《幕間》女皇陛下の密会

 日が沈めば行政は止まる。


 だが皇宮という場所が完全に眠りに落ちることはない。夜通し仕事を片付けている者もいれば、夜を徹して城を守る者もいる。


 皇宮の主であるルーシェにとっても、夜というのは決して惰眠を貪るための時間ではない。


 国主という存在は多忙で、そうでありながら中々代役を置けない役職だ。そして『ルーシェ』にも代役はいない。


 国主にとって夜は人目をはばかる密談や策略に使うべき時間で、『ルーシェ』にとっては魔法研究やプライベート、そして夫との時間にてるべき時間だ。最近はそのどちらもが忙しくて、中々に折り合いがつけづらい。そして折り合いがつかない場合、ルーシェは往々にして国主としての任を優先させてしまう。現に今もルーシェは夜も更けた時間帯に、夜着姿で、居室の書き物机の前に座って書類に目を通している。


 ──『ルーシェ』として、プライベートを充実させたいとは思わぬが……


 書類をたぐりながら、ルーシェはひとつ溜め息をこぼした。


 ──妾の場合、『ルーシェ』をおろそかにしすぎると、それが原因で国が吹っ飛びかねんからな。


 この間も『国主』と『ルーシェ』の加減をうっかり間違えたせいで、慌てて姪をハイディーンまで送り込むことになった。巻き込んでしまったカレンには悪いことをしたと思っている。


 ──しかしそのお陰で事態が多少進んだ。


 ルーシェの手の中にあるのは、まさしくその一件に関する報告書だった。姪が直筆で仕上げ、わざわざルーシェの居室に転送してきた報告書を昼日中の政務中に広げるわけにもいかない。だからルーシェは皆が寝静まり、誰の邪魔も入らない深夜帯にその報告書に目を通している、わけだが。


「……まだ寝ないの? ルーシェ」


 不意に背後から伸びてきた手がルーシェの体を抱きしめる。いつの間にか椅子の背もたれの感触は消えていて、生身の人間の柔らかな感触が背中にはあった。椅子に腰掛けている感触はきちんとあるから、きっと背もたれは背後に立つ人物によって消されてしまったのだろう。恐らく彼とルーシェの間に何か物が挟まることが気に喰わなかったに違いない。


「もう日付越えちゃったよ? ルーシェは明日も仕事に行っちゃうんでしょう? もう寝なきゃ体を壊しちゃうよ」


 後できちんと直してもらわなければ、と考えるルーシェの肩口をピンピンと跳ねる焦げ茶の髪が滑り落ちる。甘えるようにルーシェの肩口に顔をうずめた人物がスリスリと頭を動かすせいで、自由奔放に跳ね回る髪もサラサラとルーシェの夜着の上を滑っていた。それが少しこそばゆくてルーシェはわずかに身じろぐ。


「ねぇ、それ、カレン様からの報告書なんでしょ? にルーシェの睡眠時間が削られるくらいなら、やっぱり僕が全部片付けるべきだったんだ」


 甘えるような口調の中にわずかに黒い感情が混じる。


 それを感じ取ったルーシェは、抱きしめられた腕から片腕を抜くとポンッと相手の頭の上に載せた。そのままよしよしと撫でてやれば、背後の人物がわずかに纏う空気を緩める。


 その変化を確かめながら、ルーシェはそっと唇を開いた。


「ハイディーンごと、全てを吹き飛ばすつもりだったかえ?」

「だって、大陸ごと『ルーツ』を消し飛ばしたら、ルーシェは悲しむでしょう?」

「ハイディーンが消えても、妾は悲しくなるがな」

「……分かってたから、やらなかったんだよ?」


 だから大人しくしていたのに。それなのにルーシェは結局この一件にばかり気が行って全然僕を構ってくれない。


 ボソボソと拗ねた口調で続けられた言葉にルーシェは重く溜め息をこぼす。それに不満を表すかのようにルーシェを拘束する腕の力が強まった。


 ──心底本気で、それだけの動機で世界を軽々吹き飛ばせるから厄介じゃな。


「セダ?」


 魔法使いは基本的に自分本位で、ワガママで、自分の興味対象しか眼中に置かない。高位の魔法使いほどその傾向が強く、ルーシェの夫も例に漏れず典型的でずば抜けた『魔法使いらしい性格』をしていた。


 そして彼の場合、魔法使いとして見ても魔術師として見ても、他に類を見ないレベルで……それこそ世界に数人、いるかいないかのレベルで強大な存在であるから性質タチが悪い。興味対象を手中に納めるためならば世界を簡単に吹き飛ばそうという思考回路を持っている人物が、実際にそれを軽々と成し得る実力を備えているということなのだから。


 ──その実力を周囲に隠し通すために、結構妾が心を砕いていることを、これは分かってくれておるのかのぉ?


「妾は顔を見て話がしたいのじゃがのぉ?」


 そしてそんな彼の興味関心は、30と数年前にルーシェに出会った瞬間から、ひたすらルーシェに注がれ続けている。ルーシェが国主の任にばかりかまけて『ルーシェ』を疎かにすると国が吹っ飛びかねないのはそのためだ。


 何せこの御仁はルーシェの伴侶に収まるためだけに、世界最難関とも言われ片手の指で数えるほどしかいないアルマリエ皇宮第一位ウァーダ魔法使いの座をもぎ取ってきた人間であるのだから。


 ……ちなみに結婚した後で知ったことなのだが、正攻法で結婚できなかった場合はアルマリエという国ごとルーシェのしがらみを更地に返してルーシェを掻っさらうつもりであったらしい。そうならなくて良かったし、自分からセダを愛することもできて良かったなぁと、あの時のルーシェはしみじみと思ったものだ。


 ──まぁ、気持ちを無理強いしてくるセダではないし、妾がセダを想うようにならなかったら、きっと一生陰から妾を見守るつもりだったのじゃろうが。


「……腕を離したら、逃げたりしない?」

「しない。心配なら、手を繋いでいようか」

「……ううん。ルーシェは僕に、嘘はつかないもの」


 柔らかな言葉で説得を試みると、セダは案外あっさりと引き下がってくれた。スルリと腕が解けて、ルーシェを拘束する力が消える。


 ルーシェはそのまま背もたれが消えてしまった椅子の上でクルリと身を翻すと、先程まで向き合っていた机を背もたれにするように座り直した。背後に立っていたセダと向き直ったことで、焦げ茶に銀の虹彩を散らした瞳を見上げることができるようになる。


「セダ? 寂しい思いをさせてしまっておることは、申し訳ないと思っておるのだえ?」

「……うん」

「じゃが、いきなり何の言伝ことづてもなくお前が姿を消し、ハイディーンで勝手に『ルーツ』の調査をしていたことを知った時の妾の気持ちも考えておくれ?」

「……それとこれとは、話が別だよ」

「いいや、同じじゃ。妾はセダを強制的に呼び戻すため、置換要員としてカレンをハイディーンへ送り込むことになった。セダを先遣隊とし、カレンに解決を委ねたのは、セダの身を守るため。つまり今妾がカレンからの報告書をこうしてここで読んでいるのは、元を正せばセダが勝手にハイディーンへ乗り出したことに原因があるのだよ」

「……やっぱり、丸め込まれてる気がする」


 セダはむぅっと頬を膨らませるとプイッとルーシェから顔を背けた。セダはルーシェより数歳年下という外見をしているから、そういう表情をしていると余計に幼く見える。普段は過ごしてきた時の長さを思わせる仙人のような雰囲気を纏っているくせに、ルーシェを相手に駄々をこねる時だけは少年じみた気配が消えない。結婚して30年が過ぎて、その傾向はさらに強まったような気がする。


 そんなセダに苦笑をこぼしながらも、ルーシェの思考はカレンからの報告書に向いていた。


 カレンは自分にこの任務が与えられたのは、クォードを泳がせるためだと考えたらしい。事件の報告書の片隅にクォードがカレンの想像以上に真面目に調査に励んでくれたこと、クォードのおかげで事件を解決できたことがあえて書かれていたのは、カレンなりに『クォードは白』ということをルーシェに伝えたかったからだろう。


 ──すまぬな、カレン。その意図ももちろんあったのじゃが……


 ルーシェの意図は、カレンとクォードをハイディーンへ送ること、そのものにあった。


 置換魔法。ある2種類の、同等量の物体を、空間を越えてすげ替える魔法。


 ルーシェが使える手札の中で、魔力総量が一番大きい者がカレンだった。それでもセダと同等量とはいかなかったからクォードを添え、他にもいくつか手を打った。


 カレンに事件の解決を命じたのは、カレンをハイディーンへ送り込む魔法陣に立たせるためにもっともらしい口実を与えたかっただけだ。それと、色んな意味でセダを守るため、というのが多少。


「妾がセダを愛しておる、ということに変わりはないよ」

「じゃあ何でまだに構ってるの?」


 セダはいまだにむぅっとむくれている。心底本気でルーシェが『ルーツ』対策に自分の時間を割いていることが面白くないらしい。


 ──これはマズい……


 ルーシェが『ルーツ』の一件に時間を割き始めたのは、クォードが皇宮に潜入し、捕縛された頃からだ。


 ルーシェはクォードの証言を全て真実だと判断している。秘密結社幹部であり、それに相応しい実力を持ち合わせていながら、あの青年はいささか真っ直ぐすぎる。あれは嘘を言っている者の目ではなかった。


 そういう者は、利用されやすい。クォード側が組織に繋がろうと考えていなくても、組織側がクォードを離さないはずだ。クォードの実力と、今の立ち位置を考えればなおさら。そうなるようにルーシェが仕掛けた。向こう側がそもそもこうなるようにクォードをアルマリエ皇宮に送り込んだ、という可能性も高い。


 クォードはエサだ。『ルーツ』が何かを仕掛けるための。


 同時にルーシェが『ルーツ』に対して仕掛けたエサでもある。


 その仕掛けを最大限に活かすためにルーシェはこの数月暗躍を続けている。主に『ルーツ』が何を求めてこんなことを仕掛けてきたのか、その理由を探るために。ハイディーンの動向に目を光らせていたのも、ハイディーンでの一件に『ルーツ』が関わっている可能性が高いと報告が上がっていたからだ。


 そんなルーシェを、セダはずっと毎日見ていた。


 セダたっての希望で、ルーシェとセダは同じ私室を使っている。昼間はそれぞれ政務室と研究室に出払っている二人だが、夜や休日を過ごすプライベート空間は庶民の夫婦と同じく同じ部屋を使っているのだ。


 つまりルーシェが己の時間を割いて私室で仕事をしていれば、セダの目に入らずにはいられない。普段セダはルーシェがどれだけまつりごとの書類を広げていても、一切内容には興味を示さない。セダの興味関心は常にルーシェ個人にしかないからだ。だから今回もルーシェは特に警戒をすることなく、机の上にハイディーンに関わる書類を広げていた。


 だからまさか『ルーシェが構ってくれないなら、根本原因を潰そう』と考えたセダが、ルーシェの目を盗んで書類を読み込み、単身独力でハイディーンへ飛んでしまうなんて、思ってもみなかったのだ。


「ねぇルーシェ。ルーシェが『お願い』してくれれば、ルーシェを困らせてる全てを消してあげる」


 焦げ茶の瞳の奥で銀の燐光が妖しく躍る。ルーシェに真っ直ぐ向けられた瞳は、トロリと甘くとろけていた。


 そうでありながら、どこかヒヤリとする空気もセダにはある。


「僕は、ルーシェに使われたい。ルーシェに縛られたい」


 それが『独占欲』と呼ばれるものだと、ルーシェはすでに知っている。


 悠久の時を生きてきたはずである賢者が、たったひとつに狂って執着して、全てを注いだ感情の坩堝るつぼ


 彼の世界には、ルーシェしかいない。


 彼は、ルーシェが自分の隣で笑っていてくれるなら、喜んで世界を壊すヒト。


「だからお願い、ルーシェ。僕以外にそんなに構わないで」


 苦しく、切なく訴えながら、セダはルーシェの手を取った。


 スルリとルーシェの手に頬を擦り寄せるセダは、どこからどう見ても愛を請う青年であるのに。


「そうでなきゃ僕、うっかり世界を壊しちゃうよ」


 ……口にしている言葉は、神のごとく傲慢だった。


 ──その傲慢が、決して傲慢ではないから、性質タチが悪いと。


 そしてそんな言葉を嬉しく思っている自分も。


 同じことを思っている自分も。


 所詮は、同じ穴のムジナなのだ。


「……それは妾も同じだよ、セダ」


 ルーシェはスルリと腕を滑らせるとセダの頭を抱きしめた。されるがままになったセダは再びルーシェの肩口に顔を埋める。


「……調査を進めていて、ひとつの可能性が浮上した。あれらが最近、ハイディーンを始めとした各地で『人身売買』と『魔法道具の窃盗』に積極的に加担しておる理由じゃが」

「なぁに?」

「あれらが求めておるのは、『東の賢者』かもしれぬ」

「可能性は高いね。『東の賢者』はアルマリエのどこかにあるって前々から噂になってるし。その割に詳細は明らかになっていないから、片っ端からそれらしいモノを強奪していてもおかしくはない」


 ルーシェはしばらくセダの頭に腕を回したままセダの呼吸に耳を澄ました。セダの顔はルーシェの肩口に埋まっているから表情は見えない。だが耳をくすぐる呼吸は先程と変わらず落ち着いていた。


「……知っておったな?」

「うん」

「だから妾に無断でハイディーンへ出たのか?」

「うん。……各地からの情報を見て、確実に幹部クラスがいるのはハイディーンだろうと思ったから。どう動くか、揺さぶりをかけたくて」

「肝が冷えたぞ」

「ごめんなさい」

「……妾がセダを構ってやれなかったせいで、妾のことが嫌いになったのか?」

「違うよ、何があっても僕がルーシェを嫌いになるわけないじゃない。いつだって、何があったって、僕は狂うほどにルーシェを愛してる」

「不測の事態に陥ったらどうするつもりだったのじゃ。お前がハイディーンにいると探し当てた妾がどれだけ取り乱したことか……」

「うん、ごめん」

「……お前の不在をごまかすためにあたかもお前が皇宮にいるように振る舞い、誰もおらぬこの部屋に戻ってくるのは……、正直言って、かなり、寂しかった」


 吐息に混ぜるように囁やけば、わずかにセダの呼吸が引きれた。ごめんなさい、と泣き出しそうな声で囁やきが返ってきた後、セダの腕がそっとルーシェの背中に回る。キュッと体にかかる圧を心地良いと感じてしまう自分はきっと、自覚していないだけでとうの昔にセダと同じ場所まで堕ちてしまっているのだろう。


「悲しい思いをさせて、ごめんなさい、ルーシェ。もう、どこにも行かない。……だから、もう、僕がいない所で、独りで泣かないで」

「……泣いておらぬよ。安心をし」

「嘘。ルーシェはいつだって、綺麗に笑って心の中で泣いてる。いつだって泣く時は独りなんだ。……僕はそれが、何より嫌なのに」


 その言葉に、熱に、圧に、自分の中にもあるどす黒い『独占欲』という感情が満たされていくのを感じる。


「……嫌だと思うなら、妾の手を離さないでおくれ」


 ルーシェはスリッとセダの頭に頬を寄せた。


「大丈夫じゃ、セダ。もう時期終わる。……あんなもの、にさえならぬよ」


 ──嗚呼、何て黒くて甘い感情なんだろう。


「……もうしばしの辛抱じゃ、セダ。あんな羽虫、お前の力を借りずとも、妾が叩き落としてやるでな」


 今だけ夢見心地に酔いながら、ルーシェはその熱の中にそっと、夫にだけ伝わる声で決意の言葉を置いた。

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