火祭り

@mizu-sumasi

第1話

 空が少し遠く感じる八月の終わり、中学生になった僕は一人旅を許された。といっても父さんの実家だ。山奥の小さな町で、最寄りのバス停から更におじいちゃんの車で二時間かかる。朝早く出たが、昨夜着いたときにはすでに午後八時を回っていた。

「おばあちゃん。笛の音がしてるね。」

「明日火祭りやけんね。祐は初めてやもんね。朝ご飯食べたら行ってみるとええ。」

「御神輿や櫓の準備ももうだいぶ進んどる。今日のうちに色々見とくとええ。明日は火と御神輿がすごいぞ。」とおじいちゃんが手で火の真似をしながら言った。

 外はそれ程暑くなく、秋の空のように澄んで大きく成りきれない入道雲が切なく浮かんでいた。おじいちゃんの下駄を借りて、僕はジャリジャリと舗装されていない道を踏む。バスも来ないような山奥の町で、本当にそんなにたいそうなお祭りがあるのだろうか。小さな段々畑が遠くまで続いている。所々にある田んぼには、もう稲が竿に干してあった。

 神社通りに出ると道は舗装されており、下駄がカタカタと音を立てた。角を曲がると大きな赤い鳥居が見える。神社まで真っ直ぐ百メートル程だ。思っていたよりたくさんの人が忙しそうに祭りの準備をしている。その周りで子供たちも笛を吹いたり跳ねたりしている。もうお祭りは始まっているのだと僕は思った。

 道の両側には背丈を優に超える松明が並べられ、十字路の広場には火を燃やすための櫓が組まれようとしていた。

 鳥居をくぐるとすぐに、赤いきつねの像があった。よくある二体のお稲荷さんではなく、大きな真っ赤な一体が前足を上げて参道を通る人に向かって伸びるように立っている。嚙みつかれることはないだろうが、僕はお辞儀をしながら恐る恐る通った。神社の前でも大勢の人が準備をしていた。

 神社の裏手に回ると、小道が山に続いており見晴台まで行けるとの案内があった。その小道に入るところに、屈んでしか通れない一メートル程の小さな鳥居があり、二匹の赤いきつねがじゃれ合っている像があった。僕は鳥居を屈んでくぐり抜けた。

 この世から誰もいなくなったように、急に静かになった。しばらく行くと、先ほど見た段々畑が一面に見渡せる場所に出た。ああ気持ちいいと思うのも束の間、僕は何か生き物とぶつかりそうになり、避けるなり転んだ。怪我はなかったが、右の下駄の鼻緒が切れてしまった。夏だから寒くはないが、裸足で歩くのは憚られる。Tシャツを裂こうか。「ふふふふふっ。」顔を上げると、僕と同い年くらいの男の子が立っていた。

「直してあげるよ。鼻緒。」と言うなり男の子は、赤い紐をポケットから取り出し、あっという間に直してくれた。

「ありがとう。助かったよ。」と僕が言うと、男の子は小さくうなずいた。

「僕はヤス。よろしく。」と男の子は言った。

「僕は、おじいちゃんとおばあちゃんの家に遊びに来ているんだ。名前は祐。よろしくね。」

 僕たちはどちらともなく走り出し、展望台まで駆け上った。展望台からは、火祭りの行われる神社通りが一望できた。

「明日、火祭りだね。」そう言って振り向くと、ヤスちゃんはもう随分と駆け下りており、「明日ね。」と手を振っていた。僕はしばらくの間、火祭りの準備を眺めた。

 夕飯の時に僕はおばあちゃんに尋ねてみた。「ヤスちゃんって、知ってる?僕と同い年くらいの男の子。神社の裏手で僕の下駄の鼻緒が切れて困っているところを助けてくれたんだ。」

「ヤスちゃん?知らないね。」とおばあちゃんは言った。

「ヤスか。康が生きとったら、今年四十三歳かのう。祐のお父さんの兄のことじゃ。」とおじいちゃんは言った。

 小さな沈黙の後、「学校からの帰り道で、突然の心臓発作じゃった。神社の前で倒れたと知らせがあっての。みんな手を尽くしてくれたんじゃけどな。」

 僕は少しお父さんから聞いたことはあったが、詳しくは知らなかった。

「祐のお父さんはまだ六歳じゃったから、ようは覚えとらんかもしれんな。」

「康もほんまええ子じゃった。」とおばあちゃんはしみじみ言った。

 僕は布団に入っても康おじさんのこと、ヤスちゃんのこと、そして明日の火祭りのこと…色々思うとなかなか寝付けなかった。そんな中「コーン、コーン、コーン。」と狐のような細い鳴き声が静寂を包み、やがて僕は眠りの落ちていった。

 次の日は朝から賑やかだった。この町の人がみんな出てきたような感じだ。その中を御神輿は勇壮に、方々を練り歩いた。おじいちゃんの家の前にもやってきて、神輿を一度掲げてくれた。

「御神輿は一軒一軒回るの?」と尋ねると、

「康が亡くなって三十年の節目やからな。」とおじいちゃん答えた。

「祐、今日の夕飯は神社の振る舞いのおうどんやからね。美味しいのよ。」とおばあちゃんが言うと、おじいちゃんが続けた。

「七時頃に花火が上がるけんの。それを合図に、神社前に集まろう。それまで祐は一人で好きなところを見てくるとええ。」

 僕は、神社通りをゆっくり歩いた。ヤスちゃんを探してみたが、会うことはできなかった。昨日ちゃんと約束をすればよかったと後悔した。

 薄暗くなり、ついに松明にも櫓にも火が点けられた。炎は徐々に大きくなり、天に舞った。こんなに大きな炎を見たことがなかった僕は圧倒され、自分のちっぽけさを感じた。言いようもなく怖くなり、この場を離れたくなった。そして、昨日の展望台目指して駆け出した。

 一気に展望台まで登ると息が上がった。休んでいると、後ろから声がした。

「祐ちゃん。」ヤスちゃんだった。

「ヤスちゃん、探していたんだよ。会えてよかった。」と僕が言うと、

「うん。僕も祐ちゃんに会えてよかった。」とヤスちゃんは笑った。そして、

「祐ちゃんがいないと、下にはいけないんだ。」と小声で言った。

 僕はヤスちゃんの言っていることを理解できなかったが、ヤスちゃんに会えて怖かった気持ちが少し和らいだことが嬉しくて、それ以上は聞かなかった。

 僕たちは、展望台から神社通りをしばらく眺めた。炎をバックに鳥居の赤いきつねの神様が美しく映えていた。火は全てを吞み込み焼き尽くす。代わりに全てを清める。だから、美しく怖ろしいのか。そんなことをぼんやりと考えていた。

 ドーン!バン、バンバン。花火の音がした。時刻を告げるための花火なのか、それ以上続かなかった。

「ヤスちゃん、おうどん食べに行こうよ。」

僕たちは、坂を競うように下り、小さな鳥居をくぐった。じゃれ合っているきつねの像が見えなかったが、急いでいたせいで見落としたのだろうと思った。神社に出ると、すでにうどんが振る舞われ始めており、たくさんの人が立ったままうどんを食べていた。

「祐!」

「あっ、お父さん!来てたの?おじいちゃんとおばあちゃんは?」と僕が言うと、

「おうどんを取りに行ってくれてるよ。ここで待ってよう。」とお父さんは言った。

「お父さん、ヤスちゃん。昨日知り合ったんだ。」

「こんばんは。」とヤスちゃんはうつむいていた。それからすぐに、おじいちゃんとおばあちゃんが、大きなどんぶりをお盆に載せて戻ってきた。

「祐。来とったか。良かった。」とおじいちゃんは言った。

「さあ、食べよう。あら、祐のお友達?あなたの分のおうどんあるわよ。祐が二杯食べるだろうと思って、貰ってきとって正解やね。」と言いながら、おばあちゃんはどんぶりをくれた。

「昨日話していたヤスちゃん。」と言って紹介すると、おじいちゃんはしばらく動かなかった。

「康か?」おじいちゃんは震えるような優しい声で聞いた。ヤスちゃんはゆっくりと顔を上げてうなずいた。

 その時、御神輿が神社前に帰ってきた。多くの人が御神輿を台座から外して掲げた。二回、三回、御神輿が炎のように天に向かって伸びた。御神輿と鳥居と赤いきつねが炎と一緒に生きていた。美麗とか妖艶とかいう、本でしか知らなかった言葉に真実味が帯びていく。気がつくと、拍手が通りに響いていた。

 僕たちは、大きなどんぶりを両手に持って、黙々とうどんをすすった。僕は、おじいちゃんとおばあちゃんの心持ちを想像した。もう二度とできないと思っていた、家族が揃った火祭り。家族の揃った夕食。それが不意に叶った不思議。どうしていいかわからないけれど、なんとも切なく嬉しい。聞きたいことや言いたいことが山ほどあるだろう。でも、あり過ぎて誰も一言も話せない。

 祭りが終わりに近づいていく。櫓の木が音を立てて崩れ、ひとしきり大きな炎が上がった。その炎を映したそれぞれの目に涙が浮かんでいた。その時、僕には鳥居の赤いきつねが微笑んでいるように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

火祭り @mizu-sumasi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ