僕にひたすら塩対応な妹が可愛すぎるので溺愛する。

殻半ひよこ

汝、己のカワイイを知らぬ者

 僕の妹は世界一カワイイ。

 ので、今日も溺愛しようと思う。

 対戦よろしくお願いします。


明日花あすかー」


 二階の角部屋、二輪の花のプレートがかかった戸をノックする。

 返事はない。

 十秒後、再度ノックする。


「明日花明日花ー、僕だよー」

『……うっせ。あーうっせ……』


 返事は、扉の右上にちょこんと設置された、キュートなスピーカーから響いてきた。

 おいおい、ちょっと待ってくれ。これはえらいことだな。

 直じゃないマイク越しでも、ここまでしっかりかわいいとか。


『帰る部屋違ってんぞ、ぼけ葉太ヨータ……回れ右して階段降りれ、そんでそのまま家出てけ……』

「そうはいかないよ。だってもったいない。せっかくお土産持ってきたんだ、ほら、商店街の【For Crown】、あそこの特製ブラウニー」


 戸の上に設置されたカメラに、ケーキの箱を示す。

 ……すると、しばしして、錠の回る音がした。

 しかしここでいきなり扉を開けるのは、明日花のお兄ちゃんとして未熟。

 彼女が再び所定の位置に帰る間をしっかり持つのが、忘れちゃいけない兄’sマナーだ。


 焦らず呼吸を整えて。

 動悸を押さえていざ行かん。


「お邪魔します」


 果たして。

 封印された戸の向こうには、独自の世界が広がっている。


 壁にはポスター・ペナント・ピンナップ、本棚には様々なジャンルの背表紙が並び、天板には所狭しとフィギュアが並ぶ。分厚い遮光カーテンで真昼の陽も遮られているが、部屋の四隅に設置された間接照明が煌々と光り、薄暗さは微塵もない。


 本人の好きと趣味でこれでもかと彩られた空間。中に入っただけで、その心に触れている気がして感動する。

 だが、本題はそこじゃない。


「や、明日香。僕だぜ」


 平静を保つのに苦労する。

 だって、目の前に世界一のかわいいが居る。

 押し入れを改造して作ったゲーミングスペースで、モニターに向く後ろ姿。顔を向けないし反応もしないが、それで逆によかった。だって、いきなり直視でもしようものならどうなっていたかわからない。


 まいったな。

 うちの妹、斜め後ろからの角度のかわいいがすぎる。

 トラモチーフのだぼっとした着ぐるみ風パジャマを着て、頭にはそんなゆるふわ感の対極にあるようなごっついヘッドフォンをつけている。ゲーミングチェアに座りながら姿勢はわずかに前傾で、両肘を肘掛けに置き、一生懸命にパッドを叩いている。


 その指の、たおやかなこと。

 集中する息遣いの、まっすぐなこと。

 

「――はっ。いかんいかん」


 見つめていると何も手につかなくなるので、非常に心苦しいが鑑賞は中断。お土産の準備を始めた。

 テーブルに持参した紙皿・使い捨てフォークでケーキを用意、合わせて魔法瓶から紙コップに紅茶を注ぐ。砂糖は二つ、いや三つ。今日の明日香は、頭と手をよく使っている。


 それらがちょうど並んだところで、僕が呼ばずとも、パッドを置く音がした。

 コードレスのヘッドホンを首にかけたままやってきて、正面、定位置の座布団にどかっと、片膝を立てて腰かけられたことで、僕はようやく、一月振りに、愛しい妹の顔を見た。


「――――」


 そこに、奇跡のかわいいがいる。

 ボリューミーなウルフヘア――に見える髪型は、意図してセットしているのか、ただ無頓着に放置された結果なのか、奇跡のバランスが生んだ唯一無二のさりげなさ。

 切れ長の三白眼は目の前の相手を見ず、視線は何もないテーブルの端辺りへと、そっけなく投げ捨てられる。

 そんなふうに余所を見ながら、伸ばした手は正確に、卓上のウェットティッシュのポットの蓋を開ける。一枚二枚と引きずり出し、今しがたパッドを握っていた手をごしごしと拭く。

 それから。

 使い終えたウェットティッシュをぽいとゴミ箱に投げ捨て――ブラウニーを手掴みに。


「んあ」


 大きく口を開けて、かぶり付いた。

 がしがし、もぐもぐ、ぱくぱく。

 紙皿の上の三本はあっという間に無くなっていき、紅茶も合わせて飲み干される。


 それだけで僕は、腹の底から嬉しくなってしまう。

 ああ、よかった。大好物への、この幸せそうな夢中っぷり。

 僕の大事な大事な妹――峰岸みねぎし明日花は、今日も元気だ。


「……な。なに……?」


 と。

 一瞬ちらっと目線を動かし、僕の視線を確認した明日花が、抗議してくる。

 声は小さく、しっかりと注意しなければ、容易に聞き逃してしまいそう。

 

「……わたしの食いかた、食うとこ……そんな、面白い……? べ、別にいいじゃん、好きなもんぐらい、好きに食わせろし……」

「うん、最高だった」


 なので。

『大丈夫、ちゃんと届いているよ』の意思表示の為に、こちらははきはきと返答する。


「明日花が美味しそうに食べてくれるもんだからさ、あんまり嬉しいもんで、こっちの手が止まっちゃった。どう、明日花? 僕の分も食べる? はい、あーん」


 フォークに刺したブラウニーを口の前に差し出す。

 そんな僕に、明日花は目を逸らしたまま舌打ちをした後「……うっざ……用事済んだろ、はよ帰れ……」と呟き、片膝を両手で抱いて顔をうずめてしまった。


 ……くっ。

 すごいな、何から何までかわいすぎるぞ、僕の妹。


     ∥


 明日花が今のかわいさに目覚めたのは、一年と半年前――中学三年の夏だった。

 多感な思春期にガラッとキャラ変は別に珍しくない。明日花の場合は、趣味がアウトドア派からインドア派になったかんじ。空き時間の使い道も、あれこれ忙しくスケジュール帳を埋めるより、一人でのんびりした楽しみにスライドした。


 その、まさに変化の真っ只中の時期、僕はちょっと傍にはいなかったのだけど、再会して驚いた。

 明日花のかわいくなりっぷりに。

 二十代後半の男性と、十代半ばの女の子では、時間の進みは決して同じ尺度じゃない。久々に顔を合わせて呆然とする僕に、明日花はこんなふうに言い放った。


『……どしたの。笑えば。……レール脱落ざまあで、いい気味でしょ。わたし、こんなの……』

『かわいい』

『……はひゃ……?』

『世界一かわいい』


 そして続けざまに、ぼくは自分の思いのたけをぶつけた。

 即座に返答があることも、その内容も、予想外だったのだろう。言葉に詰まり、両手を顔の前にかざして逸らしていた視線ごと表情を隠し、それから、


『……変じゃん、ぼけ葉太……』 


 思い出したように体当たりされ、部屋から追い出された。

 鍵が閉められ、ベッドにクッションを何度も叩きつける音がする。

 

『また来るよ。明日花がかわいくて、僕もパワーがもらえるからさ』

『……来んな……やめろ……その顔見ると、いらいらすっし……』


 スピーカー越しに最初の絶縁を食らったのが、今年の頭。

 以降、時間の都合がつく度に訪れては、部屋に入れてもらえたりもらえなかったり、5分で追い出されたり10分で追い出されたりをやっている。


 ふふふ。

 いやまったく、難易度激ムズでかわいがりがあるぜ、僕の妹ときたら。


     ∥


「うー……寒、寒」

 本日、天気は季節の風情、すなわち雪。

 吹雪きはしないが勢いそれなり、コートもマフラーも貫通する寒さの中での駅から徒歩は結構きつい。


 だがそれがどうした。

 今日も今日とて妹を愛でる。

 それが兄のディスティニー。


「かわいい妹のためならば、雪にも負けずの心意気、ってね……っくしゅ」


 玄関で身体の雪を叩き落とし、コートをかけて二階へ。扉の前で、いつものノック。


「明日花ー……ん?」


 おや。

 今日は、最初の呼びかけで錠の回る音がした。


「……? お邪魔しまーす……」


 先日、ブラウニーを差し入れた振りに訪れた明日花の部屋には、変化があった。

 テーブルが、コタツにフォームチェンジしてる。

 暖かそうな毛布を広げ、明日花もいつものゲーミング押し入れのチェアからコタツの座椅子へ場所を移し、サブ機であるノートパソコンのに向かっていた。


 これは予期せぬごほうびだ。

 座椅子は部屋の入り口に向いて置かれているため、今日は、いきなり顔を見れた。

 

 ツンとした感じの表情でモニターを見つめつつ、有線マウスを小刻みに動かしキーボードを叩き……うん。

 マイシスター・オールシーズン・コンスタント・カワイイ!


「コタツ出したんだ。そうそう、今日はさ」

「…………いいから……」

「え?」

「……べちゃくちゃ言うの、後でいいじゃん……まず、入れよ……」

 

 声には苛立ちが混じっている。

 ……どうやら、明日花は。僕が濡れた裾を気にして、コタツの外で正座しているのを、咎めているらしい。

 ……いや、それって。いやいやいや……これってぇ……! 


「あ、ああ、明日花ぁ……!」

「……うっぜ。風邪でも引かれたら、わたしのせいみたいでうっとうしいだけだっつの……てか、そもそもこんな日にまで来てんじゃねーよ、ぼけ葉太がよ……」


 妹の好意を無下にするもの、兄にあらず。

 お言葉に甘えて、足をコタツに突っ込まさせてもらう。

 ……と。


「ひゃんっ!?」

「ぐふっ!?」


 コタツの中で、僕と明日花の足が触れた。不意に冷えきったものを当てられた驚きからか明日花が普段出さない類の声を出し、そのかわいさを無防備な状態で受けてしまった僕も、当然凄まじい衝撃を受ける。

 勘弁してくれないか、人体が安全に接種できる以上のカワイイを不意打ちで食らわせるのは。


 いややっぱり勘弁しないでいいやつだわ。

 もっとちょうだい。定期的にちょうだい。サブスクとかやってません?


「……っ! ぼけ、ぼけ、おおっ、ぼけっ、葉っ、太っ!」

「ははははごめんごめんほんとごめん」


 げしげしと凸られるコタツ面下の足蹴。お怒りのところ非常に申し訳ないが、兄にとってはごほうびです。


「…………あのさ…………」

「なんでございましょう」

「……こんな天気でも来るとか、サラリーマンって、ヒマなわけ……?」

「個人差かなぁ。業種とか会社次第だろうし」

「……ゴールデンウィークとか、盆とか、年末、とか。特に、忙しくなるって聞いた……。でも、別に、いっつも普通に来るじゃん……」

「いやあ。たまたま時間ができたもんで」


 あはははは、と笑ってごまかす。

 ゴールデンウィーク、盆、年末。ええ、弊社も毎度あの世みたいな有り様です。入社以来血反吐もんでしたよ。


 ただ、それも去年まで。

 今年からは違う。押し寄せる地獄を、気合いと根性と、愛と希望と妹カワイイで乗りきりましたとも。全てはこの瞬間、何でもない調子でここに顔を出すために。

 おかげでなんとか、今日という日に定時上がりできるくらいに余裕ができた。


 ……冗談ではなく、明日花に会うために仕事を張り切り、効率も業績も上がって社内表彰までされたんだよなあ。いっそ仕事術として書籍化できてしまうかもしれない。心に妹を住ませろ(仮タイトル)。


「……やっぱ、葉太はぼけで、その上、ばかだ。そりゃ、こうもなるよな……」


 明日花が殊更にため息を吐いて、ひひひ、と笑った。


「……そんなだから、どうせ、会社でもぼっちで……せっかくの……クリスマス、だってのに。やることもなくて、こんなとこ、来るはめになンだよ。パーティとか、誘われなかったんだろ。く、屈辱の六時間だ……ざまぁ……」

「あー、誘いなら受けたよ。昔からのツレとか、大学サークル時代の後輩とか、同じ部署の先輩とか。気が早い相手だと、半年くらい前にはもう、スケジュール予約させてほしいってさ」

「…………は、へ?……」


 相当に予期せぬ答えだったのか。

 マウスの動きも、キーボードの打鍵も止まった。


「全部断った。僕と一緒に過ごしたい、と思ってくれたのは、そりゃもちろんありがたいし嬉しいけど。僕が一緒に過ごしたい、と思ったのは、明日花だから。……っと」


 危ない危ない、タイミングを逃すところだ。

 僕は、持参した紙袋から、ラッピングされた箱を取り出して机に乗せる。


「メリークリスマス、明日花。これ、ささやかだけどプレゼント」


 明日花の視線が、じっ、とそこへ向く。

 この真剣な眼差し、さてはサイズとかラッピングの種類で何処の店の何かを当てようとしているのだな、さすが明日花、日常からゲーム性を抽出するタツジン!

 僕がそんなふうにうむうむ頷いていると、


「……ない……」

「え?」

「……こっち、特に、何も、ない……」

「ああ、気にしないで。こっちが勝手に、やりたいからやってるだけでさ。大丈夫だから受け取って。お返しっていうなら、明日花が喜ぶ顔を見られたら僕ぁそれだけで」

「……うっせ。うっぜ……」

「わ」


 再びコタツの中で蹴りを放ち、それから明日花は、おもむろに立ち上がる。

 どうしたの、と問う間もあればこそ。

 彼女の指がいきなりファスナーにかかり、それから、いっぺんにおなかの辺りまで引き下ろされた。

 白い肌着と、こもった熱でうっすらと汗をかいた――


「ふンぬァッ!」


 思考が及ぶ前に、手動で首を回し、見ちゃいけないものを視界から外す。


「……あははは。すっげー声、おもしれー……」

「んななな何してんの明日花! ダメでしょそういうの! めっ!」

「……何って。パジャマ脱ぐ意味とか、ひとつっきゃねーだろ、ぼけにぶ葉太……」


 衣擦れの音がする。

 着ぐるみパジャマが脱ぎ去られる。

 そうして、明日花は、おもむろに――


「……よっと……」


 ――ベッド下の収納部を開けていた。


「……パジャマのままだと、外出れねえじゃん……。なんか、奢ってやっから……コンビニでも、行くぞ……」 

「……あ、ああ! うん、そうだな! 行こ行こ!」

「…………ごまかせねえからな。この、どすけべ葉太…………」


 うわあい。

 ごめんこれはちょっと死にそうだぞう!


     ∥


 雪の夜道は、明るい。

 外灯なんかの光を雪面が跳ね返し、辺りをぼんやりと照らしあげる。夕暮れと夜の境目とも、満月の晩とも違う、不思議な空気感が生まれる。

 つまり、どういうことか。

 うちの妹がめっちゃかわいくなるのです。


「ありがたや……ありがたや……」


 耳までしっかり押さえるボンボン付きのニット帽に、明るい色のダッフルコートと厚手の手袋にスノーブーツ。期間限定、完全防寒のウィンター・スタイル・明日花がさくさく雪踏み夜の住宅街を歩く様は、これもうジャンル・幻想ファンタジーでしょ。この世のものとは思えません!


「部屋で絶好調なのもいい……けど、こういうロケーションに出ても最高……カワイイは場所を選ばず……」

「…………しゃッ……!」

「わぶ」


 素直な感想をお伝えしたところ、雪玉を放られた。そのコミュニケーション、顔面で受け止める。

 ごっつぁん!


「……前から、よぉ……その、やたらカワイイカワイイ言いやがるの、やめろし……! 見る目腐り落ちてんのか、見え見えの世辞とか、気分わりー……!」

「えー? いやでも、明日花は事実カワイイだから……」

「……だ、か、ら……! どこが、だっつうの……! カワイイとか、ろくに外面に気ぃ使ってねー、美容なんて優先順位下の下、通学以外運動もほとんどしないわたしの、対極にある言葉だろ……!」


 ぶんぶん腕振り抗議してくる明日花(これもカワイイ)。

 ……ふむ。

 どうも、わが妹は根本的なところを思い違っているようだ。


「【外見に愛嬌があるもの=カワイイ】。明日花は、そう思うんだね」

「……そうだろ、ふつう……」

「じゃあ、その普通は僕とは違うね。僕にとっての”カワイイ”は、通念との照合作業じゃなくって、自分がどう感じているかだから」

「……は? え? なんて……?」

「カワイさってのは、感性だ。美醜によってだけ、その感覚を抱くものじゃないし、弱さ足りなさがそれを刺激することもある。――つまりだね、他の誰かがどう言おうと明日花本人がどう思ってても、僕にとって君はどうしようもなく#いとおしい(傍点)ってこと」


 にこり、と笑みを送る。

 明日花は、わかったような、わかってないような、わかりたくないようなしかめっ面をする。はいカワイイ。


「……でもさ。もっとカワイくなったらいいとか、思わねーの……?」

「……うん? どういう意味だい、それ? すでに完全究極体カワイイと明日花が、もっと……? ……ははあ、哲学の話?」

「……だから……! ……ま、また……」


 言葉を詰まらせながら、視線を反らしながら、明日花は言葉を続ける。


「……また、前みてーに……明るくて、人付き合いもできて……友達が多くって、ちゃんとしてるわたしのほうが、その……葉太、だって、嬉しいんだろ……! そうだよ、そうさせるために、わたしを更正さすために、来てんだろ……!?」


 ――がつんと、頭を殴られたみたいな衝撃。

 その、一瞬言葉に詰まった僕を見て、明日花は走り出してしまった。


「あ、ちょ……ぶはっ!?」


 迂闊にも、雪で隠れたでっぱりにつまずいた隙に、彼女の背中が遠ざかる。


「明日花! あーすーかーっ!」


 呼びかけにも答えない。振り向かない。

 遠く、うっすらと見えるコンビニへ、一人で走っていってしまう。

 ……その風景が、殊更に胸にくるものがあって、少しだけ、ぼんやりと座り込んでしまった。


「――あの、大丈夫ですか?」


 外で大騒ぎして、座り込んでいたからか。家の中から人が出てきて、声をかけてくれた。救急箱を持った、親切そうなお姉さんだ


「転んだみたいですけど、どこか怪我とか――」


 雪の夜は、明るい。

 おかげで、見せたくないものも、よく見える。

 顔をあげた僕を見たお姉さんは、一瞬絶句する。その表情、うかつに関わってしまった後悔まで、ありありと、わかる。


「お騒がせしてすみません。大丈夫です、一人で立てますから」


 笑顔は、交流の便利道具だ。敵意の無さを示し、関係を円滑にする。

 僕が使うには、少し、手に余るものだけど。


「お気遣い、ありがとうございました」


 とぼとぼと後を追う。

 遠い光を目指していく。

 ――雪の夜は、明るい。

 その分だけ――ひとりで歩くと、自分の寂しさまでわかってしまう。


     ∥


 特に面白くも、可愛げもない話だけど。

 僕は、あまり優秀な方じゃなくて、誰からも期待をされていない子供だった。


 親には落胆され、兄弟には蔑まれ、おおよそこの世の【正解】とか【成功】とかからこぼれ落ちて、ろくでもないコミュニティに属して。

 投げやりに、自暴自棄に、どうにでもなれ、と思いながら、くだらないことを続けていた。


 たぶん。

 遠からずロクでもないことで一線を越えて、短くてつまらなかった人生を終えるんだろうな、とか、他人事みたいに考えて、自分で自分を笑いのめす毎日を送り……そして、それがまさに、現実になろうとした、ある日。


『やりたくないこと、無理してやんなくていいよ』


 その子に、会ったのだ。

 一度か二度、見たことがあるだけの隣の家の女の子に。


『たのしくないことなんか、やめちゃえばいいよ』

  

 その時の自分が、どんな顔をしていて、どういうふうに見えたのか。

 わからない。

 ただ、その子は――暗い路地裏に座り込み、ナイフを握りしめる僕に、何の物怖じもせずに語り、諭した。


『さぼっちゃうのだって、だいじ、だいじ。わたしがね、ゆるしたげるからさ』


 こっちの事情を何も知らない、無邪気なガキの、無責任な言葉だ。

 ただ。

 僕はそれに、“そうかもな”と思ったのだ。

 肩の荷が、降りたみたいに、感じたのだ。


 溜まり場に取って返して、ナイフを返して、やれと言われたことはもうやれない、チームを抜けるとその場で告げた。

 その代償の【儀式】を受けている途中で、対立していた別のチームが殴り込んできて、僕の処遇もうやむやになった。


 それからの僕は、あの路地裏でもらった言葉を生きる基盤にした。 

『やりたくないことは、無理してやらない』。

 たったそれだけのことで、何を悩んでいたのだろう、というくらい、人生は好転した。……自分の不出来さも。親兄弟との不仲も。


 そんなふうに。

 これからもうまくやっていけるかもしれない、と思っていた最中だった。


 自分を助けてくれた、だからこそ自分は関わるべきではないと律していた女の子が……あんなふうになったのは。


     ∥


「いつまで黙ってンだ、あァっ!?」


 コンビニに入る前から、野卑な怒声が外まで響いた。

 瞬間、素早く店内を見渡し、状況を把握する。

 店内にはまばらに客、レジ前には一目でわかるチンピラに絡まれているらしい涙目の女性店員、そして――

 ……チンピラの裾を思いきり引っ張っている、顔を伏せた少女。


「言いたいことあんなら言ってみろつったよなあ!? 調子のってンならよ、お前からしつけてやるか!? ガキが夜中にひとりでブラブラしてんじゃねえってよ!」


 少女は、身に余る驚異に晒されながら、それでも手を離さない。

 その態度に、チンピラは衝動的に腕を振り上げる――。


「ガキャァッ!」

「ぼくの」


 その。

 振り上げた腕を、掴む。


「妹が、何か?」

「あァッ!? ……っ!」


 唾を散らして叫ぶ顔が歪んだのは、その手首を砕かんぐらいに握られたからか。

 ――それとも。

 そんなに、僕が、可愛げなかったからか。


 中学の頃、チームを抜ける時の制裁に、右目から下に大きな傷を刻まれたこの顔が。


「――クソがっ!」


 チンピラは、会計を中断して逃げるようにコンビニを出る。怯えていた店員さんと、奥で警察に連絡していたらしい店長さんに、「ご迷惑をお掛けしました」と頭を下げられる。

 僕たちはただ、そそくさと買い物を済ませて、帰り道についた。


「はいこれ」


 ホットのミルクティーを渡すと、明日花は黙ったままそれを受け取った。


「さっきの話の続きだけどさ」


 切り出した瞬間、彼女の肩が、びくっと動いた。


「僕は別に、明日花に、前みたいな君に戻って欲しいとは思わない。……だって。あの頃の君は、無理してた君だろ」


 僕らの住んでいたのは、高級住宅街だ。

 僕は、落ちこぼれの次男坊だったが……明日花は、良家の一人娘として、体面を背負わされていた。

 悪意のない、善意と幸福を願った期待に応えるために、彼女はひとり、頑張って、頑張って、頑張って頑張って頑張り続けて……。

 ……そして、とうとう、重圧に潰された。


「僕は、今の君こそいとおしいと思ってる。少なくとも今は、壊れるような無理をしていないから」


 元々家を空けがちだった峰岸家の両親は、折れてしまった明日花を諦念混じりに、一人きりの家に放置した。買いたいものは好きに買わせて、現状は黙認に近い。こうなった原因を、父は母に、母は父に押し付けて、最終的な決定を先伸ばしにしている。


 娘の問題なのに。

 娘のほうは、見もしないで。

 それがどれだけ、娘に新しい疵を作っているのか、気づきもしないで。


「でもさ。いくら楽でも、ずっとさみしいのは、うまくないよね」


 今でも思い返す。

 これまで何度も失敗した、格好悪い僕だけれど。

 たったひとつだけ、誇らしいと思うことがある。

 それは、明日花に再会した日。

 向こうも、近所の僕を覚えていて。『レールから脱落した自分を笑え』と自重するあの子に、『君と家族をやりたい』と告げたとき。

 自分が彼女にしてもらったこと。

 彼女へ自分がしたいことを、話したとき。


『君がどんなふうになろうと、僕にとっては絶対に、世界一かわいい。これからは、お兄ちゃんとして会いに来るよ。明日花ちゃんに、今度は僕が――あの時、本当は君のほうこそ、誰かに言ってほしかったこと。やりたくないことは、やんなくたっていいって、言うために』

『……笑えるし。……い、妹だって、言うなら。ちゃん、とかつけるの……役割のディテール変じゃん、ぼけ葉太……』


 うざったらしそうに。

 けど、少しだけ、嬉しそうに。

 来るな、とは言わなかった、一回りは違う、年下の幼馴染みを思うと。

 ぼくはこれから、どれだけだってがんばれる。


「君は、前の君と違うけど。でも、素敵なところは、今だって何もなくなってない。――困ってる、見知らぬ人を助けにいける。明日花はやっぱり、僕のいちばんカワイイだ」

「……んっ……!」

「ぐふっ!?」


 無防備なところにきた。

 いきなりの腹パンがいいところに入って、身体をくの字に折る。


「……ぼけっ! ぼけ葉太っ! お、恩返しに出かけたのに……また、新しい借り、作んな……っ!」


 またしても駆け出して行ってしまう明日花……と。


「……あれ?」


 雪の上に落ちている、お菓子に気づく。

 なんだろう。これ、一緒に会計した中にはなかったよな。……とすると、僕が行く前に、明日花が買ってた……?


「……あ」


 拾い上げて、ふと裏返して、絶句する。

 それは、差し入れ用途をメーカーが押しているチョコ菓子で、裏にはメッセージを書き込める余白があり。

 そこに、こんな一言があった。


【 わたしのかわいいはおまえだ ぼけ 】


 雪の夜道。

 顔を上げればそこに――遠くの電柱の陰から、恐る恐るこちらの様子をうかがっている、ダッフルコートの少女の姿。


 さて、とりあえずこのお菓子は、宝として永久保存と決まったのだけど。

 どう考えても、カワイイはやっぱりそっちだよ、明日花。

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僕にひたすら塩対応な妹が可愛すぎるので溺愛する。 殻半ひよこ @Racca

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