加速度の無き日々は

沖田一

第1話・雪の慣れ

 「次のニュースです。先月、県内の高校で飛び降り自殺が発生した件について、教育委員会はいじめが原因にあったとして第三者委員会を設置し、調査を進めています。学校側はいじめの存在を否定しているとのことです――」


 ――くだらない。人が死んでもなお、いじめじゃないのね。


 私は心のなかでそう呟くと、テレビの電源を消した。登校バッグを手に取り、重い腰を上げて玄関に向かう。テレビの画面が消える瞬間に画面の端に表示されていた時刻は、私がもう学校へ向かわなくてはならない時刻を示していた。


 「雪ー!もう行くの?気を付けていってらっしゃいね」


 台所から母の声が聞こえてくる。「雪」は、私の下の名前。本名は胡茅ごぼう雪。「ゴボウ」っていう響きがゴツゴツしていて、私はこの苗字が好きじゃない。


 「うん。行ってくる。お昼過ぎには帰って来るから」


 ローファーを履きながら、雑に返事をする。踵をコンコンと鳴らす、もはや癖になった動きをして立ち上がり、玄関のドアを開ける。


 外に出た途端、全身から汗が滲んだ気がした。まだ朝7時だというのに、セミたちは昼のコンサートに向けて早くもチューニングを始めている。そういえば今日の最高気温は35度を超えるってニュースで言ってたな、とふと思い出す。


 私は、日陰を縫うようにして通学路を急ぐ。汗で長袖のシャツが腕にまとわりついてきて、鬱陶しい。腕まくりをしようと袖のボタンに手を掛けるが、すぐに思いとどまる。


 今は誰もいないが、どこで誰に見られているのか分かったものじゃない。手首を見られては困る。


 別に、迫られて”そういうこと”をしたわけじゃない。ただ、1学期が終わってからこの夏期講習が始まるまでの間に、暇が過ぎて、興味本位でやってしまったというだけだ。別に私は、世間一般が”そういうこと”をしている子に抱くような精神状態ではない。


 それに、こんな真夏に長袖を着ていても、「日焼け対策なんです」と言えば大概は納得してもらえるだろう。この点は、自分が女子で良かったなと思う。


 右肩に担いだバッグが体温で熱を帯びてゆくのを感じながら、足早に学校に向かう。




 額の汗がこめかみを伝う寸前に、教室に到着。まだ軽く息が上がり、体は熱を持っているが、仰ぐこともせずに自分の席に着く。机には今日も、落書きは無い。


 朝、いじめられっ子が学校に着くと、机には誹謗中傷の落書きの数々。いじめられっ子は無言で、暗い顔をしながら、その落書きを消す。


 そんなシーンが、漫画やドラマではある。でも、そんなものはステレオタイプ的ないじめに過ぎない。いや、なかにはそういったものもあるのかもしれない。それでも、大概のいじめはそういった「目に見える」形では行われない。そんな落書き、いじめられっ子が消さなかったらいじめ発覚一直線だ。


 私は、椅子に座ると一息ついて、かと思うとすぐにバッグから1限の教科書とノート、筆箱を出す。特にすることも無く、おしゃべりをする子ももういない私は、何を見るでもなく教科書をパラパラとめくったり、筆箱の中身をあさってみるフリをする。


 私は、この時間がいたたまれない。いつもの休み時間もそうだ。昼休みは、「昼ご飯を食べる」という確実な”タスク”がある分、まだいい。何もすることが無い、自分以外は誰もが何かの”タスク”をしているこの時間が、いたたまれない。


 だから、私はいつも授業開始ギリギリに登校すると決めている。出来るだけいたたまれない時間を減らすために。


 その時だった。


 「また今日も時間ギリギリね」


 「それに教科書なんて読むふりしちゃって。何してるのかしら」


 「まあいいんじゃない?ひとりがいいんでしょ」


 後ろから、女子3人の話し声が聞こえてきた。わざと私に聞こえているように話しているのだろう。


 でも、これはもういつもの風景。私のいつもの朝の時間。いつからこんな風になったかは、もう記憶が滲んでしまって、よく覚えていない。

 

 多分、高1の冬からだ。マラソンの授業で意図せずにはぐれてしまったとか、お昼を一緒に食べられない日がたまたま続いたとか、そんな取るに足らないことから、始まったのだと思う。


 それは、もう半年も続き、高2の夏――つまり今――に至った。


 この状況がこんなにも続いたのには、いくつか理由があると思う。

 

 ひとつは、彼女らの行動が、私が十分に許容できる範囲であったということだと思う。どこかの激しいドラマのようなことは、全く起こらない。私は物を隠されたことも、体を傷つけられたことも、存在を否定するような暴言を受けたことも無い。


 ただ、一緒におしゃべりをしてくれなかったり、距離的に避けられたり、ああやって小声で空虚な悪口を言われるくらいだ。証拠に残るようなことは何もされてこなかった。これでは、教師が気付かなくても仕方ない、と諦めている。


 こういった日常の些細なひっかき傷は、確かに私の心を傷つけていった。それでも、心が壊れることはなかった。暇な時にふと、手首に”そういうこと”をしてしまったりはしたけども。


 何よりも、私はこの状況を受け入れている。いや、このままで良いとさえ思っているのかも知れない。


 いじめられている、これがいじめだという自覚はある。


 それでも、今さら声をあげて、途方もない体力と気力を使って、反旗を翻す気には全くならない。そんなことをするくらいなら、このまま心を徐々に削って、おとなしく生きていた方が良い。彼女らは私を湿ったくいじめ、私はそれに従う。それでいいやと思っている。


 彼女らがこの状況をどう思って日々を過ごしているのかは、分からない。

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