――――――弐――――――


 高校のある下鴨から、歩いて約15分。


 左京区の一画に、土塀に囲まれた武家造りの屋敷が建っている。

この、観光客が見たら史跡か何かと勘違いしそうな程広大な家が、安倍家の邸宅である。清崇せいしゅうが部活を終えてこの家に帰宅するのは、大抵19時過ぎだった。


「お帰りなさいませ」

 五芒星の文様の描かれた暖簾のれんをくぐり、引き戸を開けると、生成色きなりいろの着物の女性が清崇を迎えた。安倍家で働く使用人の1人――吉野よしのである。よわい50を越えているのだが、髪をきっちりと結い上げ、その凜とした立ち振る舞いは年齢を感じさせない。

「毎日玄関まで出迎えなくていいのに」

「いえ、そういうわけには」

 吉野は清崇の父の代から仕える、古参の使用人である。家事炊事だけでなく、陰陽師家業の手伝いもしている。


「今日、何か予定あったっけ?」

 清崇は長い廊下を歩きながら、後ろを歩く吉野に尋ねた。

「本日はご夕食後に一件、20時からが入っています。緊急性が高いということで、平日ですが入れさせていただきました」

安倍家には、あやかしや怪異に悩まされている“相談者”が全国から訪ねてくる。予約、とはその相談者の訪問予定の事である。

「分かった。準備、頼むよ」

「もちろんです。それと今日は5月の第3木曜日なので――」

「……月番つきばんの日か」











 和服に着替えた清崇は、客間にいた。

その日訪ねてきた相談者は、30過ぎくらいの女性だった。ひどく顔色が悪い。

 

「これなのですが……」

 

 対面に正座していた女性は足を崩し、ゆったりとしたズボンを膝までまくし上げた。するとそこには――――



 女性の右足の膝から下には、ピンポン玉大の腫瘍しゅようがいくつも浮き出ていた。そのどれもが汚い緑色を帯び、見るに堪えない状態になっている。


「日に日に増えているんです。痛みがないので不気味で……どの病院に行っても原因が分からないと言われて、もうこちらを頼るしか……」


 女性は今にも泣き出しそうな勢いである。清崇は右足の様子を一瞥いちべつすると、


「最近古い沼とか池とか……汚い水がたまるようなところに行ったりしませんでしたか」

と聞いた。女性はハッとした顔をする。

「行きました。使われなくなった用水路なのですが、指輪を落としてしまい、それを拾うために中に……」

「なるほど。――吉野」


 清崇が呼びかけると、廊下で控えていた吉野が、カーテンのついた衝立ついたてと、小さな木箱を運んできた。

 その衝立ついたてを、自分と女性の間に置く。


「カーテンの間から、右足だけこちら側に出してください。……そうです。注射の時のような痛みがあると思いますが、少しの間我慢していてください」


 清崇は、木箱の中から3寸ほどはある長い針を取り出した。その針先を、足の腫瘍の一部にゆっくりと刺しこむ。


「……っ」


 女性は鋭い痛みに顔をしかめる。

清崇は針を刺したまま、反対側の先端を口に含むと、そのまま何かを唱え始めた。一定の長い韻律いんりつを3度繰り返した時、変化は起こった。


 ――― ボコッ


 腫瘍が小さく波打ったかと思うと、その周りに黒いもやのようなものがにじみ出て来る。すかさず清崇が手を伸ばし、払いのける動作をすると、もやのようなものは霧散して消えた。


 すると驚くべき事に、濁った緑色だった肌が、みるみる普通の色に戻っていく。

清崇は針を通して、あやかしが嫌い、邪気を浄める力を持つ「陽」のを直接送り込んだのである。


「終わりました」

衝立ついたてを外すと、女性は自分の足の明らかな変化に、あっと声をあげる。

「汚水に溜まる、悪い気にようです。腫れは数日でひきますので、ご安心を」


 女性は何度も頭を下げると、晴れやかな表情で去って行った。




  (……要因的に本人が8割、ってとこかな) 

 最初は小さな腫れや傷でも、それが「不気味だ」「怖い」「悪化している」という本人の畏怖の感情が「いん」の《気》を引き寄せ、増長してしまうことがある。今の女性はその典型だった。


「―――思い込みは怖いってやつ、か」


 清崇は敷地を出て行く女性の姿を遠目に見ながら、1人呟いた。

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