第5話




 鐘が鳴っている。


 冬の朝の澄み切った空気が、びりびりと震えているようだった。


 白い吐息を吐いて、うっすらと積もった新雪を踏みしめる。目指すは、昨夜儀式が行われたばかりの神殿の大広間だ。


 麗しい人形姫を棺に収める役は、この僕のものだ。清らかなまま、王国の安寧のために身を捧げた妹の美しい最後を思うと、寒さとは別の理由から全身が震えた。


 この鐘は、王国に身を捧げた人形姫のための鎮魂の音色なのだろう。暁の空が広がる銀世界に、荘厳な鐘が鳴り響く様は、この世のものとは思えないほど美しかった。


 きっと、事切れたコーデリアもさぞかし麗しいに違いない。完全に女神の所有物となった彼女の清廉な姿を、一刻も早く目に焼きつけたかった。


 彼女の最後の表情は、どんなものだろう。穏やかに微笑んでいるだろうか。それとも、毒のせいであの美しい顔が歪んでしまっているだろうか。


 彼女の表情ならば、どんなものでも尊く愛らしいに決まっている。


 何より、もう誰にも彼女を穢すことはできないのだと思うと、十八年ぶりに心が安らいでいた。


 かつてないほどに逸る鼓動を抑えながら、神殿の扉の前へ足を進める。


 当然僕がいちばんにやってきたと思ったのだが、薄く積もった雪の上に細い足跡を認めて、はっと顔を上げた。


「女王陛下……」


 そこには、喪服のような黒いドレスを着て、扉の前の柱によりかかる女王の姿があった。


「ずいぶん朝が早いな、アーノルド」


 赤い唇を歪めて、女王の若緑の瞳が僕を捕らえる。ドレスに散りばめられた氷長石が、朝露のように光っていた。


「人形姫が女神の御許へ還ってから、初めて迎える朝ですからね。のんびり眠ってなどいられませんよ。……こんなに清らかな気持ちになったのは、生まれて初めてです」


「奇遇だな、私もだよ」


 よく見ると女王は、一輪の薔薇を手にしていた。茎にぼろぼろのレースのリボンが巻きついている、紅の大輪の薔薇だ。花弁のひとつひとつはみずみずしく、枯れかけている様子ではないのに、はらはらと花弁が散っている。


 朝焼けに彩られているせいか、それは紫の光を纏っているようにも見えて、なんとも神秘的だった。


 女王も、人形姫を無事に捧げられて安心しているのかも知れない。こんなふうに他愛のない挨拶を交わすのは珍しいことだった。


 だが、今は女王とのんびり話をしている場合ではないのだ。一刻も早く、僕の人形姫に会いに行かなければ。


「女王陛下、では、また後ほど――」


「――まあ、そう急ぐな。これでも、お前にひとつ昔話をしてやろうと思って、こんな朝早くから待っていたのだぞ」


 僕とそっくりな若緑の瞳が悪戯っぽく細められた。それでいて、有無を言わせぬ威圧感がある。もどかしいが、ここは話を聞く他になさそうだ。


「昔話、ですか」


「本来は、王位を継承するときに伝える話なのだが……事情が変わったのでな」


 その横顔は、至って真剣だった。どうやら相当重大な話をしようとしているらしい。息を呑んで言葉の続きを待つ。


「――昔々、この大地には、女神の愛を格別に賜った十人の乙女がいた。祝福の力という、女神に力の一部を受け継いだ、愛し子というべき特別な乙女たちだ。そのほとんどは艶やかな黒髪に宝石のような深紫の瞳を持つ、それは美しい少女たちだった」


 黒髪に、深紫の瞳。忌まわしい魔の色彩だ。


 そんな色彩を持つ少女たちを愛し子と称した女王に、思わず眉を顰める。


 女王は、僕の反応など気にも留めていなかった。歌うように、「昔話」の続きを口にする。


「だが、たったひとりだけ、他の少女たちと違う色彩を持つ者がいた。その少女は、雪のような白銀の髪と暁の空を映し取ったような緋の瞳を持っていて、名を、セレスティアと言った」


「……初代の女王陛下ですか」


 女王は意味ありげに頷くと、歌うように続けた。


「十人の乙女たちは、女神から賜った祝福の力を使って大地を巡り、災いをもたらす土地を浄化し、悩める人々を救う旅をしていた。皆で助けあって、それはもう、姉妹のように仲睦まじくな。――だが、その中でひとりだけ、一方的な疎外感と劣等感を募らせる少女がいた。セレスティアだ」


 女王は笑みを薄れさせ、ふう、と息をつく。その瞳は、遥か遠くを眺めるようだった。


「ひとりだけ、他の少女たちとは違う色彩を持ち、祝福の力もうまく使いこなせなかった彼女は、だんだんと黒い感情を育み……やがて『愛し子は、自分ひとりだけでいい』と思い至った。そうすれば、仲間はずれになることもない。唯一になってしまえば、寂しくないと考えたのだ。そしてある日、セレスティアは愛し子たちの手柄を独り占めにして、聖女として人々の前に立った」


「愛し子たちの手柄を独り占めに……?」


 ……それはまるで、地下牢にいる魔女の主張と同じじゃないか。


 嫌な予感と結びつきそうで、慌てて思考から魔女の主張を追い出した。


 だが、情けないことに脈はどくどくと早まっている。


 僕は今、王家のあり方を揺らがしかねない、重大な秘密を聞かされているのではないだろうか。


「セレスティアは愛し子たちを裏切り、魔女と断罪して、彼女たちを処刑した。そうしてセレスティア自身は初代女王として君臨したのだ。……そう、地下牢にいるあの者の主張は何も間違っていない。この国の真の成り立ちを語っているに過ぎないのだ。魔女と呼ばれた人々は、本当は、セレスティアと同じ愛し子なのだよ」


「何を……馬鹿なことを。セレスティアさまは唯一無二の愛し子です。王家は……その愛し子の血を引いた、神聖な一族なのでしょう。……そんな馬鹿な話があってたまるか」


 思わず吐き捨てるように拒否すれば、女王は憐れみの入り混じった瞳で僕を見た。


 そんな目で見ないで欲しい。あの若緑の瞳に憐れまれると、まるでこちらが愚か者になったように思えてならないのだ。


「残念ながらこれはすべて、初代女王の日記に記載され、歴代の王に語り継がれている事実だ。……私も初めて知ったときには、ひどく取り乱してしまった。女神に連なる神聖な王家だと信じていたのに……その実は、九人の愛し子を殺した、裏切り者の系譜に過ぎなかったのだからな」


 当時の絶望を思い起こすかのように、一瞬、若緑の瞳から光が失われる。苦しみが滲み出た表情だったが、とても構っていられなかった。


 ……裏切り者の、系譜。


 心臓が、うるさいくらいに暴れている。女王の話は、ゆっくりと体に染み渡る毒のようだった。信じたくないと、頭では強く思っているのに囚われて抜け出せない。


「その錯乱の中で、初代女王と同じ色彩を持つあの子の――コーデリアの姿を目にして……まるで初代女王の罪を突きつけられているような気分になったのだ。生きた罪の証を見せつけられているようで恐ろしくなって……そうして、あのような仕打ちを……」


 ――近づくな……その緋の瞳で私を見るな!


 コーデリアに花瓶を投げつけたときの、女王の絶叫が蘇る。


 あのときの女王は、誰の目に見ても様子がおかしかった。まさか、そんないきさつがあったとは思いもよらなかったが。


「仮にその話が事実だとして……あなたのやったことは、許されることではなかった。この国の安寧を守る神聖な人形姫に、傷を負わせたのですから――」


「――人形姫に安寧を守る力などない」


 女王は、氷のように冷え切った瞳で僕を射抜いた。思わず萎縮するほど鋭い眼差しなのに、泣いているようにも見える。


「……まるであの魔女の子のようなことを言う」


「そうだ。あの朗読師の主張は正しかった。人形姫など所詮は幻想だ。初代女王が無理矢理作り上げた、虚像に過ぎない」

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