「我慢」を種類化して考える

Syu.n.

我慢の分類化

「働いている以上、ある程度は我慢しないと」

「社会人として、それは我慢しないと」

「あなたはお兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」


こういった言葉を、誰しもが聞いた経験があると思う。


なるほど確かに、多かれ少なかれ社会の一員として過ごしている以上、

「我慢」をしなければいけないこともある。

だけど、「もう我慢できない」「我慢の限界」というのがあるのもまた事実だろう。

もちろん、私にもそれはあった。


「自分は、何に対して我慢しているのだろう?」

「客観的に、どこまでは我慢すべきなんだろう?」


「我慢すべきところ」と「我慢せずともよいところ」。

その線引きは難しいし、個人の性格、事情もあるので、明確な答えはないだろう。

ただ、少しでも明確にしようとした場合、一言に「我慢」で括ってしまうのに違和感を持った。

自分にとっての我慢、他人が思っている我慢。

そこに違いができた時、軋轢が生じるのではと考えたからだ。


「我慢」に対して考えるうえで、私なりに種類化、分類化したものを、この場を借りて述べたい。



結論から言うと、以下の4つに分類されると考える。


①「ヒト、人間としての我慢」

②「社会人としての我慢」

③「業界人としての我慢」

④「個人としての我慢」


それぞれ説明しよう。


①の「ヒト、人間としての我慢」とは、大人子ども関係なく、生きていくうえでの我慢だ。

この我慢はするべきではないし、させてはいけない。


例えば、「トイレなど生理的な欲求」、「体罰を受けている」と言った原始的な我慢である。

自分が原因ではない先天的、体質的なもの、例えばアレルギーもこれに含まれる。

アレルギーと言っているにも関わらず、「我慢して食べなさい」はナンセンスだろう。


一昔前のスポーツの現場であったらしい「練習が終わるまで水を飲んではいけない」と言う我慢も、これに含まれるだろう。

ただし、行っているスポーツなどによって変わってくる場合もある。

例えば「マラソン選手」は給水ポイントが限られているので、飲みたくても我慢させることも合理的だろう。

これについては③の「業界人としての我慢」で説明する。



②の「社会人としての我慢」とは、一般的ルールを守る上での我慢にあたる。

「法律を守る」ための我慢はもちろん、周囲の多くの人が守っているルールに従う我慢とも言えるだろう。


例えば、「列を作って並んでいるのに割り込まない」と言うのも、社会人としての我慢かも知れない。

最近のコロナ禍では「人前ではマスクをつける」と言うのも含まれるだろう。

マスクをつけるつけないで、コロナを移してしまう事は、私もまず無いだろうとは思っている。

だけど職場や周囲で着けている以上、不要な軋轢を避けるためにつけている所はある。

どうしても嫌なら、人前に行かなければよい。これは④の「個人の我慢」にあたると思うので、そこで説明する。


ただし、この「社会人としての我慢」にも例外はある。

①の「ヒト、人間としての我慢」である場合だ。

先の例で言うと、「緊急でヤバいから並んでいる人に事情を言ってトイレをする」など。

「緊急オペ」は言わずもがなだろう。

マスクについても、「体質上マスクかぶれがひどい」と言う事で、医師から証明書をもらうまでしている人がいたとする。

にも関わらず、「うちの会社ではみんなつけるようになっているから」と言う理由で、我慢する必要はない。



これまで述べてきた①と②について、「何をいまさら」とつまらない思いで読んでくれた方も多いかも知れない。

と言うのも、①と②については理解しやすく、私からしても説明しやすい内容だからだ。

・・ただし、③と④が加わると「我慢」の認識は結構、複雑になってくると考える。


この文章の本題、伝えたいことはむしろこれからなので、もう少し付き合っていただきたい。



さて、③の「業界人としての我慢」とは、その業界特有、独自のルールに対する我慢だ。

あるいは「その職場におけるローカルルール」も含まれる。

言われてみると結構心当たりのある方もいるのでは?


比較的わかりやすいと思われる例で言うと、「工事現場」における肉体労働に対するある程度の我慢は必須だろう。

締切間近の小説家さんがホテルで缶詰め状態も、一種の我慢と言えるだろう。

昨今特に、「教育現場」や「医療現場」に携わる人たちについては、我慢の連続だと思う。

先に述べた「マラソン選手が水分補給を我慢する」もこれだろう。


言ってしまえば、「うちの業界はこんなもの。それは覚悟してきたんでしょ?」なのだろうが、限度はある。

まずは①や②で挙げた「ヒト、人間としての我慢」「社会人としての我慢」ともとれる場合。

なるほど、どこにでも繁忙期、搔き入れ時はあるだろう。

だけどそれで、身体に変調をきたすのは、「ヒト、人間としての我慢」にあたるだろう。

変調まではいかずとも、そこにいる大多数が「ちょっとこれは・・」と思うレベルならば、「社会人としての我慢」に相当するだろう。


体力的な面から述べたが、メンタル面でも同様である。

「接客業なんで、暴言など色々言われるのは覚悟しないといけないかも知れない。でも、こう頻繁だと正直鬱だ」

うつ病だと診断されれば①の我慢だし、そうでなくても大多数がそう感じていれば②の我慢にあたるだろう。

「自分のミスじゃなくとも、謝らないといけないのはわかる。でもこのケースは理不尽過ぎる!」

これは同様に感じる人が多ければ②の我慢だけど、そうでないなら③の我慢にあたるだろう。

「違法じゃないかもだけど、スレスレのやり方・・・自分にはちょっと合わない」

これは業界人としては、グレーだけど我慢どころとするなら③の我慢。

だが、個人的考えも見えているので「個人としての我慢」ともいえるかも知れない。


③の我慢については、「この業界、今の職場でやっていくには我慢しないと食べていけない」という切実なレベルだろう。

誤解されても仕方ないが、いわゆる「プロ根性」で耐えている姿は、尊敬に値する。

だけど「プロと言えど人間」なのだから、今もし苦しんでいる「我慢」があるとした時、どの我慢にあたるのかを考えるのも良いと提案する。



最後に④の「個人としての我慢」。

これはひょっとしたら、単なる「我が儘」に見えるかも知れない。

「すべきではない我慢」の順位的にも、4つの中で基本的に一番下にあたる。

だけど、これは本当にケースバイケース。

「自分の生き方」を選ぶ上で、何よりも優先する我慢の種類となり得る。


先に述べた例から説明する。


「人前でマスクをつけないといけないのは、どうにも我慢ならない」

端から見れば、「いや、そのくらい大したことないでしょ?」と思えるかもしれないが、「個人にとっては我慢できない」ことなのだろう。

この人にとっては、②の「社会人としての我慢」よりも大きな我慢と言える。会社としては「社会人失格」かも知れない。

だけど、それで終わりにしない方向もあるだろう。

やる気があれば人里離れたところで農業や酪農をやるのも良いだろうし、最近ならリモートワークも可能だろう。


「違法じゃないかもだけど、スレスレのやり方・・・自分にはちょっと合わない」

業界の多くの人が呑み込んでいる事。でも「自分は我慢ならない」と言う事なら、転職やその業界自体を離れる手もある。

なんなら、グレーなやり方自体を変える大きな動きを行ってもいいだろう。


「個人としての我慢」は、原則、我が儘と思ってきっと差し支えない。

だけど、「我が儘だとしても」耐えきれない時は、覚悟をもって挑むのも否定はできない。



「大人なんだから、そのくらい我慢しなよ」

よくある言葉だけど、その我慢はきっと一つじゃない。


①「ヒト、人間としての我慢」

②「社会人としての我慢」

③「業界人としての我慢」

④「個人としての我慢」


①から順に優先すべき「我慢すべきでない事」と、私は考える。


この内のどれに当たるのかを、熟慮する際の判断材料にして頂ければと思う。

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