第10話 ホットミルクの夜

 それからの行動は迅速だった。まずはリタが実家の伝手で魔道具設計士に連絡を取ってくれた。魔道具とは魔法石の魔力によって動く道具の総称だ。藍華がお世話になっているお屋敷にもいくつもの魔道具がある。


 代表的なものだと照明器具だろうか。魔法陣の上に魔法石を乗せると発光する仕組みで、屋敷の至る所に置かれてある。主電極の役割を魔法石が担っているのがこの世界の照明なのだ。


 他にもお湯を沸かすための装置やポンプの役割を魔法石入りの道具が果たし、藍華の部屋にはシャワーが備え付けられている。ちなみに台所のオーブンでは薪の代わりに魔法石が燃料として使われている。


 とはいえ、これだけふんだんに魔法石を使うことができるのは一定の身分以上の人間だけで、市井ではそこまで便利な生活道具に囲まれていないとのこと。リタに一般市民の生活レベルを教えられるまで、藍華は魔法石だらけの生活がこの世界の一般常識だと認識しつつあったから、早々に正されてよかった。


 騎士団の仕事後、藍華はリタと一緒にツェーリエ市内へ赴き、魔道具設計士と対面した。持参したグラインダーの絵を見せ、口頭でこういう機能が欲しいと一生懸命説明した。魔道具設計士は四十代くらいの気さくな男性で、面白そうに藍華の話を聞いてくれた。


 何度か会って話をして、製作に入ってもらう。その間、藍華は昔参加したビーントゥバーのワークショップの記憶を頼りにカカオ豆の焙煎に挑戦した。調理人のアドバイスを参考にしながら行ったため失敗せずにすんだ。

 徐々にチョコレートに近づいてきているのだと思うと、毎日ワクワクが止まらない。


「アイカは最近楽しそうだな」などとクレイドも目を細めている。


 今の藍華にも目標がある。この世界でチョコレートを作ること。どうやらこちらの世界の食文化はだいぶ限定的らしく、日本でさまざまな料理に親しんできた藍華にとってはやや面白みに欠ける。


 そのためカカオ豆はあっても限定的な使い方、要するにポーションの材料くらいにしか使われていないようなのだ。


 これは非常に由々しき事態である。チョコレートは夢と希望と幸せの塊なのに! ぜひとも美味しいチョコレートを作って、こちらの世界でも布教したい。そしてショコラティエが誕生してほしい。


「ああ、夢が広がるなあ。いつかはサロンドチョコレートが開けるくらいにベレイナでもショコラティエが増えてくれたら……」


 文字書きの練習中もうっとりと夢想するくらいには浮かれている。おかげでさっきからちっとも進んでいない。集中力が途切れてきたようだ。


「うーん……ちょっと休憩。何か飲み物もらってこよう」


 藍華は気分転換に立ち上がることにする。夜遅いが魔法灯のおかげで部屋は明るい。ちなみにスイッチを押すと魔法陣に細工が加わり明るさ調整も一発という便利仕様。


 階下へ降りて、厨房に向かう。幸いにも人がいて、ミルクを温めてもらうことができた。蜂蜜をとろりと混ぜたものをもらって戻ろうとすると、別の部屋がほんの少しだけ開いていた。


 誰かいるのかな、と居間を覗いてみる。部屋の中央に置かれたソファに座っているのはクレイドだ。


(思えばわたし、クレイドさんと一緒に住んでいるんだよね。お屋敷が広すぎていまいちピンとこないけど……)


 執事やメイドも一緒のため、ホテルに滞在している客同士という感覚に近い。それでも、こうして夜更けに彼の姿を見かけると、同居という文字が頭の中に事実として浮かび上がる。


(毎日忙しそうだし、そんな中でわたしの面倒も見てくれるし。くつろぎの時間を邪魔したら悪いよね……それとも、ホットミルク差し入れたほうがいいかな?)


 うーんと迷っていると、部屋の奥でクレイドの姿勢が前傾になるのが見てとれた。頭がソファの背もたれに隠れた格好になる。


 もしかして寝落ちしたのだろうか。だとしたら風邪をひいてしまう恐れがある。現在ベレイナは春真っ盛りだ。とはいえ、夜はそれなりに気温は下がる。


 藍華は部屋へと入りクレイドの様子を確認することにした。

 ソファの前に回り込んだ藍華は目を見開いた。


「あ、あの。大丈夫ですか?」

 彼は何かに耐えるように目をギュッとつむっていたからだ。


「え……ああ……アイカか」


 薄目を開けたクレイドが薄く笑みを浮かべた。

 夜も遅い時間だというのに、彼はまだかっちりと私服姿である。対する自分はというと、寝間着にストールという、緩すぎる格好だ。


「あの、どこか痛いんですか?」

「いや……なんでもない」


 クレイドは一呼吸終えた後、姿勢を元に戻した。その表情はすでに平素と変わらないものになっていた。藍華は彼が無理をしているのではないかと、じっと見つめる。


「アイカ、こんな時間にどうしたんだ?」


「わたしですか? 息抜きを兼ねてホットミルクをいただきに来たんです。あ、まだ口を付けていないのでいかがですか? 蜂蜜を垂らしてもらったのでほんのり甘くておいしいですよ」


 藍華は手に持ったカップをクレイドの前に差し出した。彼はそれをじっと見つめている。


 もしかしたら王子様相手にホットミルクは庶民過ぎたのかもしれない。いや、彼は王子様であることを忘れさせるくらい気さくでおおらかで、話しやすい。普段忘れてしまうが、彼は王子様なのだ。


「あ、すみません。王子様にホットミルクなんて」

「いや。いただくよ」


 クレイドは藍華の手元からカップを取り上げた。そのまま躊躇いなく口付ける。こくりと、喉仏が動いた。なんとなく目にしてしまい、藍華は慌てて視線を逸らした。


「私はグランヴィル騎士団ではみんなと同じ食事をしている。べつに温めた牛乳だって飲むのは初めてではない。昔、乳母がよく飲ませてくれた」

 クレイドは懐かしそうに目を細めた。


「あ、の……?」

「ん、どうしたアイカ?」

「いえ……」


 藍華はふるふると頭を振った。


「ええと、クレイドさんは着替えないんですか? それに、いつもその手袋をしていますよね? 暑くないんですか?」


「これか。ああ……手袋をしていると落ち着くんだ」

「そうなんですか」


 藍華の純粋な疑問に、クレイドはやや歯切れ悪く答えた。おそらくこれ以上は踏み込んではいけない気がする。藍華はこれ以上踏み込むべきではないと相槌をするだけに留めた。


「夜は冷える。そろそろ戻った方がいい」

「そうですね。では、おやすみなさい」

「ああ。おやすみ、アイカ」


 口では言わなかったが、パジャマ姿なことを指摘された藍華は急に恥ずかしくなってそそくさと部屋から逃げ出した。

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