二章 7.指輪

「秋山さん。久しぶりやな。どなんしよったんな」

須賀さんの母親は、努の事を覚えているようだ。

「ご無沙汰しています」

努は小学生の頃、須賀さんと北山公園で何度か遊んだ事がある。

「今日は、どうしたん?」

須賀のおばさんが事務の手を止めて尋ねた。

「寺井社長に、お話しを伺いたい事があって」

須賀のおばさんとは緊張せずに話ができる。

「ああ、社長か。今日は、夜に来る事になっとるなあ」

「自宅にいらっしゃるんですか?」

「そうや。出掛けるとは聞いてないからなあ」

「今からお伺いしてもええんやろか」

「ちょっと聞いてみよか」

須賀のおばさんは寺井社長に連絡した。

「どんなご用件ですかってお聞きですけど」

「揚羽蝶の家紋についてです」指輪とは云わなかった。

「どうぞ。ですって」

寺井社長から話しを聞く事ができる。


その時、誰かが事務所を訪ねて来た。

「こんにちは」

坂口建設の社長だ。

「ああ、いらっしゃい」

須賀のおばさんが応えた。

「おばはん。また来たで」

坂口社長はよく来ているようだ。

「何や。また釣りか?」

須賀のおばさんは親しそうに云った。

「そうや。けど、今日は、青木さんに頼まれたんや」

「青木さん?」

元町長の青木さんだろうか。

「そうや。今日、青木さんとこ行って損したわ」

「御用を仰せつかったんかいな」

須賀のおばさんには分かっているようだ。

「そうなんや。さくら祭のなあ、土曜と日曜日、モーターボートの予約入れといてくれっちゅうてな」

坂口社長は苦笑いしながら云った。

須賀のおばさんは、席の後ろに貼ってあるカレンダーを確認している。

「あぁ。土曜は空いてるけど、日曜日は予約が入っとるわ」

須賀のおばさんは笑顔で云った。

「知っとる。青木さんは知っとった。けど貸して貰えっちゅうて言うんや」

元町長は、予約の入っているモーターボートを横取りしようとしているのだろうか。

「また、無茶、言うなあ」

須賀の母親は呆れたようだ。

「そうや。無茶っちゅうたら、おばはんの洋一。無茶苦茶やで。儂に、喧嘩売ってきよるで」

努は、事務所を出る機会を失っていた。

「それじゃ。また」

まだ、二人の話しは終わっていなかったが、遮るように声を掛けて事務所から出て行った。


北堀の中筋を東に行くと、町の東の外れに北堀神社がある。

努が小学校の頃まで北堀神社のすぐ北は海辺だった。

砂浜が、ずっと東の白亀市の中浜まで続いていた。


今は埋め立てられて、堤防沿いに道が続いている。

道の両側に住宅地が拡張されて家が建ち並んでいる。

突き当りは防潮堤が築かれていて行き止まりなっている。

防波堤の向こうは海岸だったが、県の土木計画で道路を拡張している最中だ。

渚海道計画で、県の海岸線を一本の道路で繋ぐ計画だそうだ。


努は、北堀神社から堤防へ向かって歩いた。

寺井社長は居た。


努が挨拶をすると。

「ごめんなさいね。弥生は外へ出とって留守なんや」

どうやら、小学校の同級生の家に遊びに来たくらいに思っているようだ。

「あのう。須賀のおばさんから」努は、説明しようとした。

「今日は」

寺井社長が、何か喋り出しそうだった。


「寺井社長にお話しがあって、お伺いさせていただいたんです」大きな声で、言葉を被せて、やっと云えた。

「弥生が留守なのは本当なんやで。大内先生と出かけていてなあ」

寺井社長は勘違いしているのだ。


寺井社長が、早速用件を尋ねた。

「揚羽蝶の家紋について、教えていただきたいことがあるんです」努は話し始めた。

「ちょっと待って。家に入って」

寺井社長は、長くなりそうに感じたのだろうか、家の中へ、招き入れたようとした。

「いえ、こちらで構いません」努は気が付かない。

「そんな訳には遺憾わ。どうぞ」

寺井社長が、困ったように云った。


玄関を上がると、応接間へ通された。

寺井社長は、そのまま部屋から出て行った。

お茶を淹れて戻って来た。


努の前に座ると話を聞き始めた。

「それで、家紋?やったなあ」

「はい。そうです。揚羽蝶の家紋です」

「揚羽蝶?」

「はい。以前、事務所の看板に揚羽蝶が描かれていたと聞いたものですから」元町長から聞いた事を云った。

「ああ。昔ね」

ごく自然な答えだった。どうして、そう思ったのか分からないが、隠すのではないかと思っていた。努の考え過ぎなのか。

「揚羽蝶の家紋が入った看板の写真を見せていただけますか」写真に興味は無いのだが、一応尋ねた。

「それこそ事務所にあるわよ」

「事務所ですか」今、事務所から来たところなのに。

「そうよ。またいつでも事務所に来てくれれば、お見せするわよ」

見せてくれって、頼んでいるのに、行かない訳にはいかない。事務所へまた行く羽目になるのか。

「そうですか。それじゃ、誰か、揚羽蝶の家紋の入った指輪がないかと訪ねて来ませんでしたか」

努は、揚羽蝶の指輪を尋ねてみた。緊張している。

努は、揚羽蝶の指輪を尋ねてみた。

「松田さん。松田さん知ってる?版画してる人」

寺井社長は、不安そうだ。

「いいえ。知りません。その松田さんが、来たのですか?」努は、松田さんを知らない。

「そう。実は、会社の看板に揚羽蝶を彫ったのが、松田さんなの」

寺井社長が云った。

以前、会社の看板に、揚羽蝶の図案を彫ってもらったのが、版画家の松田さんだった。

松田さんは、揚羽蝶の指輪があるかと云って、寺井社長を訪ねて来たというのだ。

彫ってもらう時に、松田さんに揚羽蝶の指輪を預けていたので、寺井海運に、揚羽蝶の指輪がある事は、知っていた。

何故、今、揚羽蝶の指輪に、関心が集まるのか分からない。


「ちょっと待ってな。今、見せてあげるわ」

寺井社長は、飾り棚の引出しを開けて木箱を取り出した。

木箱の蓋を開けると、中から指輪を取り出して努の目の前に置いた。

「これや。暫く探してたんやけど、見付からんかった。そや、思うて事務所を探してたら見付かったんや。引越す時に忘れてとったんやなぁ」

「ごめんなさい」努は指輪を見ると一目でわかった。

東京の子から押し付けられた指輪と同じものだ。

「けどなあ。寺井の家紋は揚羽蝶やないんや」

「えっ?」寺井さんの家も家紋は揚羽蝶ではないのか。

「お祖母ちゃんがなあ。不思議なんやけど。寺井のお父さんの奥さんやけどな。お祖母ちゃんがお爺ちゃんの家へ嫁ぐ時に持参した物なのよ。お祖母ちゃんの家紋も揚羽蝶やなかったんや。指輪を見て、お祖父ちゃんが揚羽蝶のほうが派手に見える、ちゅうて看板に使うたらしいんや」

「えっ?そうなんですか?」努は驚いた。

元町長の家の門も米原さんの門を移築していた。

「でも、古い人はみんな知っとるけどな」

努は、そんなものかと思った。

寺井美弥社長は、女学校を卒業している。

女学校卒業後、町役場の臨時職員として勤めることになった。

一年後、町役場に本採用されることになった。

そんな時、寺井満春の父、義徳に寺井海運を手伝わないかと誘われたのだった。

寺井海運の最古参の従業員、成田さんが、老齢を理由に、以前から退職を願っていた。

後任者を決めかねて、ずっと先延ばしになっていた。

美弥が、町役場で本採用になるということを聞いて思い立ったということだ。

美弥は、義徳に誘われて迷わず寺井海運へ就職することにした。

成田さんに付いて仕事を覚えた。


二年後、寺井満春は大学を卒業して寺井海運を継ぐため、家業を手伝うことになった。

そして、美弥は満春と結婚することになった。


努は寺井社長宅を出て考えた。

寺井海運の事務所は、少し遠回りになる。

もう一度事務所を訪ねた。

「おばさん」努は、挨拶して事務所に入った。

「あっ。もう来たんやな」

寺井社長かr須賀のおばさんに、連絡が入っていたようだ。

「あのう、昔の看板の写真。見せて下さい」不思議だが、努は、揚羽蝶の家紋の入った看板の写真を見たいと思っていた。

「ああ、聞いとるで。社長から電話があったわ。それ、そこ曲がった社長さんの席の後ろや」

須賀のおばさんは、そう云って柱の角を指差した。


努は、柱を奥へ曲がり、社長の席を見た。

壁に大きな写真が飾られていた。

社員一同の写真のようだ。何かの記念日のようだ。真ん中に看板を掲げている。

寺井海運と大きく書かれた社名の上に揚羽蝶の家紋が描かれていた。

帰り際、須賀のおばさんにお礼を云う時後ろのカレンダーが見えた。

さくら祭の土曜と日曜日の日は丸く油性ペンで囲まれ、二日とも「坂口」と書き込まれていた。

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