだろう。

「女性の成長は男より早いと聞くけれど、まさかこんなに早いとは思わなかったな。もう小さな魔術師とは言えないね。これからは私のかわいい魔術師にしておこうかな」

「ん? ちょっと待ってください、ゼイン様。なんかそれ、言葉以上の意味があるように感じられるんですが。どういう意味です?」

「そこに気づくんだから、ルディはさすが私の従者だよ。まあ、今は全然意識してもらえていないけど、大丈夫、それも私が教えると約束したからね」

「ゼイン様!?」

 フィリスは賑やかな二人を黙って見つめる。師匠は亡くなる半年くらい前から寝たきりだったから、こんなに賑やかなのは久しぶりに感じた。心がふわふわとしている。

「ねえ、ゼイン。心がふわふわしているときは、どんな感情?」

「ふわふわ? んー、そうだね。フィリスは今何を思ってる?」

「賑やかなの、久しぶりだなって。あと、ずっとゼインに頭を撫でてもらいたいなって」

「「…………」」

 そう言ったら、なぜか頭を撫でるゼインの手が高速化した。

「? っ??」

 ゼイン? と名前を呼ぶ。彼は片手で目頭を押さえていた。

「うん、それも『嬉しい』だと思うよ、フィリス。あともしかしたら、『楽しい』もあるのかもしれないね」

「楽しい……そっか、これが。でも、嬉しいもあるの? だってさっきは、心がむず痒くなったよ。それが『嬉しい』じゃないの?」

「きっとどちらも『嬉しい』だよ。さっき言っただろう? 心は複雑だって。嬉しいにも種類があるんだ」

「ふーん」

 自覚したら、心がもっと弾み出した。これも嬉しい気持ちなのかと、なんだかくすぐったい気分になる。

師匠は何も言わなくてもフィリスの感情を理解していたように思うけれど、だからこそ、フィリスはこれまで自分の思いを口にすることがなかった。口にする必要がなかった。

 でもこうして思ったことを口にして、それがどんな感情に繋がるのか知れることは存外心が躍る。

「それで、次はどこに行くの、ゼイン? というより、どこに向かってるの?」

ぴたりとゼインの手が止まる。彼は夜闇に溶け込んだ先を見据えながら、口を開いた。

「次は鍛冶師の村、リディルハイトだよ」


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