きつねそば

@Imizu

きつねそば

 おかあさんから電話があったのは、スーパーの閉まる三十分前だった。

「年越し用のおそば買ってきといて。インスタントでいいからね」

 おかあさんとおとうさんは二人そろって遅くなることが多かったから、ぼくは今年小学生に上がった妹と二人で夕食を済ませることも珍しくなかった。そんなときは近所のスーパーでお弁当やパンなど、なんでも好きなものを買ってきていいことになっていたけど、一年生と三年生の子どもに火や熱湯を使わせるのは心配だったみたいで、カップ麺は禁止されていた。

 だからインスタントのおそばを買ってきてと言われて、ぼくは少し大人になった気がしたんだ。

 一週間前から急に冷え込んだ夜の街を、雪だるまみたいにまるまると着重ねた妹を連れて歩いた。妹はアニメの魔法少女のスティックを振り回して、よくわからない呪文を繰り返し唱えている。

 閉店直前のスーパーはいつもと同じはずなのに妙に明るくて広々としていた。

「あ、おい、明美」

 自動ドアをくぐった途端、妹が一人で駆けだしていった。どこに行くのかはわかっている。お菓子コーナーだ。でも追いかけて行って、お菓子に魅入られた妹を引きはがしていたら、閉店時間になってしまう。しかたない。妹は放っておいて買い物かごを手にすると、近くの陳列棚で商品を数えていた店員さんに声をかけた。

「すみません。インスタントのおそば、どこですか」

「ん、ああ、そのあたりですよ」

 顔を棚の方に向けたまま左手で指さして教えてくれたけど、気持ちを半分家に帰してしまっていたみたいで、店員さんはどこかめんどくさそうだった。

 とりあえず教えられた方向に歩いて行く。店内に蛍の光が流れ出す。もうすぐ閉店ですという録音された女性のアナウンスを聞いて、ふと明美のことが心配になった。一年生が一人でうろうろしてよい時間ではない。だけどまずはそばを手に入れるのが先決だ。

 注意深く眺めながら歩いていると、カップラーメンのコーナーに『赤いきつね』と『緑のたぬき』と書かれた商品が並べられていた。

 「あかいきつねとみどりのたぬき~」というテレビコマーシャルの歌が頭に蘇る。

 蛍の光がぶつっと途切れて、録音ではない男性の肉声が店内放送で流れる。「当店はただいまの時間をもちまして閉店いたします……」

 ぼくは慌ててカップそばを四つかごに入れて、小走りにレジへ向かった。閉店時間なのにごめんなさいと心で言って肩をすぼめる。

 と、左腕が引っ張られた。振り返るといつの間にか明美がぼくの袖を掴んで、おでこをすり寄せている。甘えるときのいつもの仕草だ。夜遅くに両親がいなくて寂しいのかもしれない。頭を撫でてやりながら財布を取り出す。

 レジのおねえさんはすでに商品をビニール袋に入れてくれていた。お金を払って、明美の手を握り急いで店を出る。

 外に出た瞬間、火照った耳がきゅっと縮こまる。妹と手をつないで帰る道すがら、まばらに並んだ街灯の淡い光の間の暗闇で、急に心に靄がかかった。家に帰っても両親は帰ってこずに、いつまでも妹と二人きりで待ち続けるのではないだろうか。そんなはずないとわかりながらも、二度と両親に会えなくなるという黒い予感がこぼした墨汁のように浸みてくる。これまでにもたびたび、妹を先に寝かしつけた夜に感じた感覚だ。いけないいけない。気を抜いたら飲み込まれてしまう。ぼくがしっかりしないと。

 手をつないだ明美は風に流される凧のようにぼくの腕を振り回しながら、反対の手でスティックをくるくる回し、きゃははと笑う。まん丸い月が浮かんだ夜空に、幼い歓声が響く。大晦日だけど誰も出歩いていない夜道を、がらがらの遊園地のつもりで楽しんでいるのかも知れない。ぼくは妹の小さな温かい手を逃さないように、ぎゅっと握った。

 マンションに着いても明美は跳びはねてはしゃいでいた。

「こら、静かにしろよ。ご近所に迷惑だろ」

 ぼくが注意をしても妹は聞く耳を持たない。やれやれ。半分うんざり、半分安心して、玄関に鍵を挿す。回すと重い機械の動く感触がする。取っ手に指をかけて引っ張ると、いつもより扉が軽く、勢いよく開いてよろめいてしまった。

「おかあさん!」明美が叫んで玄関に飛び込む。

「おっかえりい!」妹を抱き上げたおかあさんがいつもの笑顔で、ぼくの頭を撫でた。こんな時間まで働いてくたくただろうに、おかあさんはいつでもハイテンションだ。

「留守番とお遣いありがとね」

「ん」ぼくは小さく返事だけしておかあさんの手を払いのけて靴を脱ぐ。さっきまで胸に広がっていた黒いかげが、あっという間に蒸発する。

「おとうさんも帰ってるよん」

「ん」

「おう、そば買ってきてくれたか」奥の部屋からおとうさんの声がする。

 リビングに行くと、おとうさんはもうお湯を沸かして待っていた。

「急がないとな。あと三十分で年越しだ」

 おとうさんにビニール袋を手渡し、洗面所で手を洗って戻ると、おかあさんが袋を覗いてあれっと声を上げた。

「あんたこれ」袋から取り出したカップは赤いふたに『きつね』と大きな文字があった。なにを言われてるのかわからずまばたきをしていると、おかあさんが呆れたように言った。

「これ、うどんだよ」

「えー、どれどれ」ケトルを手にしたおとうさんも見にくる。

 ぼくはどういうわけか『きつねそば』と『たぬきうどん』だと、なんの疑いもなく思い込んでいたのだった。だから『きつね』の文字を見て迷わず買ってきたのだけど、それはうどんだった。

 隣で明美がぼくとおかあさんの顔を見比べて目をくりくりさせている。

 こんなちょっとした間違いが普段から多くて、いくら注意してもなくならない。こんな大事な日にまた失敗するなんて、つくづく自分が嫌になる。せっかくの家族そろって迎える年越しが、ぼくのせいで台無しだ。

 黙っているぼくを見て、おとうさんが楽しそうに厳かに、宣言した。

「よし、みなのもの。我が家はこれから『うがそでどんがば』令を施行するぞ」

「しこう? しこう?」明美がきょとんとする。

「はーい」おかあさんがいたずらっ子みたいな笑顔で手を上げる。

「ということでみんな、きつねそばを開けろ」

 おとうさんの号令でみんな我先に透明フィルムを破って、紙のふたを慎重にめくる。明美がふたを途中で破ってしまってぶーぶー言う。ぼくは妹のカップの縁に残った紙を爪で摘まんでゆっくりと剥がしてやった。

 おとうさんが四つ並んだカップに喫茶店のマスターみたいに優雅にお湯を注いでいくと、香ばしい出汁の匂いが広がった。

 テレビで除夜の鐘を聞きながら食べる、一夜限りのきつねそばは格別の味がした。

 明美は食べかけで力尽き、魔法スティックを握ったままテーブルに突っ伏した。おかあさんが笑って毛布を掛け、おとうさんがお姫様だっこでベッドに連れて行く。

 おとうさんとおかあさんはすごい。ぼくがくだらない失敗を繰り返しても、上手く喋れず無愛想になっても、一切合切受け止めて家を明るくしてくれる。まるで魔法使いだ。だから明美。おまえもきっと魔法使いになれるよ。おとうさんのうしろ姿を見送りながらぼくは思った。

「と・こ・ろ・で・さ」おかあさんが指揮者のようにお箸を振って言う。

「これはなにかな」

 スーパーの袋から大判の板チョコを取り出してぼくに見せる。なんだ? そんなもの買った覚えはないぞ。ぼくは。

「あっ」思わず声が出た。

 明美だ。やられた。

「仕方ないなあ。ほら」おかあさんはチョコレートを四つに割ってひとつ咥え、ぼくにもひとかけくれるとにやりと微笑んだ。

 明美よ、おまえはもう十分魔女っ子だ。

                <了>

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