第6話

「何を……!」


 嘲笑うように呟いたつもりの声が、掠れていた。


 信じていたものが何もかも崩れ去っていくような気がして、指先が震える。


「お前も知っている通り、初代の人形姫は、セレスティアの孫だ。発足したばかりの王家が安定し、これからめきめきと力を伸ばしていこうかという良き時代に、姫は生まれた」


 女王が手にしている薔薇が、またすこし散っていく。淡い紫の光だけが、異様なほどきらきらと輝いていた。


「皆が姫の誕生を祝福したが……セレスティアだけは違った。彼女は己とまったく同じ色彩を持つ孫を見て、恐怖を覚えたのだ。――この子も、自分と同様に、いつか裏切り者になるのではないか、と。ようやく手にした栄光を、掠め取ってしまうのではないかと。そんな妄想に取り憑かれてしまった」 


 女王は視線を伏せて、散りゆく花びらを見つめた。憂いの滲んだ横顔だ。


「おそらくセレスティアはもう……どこかおかしかったのだろうな。仲間を火あぶりにした罪の意識と、王としての重責が、彼女の理性を歪めたのだろう。……セレスティアはなんとしてでも孫を殺したかったが、表向きは聖女で通っているのに理不尽な処刑などできない。悩みに悩んだ結果、彼女は『人形姫は、十八歳になる年に清らかなまま女神のもとへ還ることで、王国の穢れを浄化し、災いを防ぐことができる』というお告げを受けたと皆に知らせ、孫を殺す理由を無理矢理作り上げたのだ。――女神の声など、とっくに聞こえなくなっていたにもかかわらず、だ」


 もう、何も言えなかった。


 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そう思っているのに、指先が冷たくなっているのが不思議でならない。


「初代女王の言葉は、女神の言葉と同義だった。それは絶対的な王家の慣習となって、今日まで残ったのだ。……初代女王の日記から王家の秘密を知った歴代の王たちも、それを改めようとはしなかった。罪深い初代女王と同じ色彩を宿した人形姫を恐れていたのも確かだが……災いを防ぐ神聖な姫を王家から輩出することで、王族の威信が高まることに味をしめた、という理由もあるのだろうな。人形姫を生贄にしたあと、災いが起こらなければ王家の手柄にできる上……災いが起こった際も、死んだ姫ひとりに責任を負わせることができるのだから」


 女王は珍しく口角を上げると、はっと吐き捨てるように笑った。


「腐っているよな、この国は。コーデリアを見殺しにしようとしていた私も……どうかしている」


 女王は、手に持っていた薔薇に視線を落とした。はらはらと花びらが散り続けるそれは、もうほとんど薔薇の形を成していない。


「でも……私たちはこのままじゃ、いけないよな」


 女王は泣き出しそうな顔で僕を見ていた。口もとは静かな微笑みを浮かべていて、久しぶりに、「母」の表情を見たような心地になる。


「私の代で、この忌まわしい人形姫の風習はしまいだ。もう二度と、理不尽に命を散らす姫を作り出さない。……あの子の手紙で、目が覚めたよ。過ちを犯す前に、思いとどまれてよかった」


 女王は、妙に晴れやかに笑っていた。途端に、まったく別の嫌な予感が湧き起こる。


「お待ちください、過ちを犯す前に、って……僕の人形姫は? コーデリアは……まさか……」


 いてもたってもいられず、神殿の扉を勢いよく開け放った。


 澄んだ静寂に包まれた大広間に駆け込んで、彼女の姿を探す。


「コーデリア?」


 祭壇の前には、しおれた白薔薇だけが残されていた。


 ここにあるはずのコーデリアの遺体が、ない。


 僕が、棺に収めるはずの清廉なあの子の体が。


「コーデリア!」


 思わず彼女の名を叫ぶ。返事はない。ただ、広い神殿の中に僕の声が虚しく反響するだけだ。


「……コーデリアはここにはいない。儀式の前に、毒をすり替えておいたんだ。そのまま私が逃がしてやった。私が人形姫の制度を改めるまで、国の外で自由にさせてやるつもりだ」


「コーデリアを、逃がした? 何を、何を考えて……っ!」


 思わず、女王の肩に掴みかかる。女王とこんな至近距離で会話をするのはずいぶん久しぶりだった。


「アーノルド、人形姫の真実を聞いてもなお、あの子を死なせたかったのか?」


 女王は、僕の真意を図りかねるといわんばかりの困惑を見せていた。


 当たり前だ。どうしてこんな簡単なことが伝わらないのだろう。


「母上、わかりませんか、コーデリアのあの神聖さが! 歴代の人形姫は嘘だったのかもしれませんが、あの子は女神の使いですよ。この世でいちばん清廉な、特別な姫なんです。触れた者までも浄化させる、祝福の力を持った天使だ。こんな世界に長く置いておいたら、コーデリアが穢れてしまうではありませんか」


 穢されてからでは、遅いのだ。世界に毒されて、彼女の心が歪む様を、僕は見たくない。


「コーデリアをひとりになんてしたら……あっという間に魔の手に落ちる。駄目だ、すぐに追手を放ちましょう。彼女が壊れる前に、取り戻さなければ……」


「コーデリアをひとりきりで逃したわけではない。あの朗読師も一緒だ。……あいつは姫を守り抜くだろう。それこそ、己の命に代えてもな」


「は……?」


 朗読師、朗読師? まさか、あの忌々しい魔女の子がコーデリアと一緒にいるのか?


「私が、コーデリアと朗読師レイヴェルの婚姻を許可した。……私たちが正しい王家を作り上げた暁には、子どもを連れて帰ってくるかもな」


「あいつと? しかも、子どもだって? 冗談じゃない、人形姫は純潔を守らなければならないのですよ。あの神聖なコーデリアが、子どもを産むなんて。コーデリアは僕の人形姫なのに……それを、こともあろうに魔の者にくれてやったというのですか!」


 許されることではない。あのコーデリアが、よりにもよって忌まわしい魔女の子に穢されるなんて。あの子があいつの子を産むなんて、考えただけでおぞましい。


 先程から黙って聞いていれば、我慢ならないことばかりだ。


「アーノルド……」


 気遣わしげに伸びた女王の白い腕に、反射的にびくりと肩が震える。


 それだけで、思い出したくもない過去の記憶が、波のように押し寄せた。


 若い侍女たちの姦しい声、まとわりつく白い指、白粉と、吐き気を催すほど甘ったるい香水の匂い。


 ――殿下、これは殿方がみんな嗜んでいらっしゃる戯れですのよ。将来はわたくしたちを、お妃さまにしてくださいませね。きっと立派な御子を産みますわ。


 喉の奥を、酸っぱいものが焼いているような気がした。女王の目の前で床に崩れ落ち、必死に口もとを手で押さえる。


 駄目だ、この世はあまりにも穢らわしい。僕も、とっくに穢いものになってしまった。息をするたびに肺腑の奥がただれて、内臓を焼いて、毒を吐き出しているような気がする。


 これがきっと、王国にたまる穢れなのだろうと信じていた。


 だから、人形姫に浄化して欲しかったのに。純真な彼女のくちづけで、死で、僕を安心させて欲しかったのに。


 いいや、それだけじゃない。こんなに穢らわしい世界に、清廉なあの子をいつまでも置いておきたくなかったのだ。


 誰かに穢される前に、女神の御許へ還すのが兄としての義務だと思っていた。僕と同じような目には、決して遭ってほしくなかった。


 だってコーデリアは、誰より愛しい僕の妹なのだから。


「コーデリア……」


 ――お兄さま、見てください。この緑の薔薇はね、お兄さまの薔薇なんです。珍しくてとっても綺麗で、お兄さまのお目目みたいでしょう?


 そう言って僕に薔薇を差し出した、コーデリアの無邪気な笑みが蘇る。


 何をしていても可愛くて、可愛くて仕方がなくて、僕が、守ってやらなければと思っていた。


「あの子は神の使いなどではない。ただの人間で、お前の妹だ」


 それは、どんな言葉よりも残酷に僕の胸を抉った。彼女を神聖視して縋っていた弱い心を、躊躇いもなく引き摺り出されたような心地だった。


「あの子は望んで朗読師の手を取った。あの朗読師は、元は我々の先祖とともに旅をしていた愛し子の末裔なのだから、これほど相応しい相手もいるまい。どうか祝福してやってくれ」


 祝福? 僕が? コーデリアが穢されることを祝えと? コーデリアがあいつのものになるのを黙って見ていろと?


 祝福はおろか、許すことすらできない。


 駄目だ、これ以上こんな世界にいたら、コーデリアが穢れてしまうのに。


 あの清らかなコーデリアが、僕と同じように苦しむなんて耐えられない。


 こつり、と靴音が響く。女王は床に崩れ落ちる僕の目の前に歩み寄り、膝を着くようにしてしゃがみ込んだ。


「アーノルド……コーデリアは言っていたぞ。『次にお兄さまにお会いするときには――」


 ――私に、くちづけを返してくださいますように。


 は、と薄い笑みがこぼれた。


 言われてみれば確かに、彼女にくちづけをもらっても、返したことはいちどもなかったかもしれない。


 あの子は、ずっとそれを気にしていたのだろうか。


 でもそれは、僕がくちづけたらコーデリアも穢れてしまうと、無意識に恐れていたからなのに。


「返せるわけがない。……僕は、こんなにも穢れている」


「アーノルド……すまなかった、気づいてやれなくて。――本当に、すまないことをした」


 今までにもうんざりするほど耳にした女王の謝罪を聞き流して、床に散った白い薔薇を握りしめる。


 棘が残っていたのか、指先を鋭い痛みが走って、赤い血が純白を染めていく。


 それが、コーデリアの行く末を暗示しているようで、思わず震える手で白薔薇を抱きしめた。


 あの子は珊瑚色の薔薇が好きだったが、僕にとって彼女は白薔薇だった。


 この世でいちばん綺麗な、許しを与えてくれる聖だった。


 ぼろぼろになって、血に染まった白い薔薇を眺める。


 こんな姿になってもなお、白い花びらは気高く美しかった。


「僕にとって……あの子は女神そのものだ。誰に穢されようと、この先もずっと」


 涙が、ひと粒頬を滑り落ちていく。


 泣くのは、コーデリアが視力を失ったあの日以来のことだった。

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