第6話
ざあ、と夏の風が木々を揺らした。神官たちが私を見ているのがわかったが、それよりも私の視線は口もとから血を流すレイヴェルに釘づけになっていた。
殴られたのだろうか。真っ黒な上着には所々土埃がついており、黒手袋と袖の間に覗く左手首からは、一筋血が流れ出している。
この神官たちが、レイヴェルを傷つけたのだろうか。
思わず、ベール越しに三人の男たちを睨みつける。
「いったい何をしているの! 神殿の中で暴力は許されないわ」
「まためんどくさいのが来たな……」
はあ、とひとりの男が大袈裟な溜息をついて、がしがしと髪をかきむしる。他のふたりは馬鹿にするように私を見て口もとをにやつかせていた。
「忌まわしい魔女の子がうろついていたから、遊んでやっていただけだ」
また、「魔女の子」だ。
この間のお兄さまの様子からして恐れていたことではあるが、レイヴェルを取り囲む環境は私が考えているよりもずっと理不尽で残酷なようだ。
「……歩いていただけで彼に絡むなんて。ひどいわ。伝承の魔女と彼は何も関係ないでしょう」
「おやおや、神官のくせに危険な思想をお持ちのようだ」
げらげらと笑い声を上げる彼らこそ、神官にふさわしい慎ましさを持ちあわせているようには思えなかった。
こんな者たちが神殿に属しているなんて、神官長の嘆きももっともだ。
「その態度、俺たちの家門がどんなものか知らないようだな」
「同じ神官であるのなら、身分がなんであれ、威張る理由にはならないわ。いいからその人を離しなさい。三人でひとりを痛めつけるなんて卑怯よ」
「ずいぶん生意気な口をきく神官さまだ。どこの令嬢だ? 顔を見せてみろよ」
男の手がベールに伸びているのを察し、慌てて身を引いた。
だが、いつの間にか背後に回っていたらしい別の神官に肩を掴まれる。
「っ……やめて!」
家族とレイヴェル以外の男性に触れられるのは初めてのことで、思わず身をこわばらせた。
想像以上の力の強さに萎縮してしまう。やり直し前のレイヴェルは強引だと思っていたけれど、あれでも私に優しく触れていたのだと知った。
逃げられなくなった私を見て、再び男がベールに手を伸ばした。
せめてもの抵抗としてぎゅっと目を瞑る。同時に、どす、と鈍い音が響くのがわかった。
「っお前!」
男の焦ったような声にはっと目を開けたときには、レイヴェルが三人の神官に殴りかかり、次々に気絶させているところだった。一方的にやられていたようだから、彼に武芸の心得はないのかと思っていたが、違ったようだ。
三人の神官たちはあっという間に芝生の上に倒れ込み、動かなくなってしまった。
苦しげに胸が上下しているから気絶しているだけだろうが、突然の血生臭い出来事に心臓が激しく暴れている。
レイヴェルは冷めた目で男たちを見下ろすと、やがて私にも視線をくれた。
怒っているように見える鋭い眼差しに、やり直し前から抱いている恐怖も相まって、びくりと肩を震わせてしまう。
ベールをかぶっているので顔はよく見えないはずなのだが、彼はきっと、声で私だと察したのだろう。図らずも彼に守られるような形になってしまった。
彼はそのまま私の手首を掴むと、人気のない中庭の木陰に私を連れて行った。
彼を恐れているはずなのに、こうして手首を掴まれても不思議と嫌ではない。
むしろ黙々と歩く彼の背中が苛立っているように思えて、しゅんと肩を落としてしまう。彼を助けたかっただけなのだが、却って迷惑をかけてしまった。
レイヴェルは真っ黒な上着を脱ぐと、日差しの当たらない芝生の上に敷いて、私を座らせた。こんなときでもさりげない優しさを感じて、ますますどんな表情をしていいかわからなくなる。
彼は口もとの血を手の甲で拭いながら、大きな溜息をつき、座り込んだ私の前に跪いて鋭い視線を向けてきた。
「どうしてあなたがこんなところにいらっしゃるのですか。今は確か、大礼拝の時間でしょう」
彼の声は、激しい感情を押さえつけるかのように震えていた。
……迷惑をかけてしまったから怒っている? それとも、私を心配してくれているのかしら。
彼の怒りがどのような気持ちから向けられたものなのか判断しかねて、視線をさまよわせてしまう。
「ごめんなさい。でも、今くらいしかあなたを探しに行けなくて……」
「僕を探していたんですか?」
驚いたように目を見開くレイヴェルを前に、おずおずと頷く。
彼は再び、悩ましげな溜息をついた。
「……無理をしなくていいのですよ、コーデリアさま。僕の見た目は、とてもおぞましいものでしょう。あなたとは正反対の、忌まわしき魔の色彩だ」
レイヴェルは、いつの間にか視線を伏せていた。長い睫毛の隙間から、神秘的な深紫の瞳が覗いている。
「……あなたはそれを理由に、先ほどのような理不尽な扱いを受けてきたの?」
「理不尽、と言い切ってしまうのも彼らに気の毒です。魔女と同じ色彩を持つ者を不気味に思うのは、ごく自然なことでしょうから。それに、あのくらいどうということはありません」
諦念の入り混じった静かな声に、胸が抉られるような痛みを覚えた。
彼の言葉に、無理をしているような様子は見受けられない。ということは、この程度の暴力は本当に彼にとって瑣末なものなのだろう。
……そんなの、あんまりだわ。
未だ血が流れている彼の左手にそっと手を伸ばす。
せめて手当てをしようとしたのだが、反射的に彼は身を引いた。
「怪我をしているわ、手当てしないと」
「お構いなく。大した傷ではありません。僕のような者の血に触れてはいけませんよ」
「そんなふうに言わないで。あなたは私の大切な朗読師なのに」
半ば無理やり彼の手を取って、神官服の中に忍ばせていた白い手巾を取り出した。
黒くぴったりとした手袋をするりと外せば、骨張ったレイヴェルの手があらわになる。私よりずっと大きい、男のひとの手だ。
そのまま黒く艶のあるカフスボタンを外し、袖を捲れば、深く擦れたような傷が現れた。
空気にさらされて痛みを感じたのか、彼の手がぴくりと震える。
「どうして一方的にやられていたの?」
「……反撃したり逃げたりすれば、無駄な時間が長くなるだけですから」
痛みを避けることすらしないレイヴェルの言葉に、ぎゅっと胸が締めつけられる。
「……私が来たから、彼らを倒したのね」
「コーデリアさまに無理やり触れたのですから、本当ならば死に値しますよ。……でも、あなたの目がありましたので」
レイヴェルは弱々しく笑った。物騒な言葉に似つかわしくない静かな笑い方に、ぐっと息が詰まる。
つまり、私が見ていなければ、レイヴェルは彼らにもっとひどいことをしていたということなのだろうか。
これが忠誠心ゆえの言葉ならば、彼は今も歪んでいる。災厄を引き起こすだけの残酷さは、すでに秘めているのだ。
つい今まで通りに話し込んでいたが、わずかな間薄れていたレイヴェルへの恐怖心が蘇った。
……彼は、私に関係することで、すこし残酷になる気がするわ。
やり直し前に神官長を殺したときも、あの神官たちに殺意を抱いたのも、私が絡んでいる状況ばかりだ。
……ひょっとして、あの災厄の日にも私にまつわる何かがあったのかしら?
あの日のことを何も思い出せないのがもどかしいが、彼が利己的な理由からそのような凶行に走ったと考えるよりは、よほどしっくりとくる。
彼の傷口に手巾を巻き付けながら、新たな可能性に気づいて考えこんでしまった。
だが、彼はその沈黙を違った意味に捉えたようで、ふっと自嘲気味な笑みを浮かべて私との距離と縮めた。
「魔女の子の言うことは野蛮で嫌になりましたか? 申し訳ありませんが、俺はそういう忌まわしい生き物なのです。嫌気がさしたのなら、今すぐにでも俺を離宮から追放したほうがいい。あなたにも、何をするかわかりませんよ」
「っ……!」
脅すような言葉に、びくりと肩を震わせて顔を上げれば、思ったよりも近い距離で彼と目が合った。だが、予想外な彼の表情にはっとする。
彼の深紫の瞳には、言葉とは裏腹に縋るような熱が滲んでいたのだ。
自分の言った言葉に傷ついているような、繊細な揺らぎがそこにはあった。
……レイヴェルは、やり直し前もこんな切ない表情で私を見ていたのかしら。
思わず吸い寄せられるようにして、彼に見入ってしまう。
綺麗な人だ。怖いくらいに美しい紫の瞳も、柔らかな黒髪も、すこしも彼を嫌いになる要素になり得ない。むしろ、ずっとこうして見ていたい。やり直し前にあれだけの歪みを見せつけられたというのに、彼から離れたいとはどうしても思えなかった。
互いに言葉もなく、心を見透かすように見つめあう。混ざることのない暁の緋と夕暮れの紫がかちあった。
災厄を起こした彼を恐れてはいるけれど、忌まわしいとは思わない。大罪人として憎むべきなのに、いざ彼を前にすると嫌いにはなりきれない。
困ったものだ。どうしてよりにもよって、レイヴェルが破滅の魔術師なのだろう。
なんとはなしに、彼の顔に手を伸ばした。指先で目もとに、頬に、唇に、掠めるように触れていく。目が見えないころは、よくこうして彼の表情を確かめたものだ。
指先に馴染んだ温もりが、紛れもなく、目の前の彼が私の恋慕う朗読師であるのだと証明していた。
レイヴェルは終始戸惑うように瞳を揺らしていた。何か言いかけていたが、言葉に迷っているようだ。けれどふたりの間にある沈黙は、不思議とすこしも気まずくない。
心地よささえ感じていた静寂を破ったのは、私たちの視界にふっとかかった影だった。
「こんなところにいたんだね、コーデリア。駄目じゃないか。勝手に庭に出るなんて」
ゆっくりと顔を上げれば、お兄さまが私たちのことを見下ろしていた。顔に影がかかっているせいで、繊細な表情はよくわからない。
「お兄さま……? どうしてこちらに――」
言いかけて、はたと気づく。
いつの間にか、神殿から鳴り響いていた鐘の音は止んでいた。大礼拝は終わったのだろう。
クロエやお兄さまが迎えに来る前に礼拝堂へ戻ろうと思っていたのだが、レイヴェルの手当てをしているうちに時間を忘れてしまっていたようだ。
「お前を迎えにきたんだ。日差しが目に障るだろう。すぐに離宮へ戻ろう」
お兄さまはしゃがみ込むと、そっと私の肩を抱き寄せ、それから私の手についたレイヴェルの血に目を止めた。気にも留めていなかったが、手巾を巻きつける際にでもついてしまったのだろう。
「コーデリア! 大変だ、怪我をしたのかい?」
悲痛なお兄さまの声に、私は慌てて首を横に振った。
「いえ、私はなんともありません。レイヴェルが怪我をしていたので、手当てをしただけです」
「そうか……」
お兄さまは心底安心したと言わんばかりに大きく息をつくと、打って変わって氷のように冷たい声で告げた。
「……番犬が主人を穢しては意味がないと思わないか、レイヴェル。何のためにお前のような忌まわしい者をコーデリアのそばに置いたと思っている」
「申し訳ありません。アーノルド殿下」
レイヴェルは膝をつき、深く頭を垂れた。
お兄さまがレイヴェルにあまり好意的でないことは薄々わかっていたが、あまりの言いように黙っていられない。
「お兄さま、そんなふうに言わないでください。私が手当てしたくてしたんです」
「お前も――」
お兄さまはベール越しに私の顎を掴んで向かいあわせた。
微笑んでいるが、若緑の瞳は叱りつけるように鋭い。
「――人形姫の使命に背くようなことをするなんて、悪い子だね。魔女の子の手当てなんて、清らかなお前がしていいことではないんだよ。勝手に外に出るのも駄目だ。大切な人形姫の体に、傷でもついたらどうするんだ?」
お兄さまの迫力に気圧されながら、思わず息を呑んだ。
顎に添えられた手の指先が喉もとに食い込んで、わずかな痛みを呼び起こす。
「それならば、離して差し上げてください。コーデリアさまが苦しそうです」
レイヴェルの言葉に、お兄さまは吐き捨てるように笑った。同時にお兄さまの手が緩み、息苦しさから解放される。
「言うようになったな。……思い上がるなよ、朗読師風情が」
「もちろん、弁えておりますよ」
初夏の爽やかな空気に似合わない、ぴりぴりと張り詰めた緊迫感に視線をさまよわせてしまう。
とても口を出せるような雰囲気ではなく、どうしたものかと迷っていると、不意にお兄さまが私を抱き上げ、ごみでも見るような目つきでレイヴェルを見下ろした。
「すこしでもコーデリアに余計な真似をしてみろ。即刻処刑してやる」
なんてことを言うのだろう。思わず目を瞠るも、レイヴェルは涼しい顔で微笑むばかりだった。
「妹想いの兄上をお持ちで、コーデリアさまもお幸せだ」
意味ありげなレイヴェルの言葉に、お兄さまはいっそう視線を鋭くしたが、それ以上何も言わずレイヴェルに背を向けた。
「お兄さま……私、歩けます」
「お前は黙っていなさい」
今の私は、一見ただの神官に見えるのだ。一国の王子が神官を抱き抱えて神殿の庭を歩いていたなんて、瞬く間に噂になってしまいそうなものだが、私を下ろすつもりはないらしい。
お兄さまの肩越しに、遠ざかるレイヴェルをそっと見やる。
ベールのせいで彼の顔はよく見えなかったが、あの神秘的な深紫の瞳にいつまでも見つめられているような気がしてならなかった。
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