おつゆの記憶

松田宗閃

私とリンちゃん

「ねぇねぇ、見て見て」


 リンちゃんは嬉しそうにカレンダーを私に見せてきた。


「なあに?」


「来月の今日はね、お誕生日なんだよ、お母さん」


「もうこんな季節なのね」


 私はいつものようにやさしく撫でた。


 リンちゃんは私のことをお母さんと呼んでくれるけれど、私とリンちゃんは赤の他人なのだ。


 もう、3年か――





 あれは、真夜中の海老名サービスエリア。

 駐車していた大きなトラックの荷台から、ぴょんと飛び降りてきたのがこの子だった。驚いたってなんの、まだほんの子供。小さな女の子。食べていないのか、衰弱していた。

 ヨタヨタと歩く姿を見るに堪えず、駆け寄って保護すると、道の外へと連れて行った。

 12月の海老名は厳しい寒さ。凍えないように身を寄せた。


 ぐぎゅるるる。


 女の子のお腹が苦しそうに鳴るのに気づいて、食べ物をあげると、少し元気になって話せるようになった。


「どこから来たの?」


「わからない」


「1人で来たの?」


「……だと思う」


「名前は?」


 そう訊くと、すぐには答えなかった。


「……思い出せない」


 もしかしてこの子は、記憶がない?


「さっきのトラックにはどうやって乗ったの?」


「わかんない」


「何も思い出せないの?」


 困った表情でうなずくだけだった。


「ひとりで来るはずないじゃない、お母さんは?」


「お母さん……わかんない……わかんないぃ」


 わからないを繰り返すと、え~んと、私の胸に飛び込んできて泣きじゃくるのだった。

 いい年のおばさんであるモテない私は、結婚も子育ても想像したことがなかった。

 でも、こうやって小さい子供と接して、初めて母性のようなものが芽生えた気がしていた。

 私は、いつの間にか、この記憶のない小さな女の子の面倒を見ようと心に決めていた。

 せめて、この子の親が見つかるまで……






 そうして、私は記憶のない小さな女の子とふたり暮らしが始まった。


「じゃじゃーん! 取れたての美味しいリンゴだよ」


 私は取ってきたリンゴを得意げに見せびらかした。


「赤い看板のリンゴ園から持ってきたの。綺麗なリンゴで、食べるのがもったいないね〜って、もう食べてる!」


 パクパク。


「ちょっと、私の分も残してね、あ、聞いてる? あなた、あ、名前も思い出せないのだっけ?」


「うん」


「さすがに不便ね~。じゃあ、あなたは今日から『リン』、リンちゃん」


「りん?」


「そう、リンゴをおいしそうに食べるから」


「え~なにそれ」


「でもかわいい名前でしょ。リンちゃん」


「……うん」




 翌日、今度はリンちゃんがリンゴを持ってきた。


「見て、じゃじゃーん! 私もリンゴを取ってきたよ〜!」


「どうしたの!? 10個も! もう何やってんの! そんなに取っちゃダメ!」




 また翌日、例の赤い看板のリンゴ園をふたりで見に行った。


「あーあ監視カメラと柵が頑丈な金網になっちゃった」


 リンゴ園の金網を揺さぶってみるも、びくともしない。


「いい、こういうのは、気づかれない程度に、少しずつしか取っちゃダメなの!」


 リンちゃんは悲しそうにしていた。

 そうか、これが子供を叱るってことなのか――。

 私はいい親なのか、悪い親なのか自分でも良くわからない。

 叱った後ってどうすればいいんだっけ……。

 どうしよう……。

 ああ、そうだ。


「実は来週ね、私の誕生日なの。それで、ケーキを食べようって思っていたんだけど……」


「ケーキ! やったー!」


「リンちゃんって、誕生日もわからないんだよね」


「……」


「わたしと同じ誕生日ってことにしない? そしたら明日はふたり分の誕生日をお祝いになるからさ」


「それいい! 最高じゃん! ありがとうお母さん!」




 世の中思っていた通りにはいかないもの。

 ケーキを2つ買おうと思っていたけれど、お財布のお金はケーキ1個がやっとだった。


「ケーキ小さいね」


 私は小さいケーキを2つに切った。でも真ん中のイチゴを避けて切ったせいで大きいのと小さいのになってしまった。


「私はこれだけでいいから、リンちゃんはいっぱい食べてね」


 リンちゃんはイチゴの乗った大きいケーキをおいしそうに頬張った。

 子供を養うのは大変だってわかっていたけれど、私の考えは相当甘かったようだ。

 リンちゃんのためにも仕事をすることに決めた。






「働くってどうするの?」


 リンちゃんに仕事の話をしたけれど、すぐにはわかってくれなかった。


「安心して。知り合いの、近藤さんのところへ行って、頭を下げて何とかしてもらうから」


 近藤さんは私の古くからの知り合い。釣り目で見た目は怖いけれど、根はやさしい。

 私たちは近藤さんの事務所で簡単なシール貼りや封筒の宛名貼りのお仕事をさせてもらえることになった。


「近藤さんよろしくお願いします」


 近藤さんは一礼して、リンちゃんの方を見た。


「かわいいね。あなたもお仕事するの?」


「え、いや、そんなことないです。私だけです」


でもリンちゃんはすかさず答えた。


「私もやってみたい!」


「ちょっと!」


「あなた、お名前は?」


「リンちゃんです!」


「じゃあ、リンちゃんも簡単なのからやってみようか」


 近藤さんはリンちゃんをあやしながら、私に向かって大人な話をした。


「うちは出来高払いですから、お子さんでも数を作ってもらえれば、その分給料をお支払いしますよ。問題ありません」


「やったー! りんちゃんもガンバル!」




 そんな暮らしになって、もう3年も過ぎたのだった。





 リンちゃんは事務所のカレンダーに丸を付けた。


「そっか、もうすぐお誕生日か。リンちゃんはいつの間にか大きくなったのね」


「うん、もう立派な大人だよ」


「そんなわけないでしょ」


「お母さんもお誕生日だね」


「そうだね。そしたら温泉旅行とかどう?」


「いいかも! 温泉旅行」


「熱海に一泊二日の温泉旅行だ!」


「わーい! やったー!」


 そこへ、事務所の扉が開き近藤さんがやってきた。


「賑やかでいいことね。お仕事は順調ですか?」


「ちょうど今日の箱が全部終わったところです」


 近藤さんは大きいダンボールを台車に乗せて運んでいた。


「もしかして、残業ですか?」


「いいえ、これは先方さんから頂いた、カップ麺」


 大きいダンボールには、赤いきつねと緑のたぬきが入っていた。


「なんでも非常食のカップ麺が賞味期限切れで、廃棄にするから良かったらどうぞって、言われてね」


「ほんとだ今月が賞味期限だ」


「どう、おふたりさん。お湯を沸かすから、良かったら食べて行かない?」


「いいんですか」


「みんなで食べた方が美味しいでしょ」


「やったー! 緑のたぬき大好き」


 これにはリンちゃんも大喜びだった。

 さっそく仕事道具を片付けて、長机を綺麗にすると、赤いきつねがと緑のたぬきが置かれた。

 するとタイミングよく、事務所の奥の炊事場から、近藤さんがお湯の入ったポットを持ってくる。


「私はお稲荷さんが好きだから、赤いきつね」


 近藤さんが赤いカップを取ると、リンちゃんも続けた。


「私は緑のたぬきがいい。お母さんは?」


「私も緑のたぬきにしようかな」


 みんなでポットを回して、お湯を注いで、時計を置いて、出来上がりを待った。

 良いころ合いを見て、みんなで合唱。


「「「いただきま~す」」」


「あついっ」


「も~リンちゃんは猫舌なんだから、ほーら、こうやって、ふーふーって、しないと」


 リンちゃんは、ふーふーと冷ませてから一口食べると、おもむろに言った。


「コレいつもの味じゃない」


 賞味期限? 私は近藤さんの方を見たけど、そういうことじゃなかった。


「なんか、懐かしい感じがする」


「そうなの」


 私は自分の緑のたぬきを食べてみたが、味の違いはわからなかった。でも、蓋を見ると謎が解けた。私とリンちゃんは同じ緑のたぬきだと思っていたけれど、リンちゃんの方は関西限定と書かれていた。


「緑のたぬきにも種類があるんだね。ってか、記憶、もどったの!?」


「記憶が戻ったってわけじゃなくて、でも、昔食べたことがあると思う」


「ねえねえ飲んでみて、おつゆの匂いが違うから」


「ほんとだ。香りが違う。私の方はおつゆの色が少し濃い」


「でしょ」


「ちょっと待って関西限定って、まさかあなたって関西出身だったの?」


 3年前のまだリンちゃんが小さかったころ、親を探してこの辺りをあちらこちら訪ねて回ったのだけれど、何も情報が得られなかった。

 そう、さすがに関西って発想はなかった。

 あのトラックはすごく遠くから来ていたんだね……


「だったら今度の旅行は大阪にしましょう」


「え、ま、待ってよお母さん」


「リンちゃんの記憶が戻るかもしれない」


「そんなのわかんないよ」


「本当の名前だって知りたいでしょ」


「そんないいよ」


「あなたも本当のお母さんに会ってみたいでしょ」


「何言ってるの無理に決まってるじゃん! それに関西は大阪だけじゃないんだよ」


「そんなのダメ! 私は本当のお母さんじゃないんだよ、わかってるの?」


「お母さん……」


 リンちゃんは、うつむいて、言った。


「私のお母さんは、お母さんだけだから、私はお母さんといっしょにいられたらそれでいい」


 顔が真っ赤になるような気がした。

 目の前の緑のカップで、顔を隠すように、おつゆを全部すすった。


「お母さん、何があってもお母さんは私のお母さんだから」


「ホント、いい子に育ってくれて嬉しい」


 泣かないつもりだったけど、おばさんの私の涙腺はゆるかった。

 私はお返しのように、いつものようにやさしく撫でた。






「お疲れ様でした」


 近藤さんに挨拶をして、事務所を後にする。

 大通りと反対側の森の方に歩いて行くと、信号待ちで大阪ナンバーのトラックが止まっていた。

 リンちゃんそれを見て物思いに眺めていた。


「大阪行ってみたい?」


「見てただけ! どうせ旅行に行くならハワイとかの方がいいな~」


「よしてよ、パスポート取るのがどれだけ大変かわかってるの?」


「そんなの要らないもん。私、スーツケースに化けるから」


「ダメダメ、雑に扱われて、体中傷だらけになるわよ」


「え~」




 ふたりは森の茂みに近づいて、一緒にくるんと回って、ポン、ポンと、煙を出すと、狸の姿になって森の方に消えて行った。

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おつゆの記憶 松田宗閃 @soosen

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