白石瞳(わたし)と百々目鬼(ワタシ)

 黒く、黒く、それ以外何もない世界。


 私はそこにいた。足元には何もないけど歩くことはできる。何も見えないけど迷うことなく歩くことができる。どこに行けばいいのか誰にも言われてないのにわかる。そしてここがどこだか、理解できる。


 ここは私の心の中。魂と呼ばれる存在の世界。


 私が歩く先には、私がいた。私と同じ姿を持つ魂。私もそうだが服はない。隠されていない左腕には、無数の目が生えている。


 百々目鬼ワタシ


 ずっと白石瞳の中で眠っていた存在。遠い先祖が妖怪だった。その因子が私の中で眠っていた。赤川にイジメられなければ、青木に体を弄られなければ、目覚めることはなかった妖怪。


「はじめ、まして」


 そんな挨拶をしてから、腕に目の生えた自分を直視するのは初めてだという事に気づく。あの事件の後、鏡で全身を見ることはなかった。腕も隠して、できるだけ見ないようにしていた。


 気持ち悪い。


 そうとしか言いようのない左腕。盗みをした女スリのなれの果て。生々しい瞳がぎょろぎょろと動いている。瞳一つ一つが意志を持つかのように動き、私の声を聞くと同時に私に一斉に視線を向けた。


「初めまして? よくそんなことが言えるわね」


 百々目鬼ワタシは小ばかにするように白石瞳わたしに告げる。


「あれだけ瞳を使ってたくせに。妖怪の力を使って、あの二人に復讐したくせに」


 瞳。妖怪の力。


 他人の視界を盗み見る瞳。スマホのパスワードを始めとした個人情報をさんざん入手し、それを使って青木を破滅させ、赤川の人間関係をかき乱し、そうやって白石瞳わたしは復讐した。


「あ、はい……。ごめんなさい」


 責められるような口調に、思わず頭を下げる。


「何謝ってるのよ。馬鹿じゃない? ワタシは初めてじゃないわ、って言いたいだけなのに」

「はい……そうですね」

「ああ、馬鹿だから仕方ないわよね。イジメられて我慢するしかないんだから」


 容赦のない百々目鬼ワタシの言葉。白石瞳わたしと同じ顔なのに、白石瞳わたしにはできない表情をしている。


「でも許してあげる。その馬鹿のおかげで目覚めれたんだし。一気に開眼できるなんてよほど才能があったのね。イジメられる才能が」

「…………」

「スリをして地道に悪行を重ねるよりも、イジメられて追い込まれるほうが一気に目覚められるなんて。努力するだけ無駄ってことよね」

「そんな、ことは」

「自分でも思ってないことを言わないで」


 ないです。そう言おうとする白石瞳わたしの言葉は、百々目鬼ワタシの視線で止められた。努力は無駄。そんなことはない。そんな人間の美学は、


「だって我慢どりょくしても何も変わらなかったじゃない」


 突き刺すような言葉で否定された。


我慢どりょくして我慢どりょくして我慢どりょくして。耐えればきっとどうにかなる。誰かが助けてくれる。そう信じて頑張ったのに何も変わらなかったじゃない」

「……っ」

「誰も助けてくれなかった。やめてって叫んでも赤川達はやめてくれなかった。許してって言っても青木は体を弄り続けた。あの妖怪は気づいていたけど助けてくれなかった。他の人も気づいていたかもしれないけど、何もしてくれなかった」

「……そ、れは。私が、何も言わなかった。から」 

「言ったところで無駄。誰も貴方を助けない。何をしても貴方はこうなるの。

 何なら『見せて』あげるわ。違う選択をした白石瞳あなたを」


 百々目鬼ワタシは言って白石瞳わたしの顔を見て、瞳をのぞき込む。百々目鬼ワタシの瞳を通して、白石瞳わたしは『別の選択をした白石瞳』を見る。


 ――もし、先生に相談したら?


『イジメ? 赤川さんはそんなことしていないって言ってるよ?』

『おい、白石! 何先生にチクってるんだ! そんなに悲劇のヒロインぶってセンパイの気を惹きたいのか!? このクズ!』

『イジメなんかないわよね? きちんとスマホの前で言って。先生に見せるために撮影するから』

『言わないと、もっと酷いことしちゃうかもね』


 ――もし、親に相談したら?


『転校? そんなお金あるわけないじゃない』

『学校に行きたくない? せっかくお金払ったのに何言ってるのよ』

『イジメ? 1年我慢したらクラス変わるんだから我慢しなさい。大人は何年も同じ上司と付き合わないといけないんだから』


 ――もし、友達に相談したら?


『ごめん。白石と一緒にいると赤石達に狙われるから』


 ――もし、外の相談所などに相談したら?


『は! 学校としては真実究明に努めます。現在は調査中ですので――』

『ふざけんなよ白石! てめぇ、男に体を売るクソビッチのくせに!』

『動画公開されて有名人になれたね。おめでとー。もう一生消えないから』


 ――もし…………。


「あああああ。ああああああああ」

「何をしてもおしまい。何をしても変わらない。人間として追い詰められて、妖怪として覚醒するわ。或いは、覚醒する前に自殺するか。

 何をしても無駄。貴方の人生は詰んでたわ。むしろ妖怪ワタシの力を使って復讐した今が最高の未来よ。おめでとう」

「そんなことは、そんなことは……!」

「そんなことはない? 今こうして生きているのが悪いっていうの?」

「だって、私はこんなに苦しいのに! 復讐しても、イジメられた傷は消えない! 赤川を惨めにしても、青木を脅かしても、私はずっとつらいままで! こんなのがおめでたいなんて、ありえない!」


 今の状態が一番だなんて認めたくない。


 何をしても同じだなんて思いたくない。死ぬか、人間としてズタボロになって妖怪になるか。そんな未来しかなかったなんて思いたくない。


 だけど、同時に理解してしまう。


「信じられない? 私の瞳は『見る』ことに関しては最高なんだって、貴方は理解しているはずだけど」


 そうだ。白石瞳わたしは知っている。百々目鬼ワタシの瞳の力を知っている。


 復讐を果たすのに必要不可欠だった瞳の力。この瞳が無かったら何もできなかった。この瞳が私を救ってくれた。この瞳を信用している。信頼している。この瞳だけは私を裏切らないと確信できる。


 だから、この『もし』も正しいのだ。信用できる。信頼できる。


「何なのよ……。じゃあどうすればよかったの!? どうしたら、普通に生きていけたの!?」

「普通? そんなの無理に決まってるじゃない」

「何で!? 私が何か悪いことしたの!?」

「さあ? 運がなかっただけよ。よくあることじゃない」


 運がない。たったそれだけで、こんな目にあったの……?


「ああ、でもよかったじゃない。おかげで妖怪になれるわ。そんな苦しみなんて笑い飛ばせるわよ。

 貴方が苦しいのは、貴方が馬鹿なだけ。人間のつもりでいる貴方が馬鹿なだけ」

「私は、人間……です」


 この苦しみから逃れたいのに、その原因である人間であることに縋ってしまう。


 黒崎先生も言っていた。この弱さこそが人間なのだと。私は最後の最後まで人間でいたい。避けられないのだとしても、せめてその矜持だけは抱いていたい。


 だけど、百々目鬼ワタシはそんな白石瞳わたしの寄る辺すら許さないとばかりに笑みを浮かべた。


「普通の人間は他人の視界を盗まない」


 ざくり。百々目鬼ワタシの言葉が白石瞳わたしに突き刺さる。


「そんなことできない。仮にできたとしても、そんなことしない」

「だって、だって……そうしないと、私は……」

「貴方が言う『人間』なら、妖怪の力になんか頼らない。無駄に努力して、無駄に死んでいく。それが『人間』。我慢して我慢して、ボロボロになって死んでいく。それが『人間』の生き方。

 貴方はそうしなかった。目覚めた妖怪の力を受け入れ、あの二人を呪った。見るものを盗んで、秘密を盗んで、それを利用して破滅に追いやった」


 ざくりざくり。


「ふふ、責めてなんかないわ。むしろよくやったって思ってるの。すこし魂から欲望を後押ししたけど、実際に動いたのは貴方。決断したのは貴方。呪ったのも盗んだのも人生を壊したのも貴方。

 人でなしって言いえて妙な言葉ね。人ではないなんて。まるで妖怪のように、貴方はあの二人を破滅させたわ」


 ざくりざくりざくり。


 百々目鬼ワタシが喋るたびに白石瞳わたしは削られていく。


「貴方は――」


 とどめを刺すように、百々目鬼ワタシは告げる。


「自分から『人間』であることを手放したのよ」


 白石瞳わたしはその一言で、完全に崩れ落ちた。


 そんな白石瞳わたしを取り込もうと、百々目鬼ワタシは近づいてくる。白石瞳わたしに目が生えた左腕を伸ばしてくる。白石瞳わたしは近づいてくる腕をただ無気力に見ていた。


 そして――白石瞳わたしは、百々目鬼ワタシになる。

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