目の鬼

 あの日、青木にされたことをスマホで撮られた私はその秘密を脅されるように言いなりになっていた。


 逆に言えば、その秘密さえなければあんな奴の言うことを聞く理由はない。青木がその気になれば公開できる私の痴態。その画像と動画。すでに動画サイトにアップロードして非公開状態で止めているデータ。


 青木を観察して、その動画サイトは知っている。全部のデータが青木の持っているスマホの中にあるのも。時間があればそのフォルダを開き、私の裸体や秘部を見ているのを。私は青木の視線を通してイヤになるぐらい見ている。


 データのある場所はわかる。サイトも知っている。これを消してしまえば、もう脅されることはない。青木はパソコンの類を持っていない。他の記憶媒体にデータを移した様子も、ない。


 スマホを奪って、中のデータを消して、動画サイトにアクセスしてアップロードした動画や画像を消す。これができれば、私は解放される。あんな奴の言う事なんて聞かなくてよくなる。


 隙を見て襲い掛かって、スマホを奪う。それができれば一番だけど、それは無理だ。青木が喧嘩に強いとは思えないけど、それでも何の訓練もしていない未成年の女性に力が劣るということはないだろう。


 逃げられて警察沙汰になって全てが明るみになるなら、まだマシだ。動画を公開されてしまうか、あるいは逆らったことで更なる暴力を受けるか。どのみち問題は解決しない。


 青木に気づかれずにスマホを奪い、全部のデータを消す。それが理想だ。


 そんなこと、できるはずがない。以前の私なら諦めていた。耐えていた。堕ちていきながら、涙すら流さずに心を殺していた。数日後に訪れる破滅を知りながら、その先の地獄を想像しながら、耐えていた。


 だけど、不可能じゃない。


 私は青木の視界を通して青木の生活を知っている。青木の行動パターンを知っている。決まった時間に起き、決まった時間に仕事をして、決まった時間に家に帰る。判で押したような行動パターン。その流れに大きな変化はない。


 青木もスマホをずっと持っているわけじゃない。プライベートではほぼスマホに入り浸りだけど、仕事中は手放している。職場にある私物入れ。鍵も何もない棚の中においてある。


 誰にも気づかれず、その棚から青木のスマホを取りだして私のデータを消す。そして誰にも気づかれずに、店から出る。バレれば犯罪。店長の青木と二人きりになり、初日の二の舞になるだろう。或いは、赤川の脅しのネタにされるか。


 失敗する可能性は、高い。青木だけじゃなく、あのドラックストアには他の従業員がいる。客だっている。監視カメラだってあるだろう。気付いて止められたら、おしまいだ。


 だけど、やるしかない。


 赤川と青木の嗤う顔を思い出し、吐き気をこらえる。胃の中がひっくり返り、関節が痛む感覚に涙を浮かべそうになる。嫌だ。あいつらに支配されるのなんで嫌だ。


 そして赤川をやり込めた時の事を思い出す。あの時の赤川の泣き顔。あの後の赤川のSNSでの狼狽。怒りと、そして恥辱に満ちてた投稿。憐みすら感じない。ざまあみろと言う爽快感でしかない。


 あの青木にも、同じ目に合わせてやる。その気持ちが私の不安を払拭した。失敗したら地獄。何もしなくても奈落。だけどうまくいけばそこから脱却できる。そしてあいつの秘密を握って、青木からも爽快感を得てやる。


 心に決めて、立ち上がる。授業を終えて廊下を歩きながら、具体的な行動を考える。準備を整え、やるべきことを脳内で整理する。


 私はこの時どんな表情をしていたのか、分からない。自分の事を『見る』ことはできないからだ。もしこの時誰かの視点で私を見ていたら――きっと嗤っていたのだろう。復讐、そう快感、相手の人生を堕とす快感。それを想像して。


「白石さん」


 声をかけられた。下校時のあわただしい中、その声は私に届いた。


「黒崎先生」


 保険教諭の黒崎先生。先生は私を見ていた。他の生徒達は横目で私達を見ながら、素通りしていく。意識はあるけど、興味はもたない。そんな置物を見るかのような感じだ。


「どうしたんです、先生?」

「いや、あの後急にいなくなったから心配して」


 あの後? ああ、倒れて保健室に運ばれた時か。確かに先生に挨拶せずに帰ったから、心配ぐらいするかも。保健室から包帯を盗んだんだし、何かあったと思ったのかもしれない。


「それに……その左腕。包帯を巻いて帰ったって話を聞いたよ」


 先生の言葉にびくりとする。あの日、無数の目を隠すために包帯を巻いて帰った。誰かにそれを見られていたの?


「大丈夫です。その、大丈夫です」


 私はうまい言い訳を考えられずに二度返した。まさかそこに目が生えただなんて言えるはずがない。今は制服と長手袋で隠している。傍目には白い手袋をしているぐらいにしか見えないはずだ。


「その手袋を脱いで、左腕を先生に見せてくれないかな」

「……なんで、です? 大丈夫って言ってるじゃないですか」

「包帯を巻いていたのに?」

「もう、大丈夫ですから」


 大丈夫。すがるようにその言葉を盾にする。見られたくない。見られたくない。気持ち悪い腕を見られたくない。気持ち悪い目を見られたくない。そういう気持ちが全くなかったわけじゃない。


 だけど私の心の中は、見られて罵倒される恐怖よりも――怖かった。


 男の声が、男の手が、怖い。青木から受けた罵倒が、暴力が、脳内で蘇る。黒崎先生と青木は違うと心の中で理解しながら、感情がそれを否定する。近づかないで、こっちに来ないで。


 怖い。何をされるのかわからないから、何をされるのかわかっているから。凌辱の記憶が、記録が、私をかき乱す。


「白石さん」

「帰ります! 包帯は、申し訳ありませんでした!」


 言って手を伸ばして近づいてくる先生。男の手の恐怖に怯え、私は叫んでいた。廊下を走って先生から離れる。息を切らせてその場から離れた。


「はぁ、はぁ、はぁ!」


 先生は追ってこない。それでも走って逃げた。途中苦しくて倒れそうになるけど、それでも足を必死に動かした。先生に捕まったら、ダメだ。汚される。壊される。そんな感覚が私の体を動かしていた。


「はぁ……はぁ……!」


 逃げたのは男からの恐怖だけではなかった。音子への恐怖とは別の恐怖もあった。この腕を見られる恐怖。変貌した自分を知られる恐怖。明るみになり、罵られる恐怖。


「は…………あ…………!」


 人間だれしも、触られたくないことがある。その急所を知ろうとする存在への怖さ。触られたくない。見られたくない。知られたくない。だけど、触られ、見られ、知られる。秘密をかき乱される、怖さ。


「は、あ」


 今にして思えば、なんて皮肉。だってそれは――


「あ、はははははははは」


 嗤う。逃げ切ったことへの達成感。そして逃げ切ったことで青木に一矢報いる可能性ができる事への喜び。そして、その後の蜜の味を想像して。


 他人の秘密を見て、かき乱す。


 私がやろうとしているのは、まさにそれ。


 この時すでに、私の心の中に『鬼』は生まれていたのだ――

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