三十二、濡れた体に染み込む推しの優しさ

 毎日通っていればその近所の子供やお母さんとも仲良くなる。

 話しかけられて無視することはない。


 五十嵐琢也の姿が見えなければ子供たちに誘われて一緒に遊ぶこともあった。

 しかし今日はそんな子供たちの姿も見えない。


 当然と言えば当然かもしれない。

 先ほどよりも雲が黒く厚く広がっていっているようで、まだ日の入り前だというのにすでにあたりは薄暗くなっていた。


 これは間違いなく降るだろう。

 一瞬傘を取りに帰ろうかとも思ったが、その間に彼が来てしまえばこれまでしたことの意味がなくなってしまうような気がして、動けなかった。



「振り始めたか」


 ぽつりぽつりと降り始めた雨が制服にしみこんでいく。

 顔をあげればすぐに顔の上に冷たいしずくがぽつぽつと降りかかってきた。

 すでに日は落ちている。


 あたりは一層静かになっていて、人通りもなくなっていた。

 さすがに帰っても大丈夫か。


 そう考えもしたが、もし相手がこの雨の日で俺の思考を読んでいた場合、俺が離れると彼がここに現れるかもしれない。

 そう考え始めると動こうにも動けなくなっていた。



 雨はどんどん強くなる。

 最初こそは濡れることに抵抗があったが、しっかり濡れてしまえばもういくら濡れても関係ないような気もしてくる。 


 幸いなことに明日は休みだし、制服が濡れたところで何ら影響はない。

 思う存分濡れても問題ないわけだ。 


 寝不足もたたってか思考とテンションがおかしな方向に向かっている。

 今日の朝彼女と話せたということも一つの要因かもしれなかった。

 


 もう少し雨が強くなるようであれば今日早めに帰ろう。

 そんなことを考えていた時だった。


 突然頭上から絶え間なく降り注いでていた雨粒が途切れる。

 雨が体にかからなくなった瞬間に、自分の体が冷えていたことを自覚して急に体が震えだす。


 先ほどまで土砂降りとまではいわないが、結構な勢いで振っていた雨だ。

 そんな突然にやむわけがない。


 そう思い顔を上げて空を見上げるが、空は見えなかった。

 代わりに赤い色をした傘が目に入ってくる。


「何してるのさ」


 俺はそこでようやく隣に人が立っていることに気が付いた。

 声がしたほうへ顔を向けると、不機嫌そうな表情をした推桐葵がこちらに傘を突き出しって、立っていた。


「君こそこんな夜に外に出て何してるんだ」


「こっちのセリフでしょうが」


 彼女はずいぶんと怒っているように見えた。

 なぜここに俺がいることが分かったのか。

 それよりも気になることがあった。


「濡れるぞ」


 俺のほうに傘を差しだしているせいで、自分の体を全く守れていない。

 制服姿の推桐葵はどんどんと雨にその体を濡らして言っていた。

 そして彼女は小さくため息をつくと口を開く。


「君のほうがびしょぬれでしょ。自分の心配しなよ」


「俺はもう濡れているからいいんだ。君まで濡れる必要はないだろ」


「……頑固なんだから」


 彼女は今度は隠すつもりもないようにあきれた表情をしながら、大きくため息をつくといったんは傘を自分の身のほうへ戻したが、その後すぐに俺の隣に腰掛ける。


 ベンチも相当に濡れていたが、座る瞬間一瞬彼女は顔をしかめていた。

 彼女が座った位置は肩が触れ合うほどに距離が近い。


 結果、二人とも傘の中に入ることができていた。  

 二人の間にしばしの沈黙が流れる。 


 俺もそうだが、彼女も口を開こうとしなかった。

 この間俺の部屋で流れていた時のような重苦しい雰囲気はない。


 体は冷えているはずなのに、その場が温まっているようなそんな気すらしてくるほど心地よい時間が流れていた。


「……嘘つき」


 そして彼女は小さくつぶやき、小さく肩をぶつけてくる。

 俺はすぐに返事をすることができなかった。


 しかし何のことを言っているのかはわかる。

 今日の朝のことを言っているのだろう。


「……お互い様だろ」


「確かに」


 彼女がクスッと笑う。

 推桐葵が笑ったところも久しぶりに見た。

 やはり彼女の笑顔はいい。

 どんな些細なほほえみであっても彼女の表情は周りを明るく彩る。


「いつからここにいるの?」


「一週間くらいかな」


「……馬鹿じゃないの」


 確かに彼女の言うとおりだ。

 俺は勝手にここに居座って、彼女を守っている気になっている。 


 それは懺悔の体をなしたただの自己満足だ。

 そんなことはわかっている。


「そうだな」


「でも、ありがと」


「え?」


「多分、君のおかげでしょ。ストーカー行為が最近なくなったのって」


「メッセージもか?」


「ううん、それは続いているけど。随分と内容が変わったの。いつも内容は見ないようにしてるんだけど、それでも目に入っちゃうときがあるから」


 やはりメッセージを止めるということはできなかったらしい。

 しかし付きまとい行為だけでも実際に止められていたということは、俺がしたことにも少しは意味があったのだろうか。


「前はまるで私の家の中での行動を見られているようなメッセージばかり送られてきてたの。それは本当に精神的にきつかった。いつも見られているような気がして、寝ることもできなかった。でも最近はそういうのじゃなくて、なんていうんだろ。注意? を促してくるメッセージばかりになったの」


「注意?」


「うん。君はストーカー行為を受けてるから気を付けたほうがいいとか。そういうの。ずっとメッセージが来るのは変わらないけど、前の内容に比べたら今のほうがだいぶましに思える。多分それって、君のおかげ」


 俺がここにいることで彼は彼女の家を観察することができなくなった。

 まあ傍から見れば俺が彼女をストーカーしているように見えてもおかしくない。

 そして彼はそう受け取り、彼女に忠告をしていたのだろう。


「まったく、どの口が言ってるんだかって話だよね」


「まあ、確かにな」


 彼女のあまりに軽い言い方に俺も思わず少し笑ってしまった。


「しかし今日君はどうしてここに?」


「朝の君の話し方に違和感があったの。それに私の家から個々の公園って見れるし。この間までは怖くてカーテンも開けられなかったから、気づかななかったけど今日は外を見てみたの。なんとなく。そしたら悠くんの姿が見えたから、慌てて出てきたの」


「よく気付いたな」


 今日は雨なこともありあたりはだいぶ暗い。

 いくら公園と彼女の家が近いとはいえ、道路を挟むくらいには距離がある。

 そんななか公園にいる人物が俺だと分かったのは単純にすごいと思った。


「あたりまえでしょ」


 そう話す彼女の口調はどこか誇らしげだった。

 そしてまた沈黙が訪れる。


 こんなにしっかりと普通に話をするのも、ずいぶんと久しぶりな気がしてしまう。

 今まで話していない時間のほうが多かったのに。


「ねえ、家寄っていきなよ」


「……え?」


「そのまま帰ったら風邪ひくよ」


「いやそれは……」


「それにそんな状態で帰ったら、君のお母さんに怒られそう」


 そう言い笑いながら彼女は立ち上がると、俺の前に立ち手を差し出してきた。

 雨は相変わらず俺の体にかからない。彼女がしっかりと傘をこちらに差し出してくれているおかげだ。


「しかしそれでは君に迷惑がかかる」


「大丈夫。今家には誰もいないし」


「それはそれで問題だろ」


「ごちゃごちゃ言わない」


 すっかりいつもの調子に戻っている彼女に気づくと、力強く手をつかまれ無理やり立たされた。

 そして彼女は俺の手を引っ張り、自分の家の方向へと歩き始める。


 振り払うことなら簡単にできた。

 断って帰ることもたぶんできた。


 でもなぜか俺はそれをせず背筋を伸ばして凛とした様子で歩く彼女の後姿をただ見つめながら、彼女に手を引かれるまま歩いていた。

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