雪の日、公園の東屋にて
金石みずき
雪の日、公園の東屋にて
今年初めて雪の降った日、学校近くの公園の前を通りがかると、東屋で少女が一人座って本を読んでいた。
なんでわざわざこんなところで、と目を凝らしてみれば知った顔だ。冬野雪花――俺のクラスメートだ。
「何してるんだ? こんなところで」
「何って、本を読んでいるんですよ」
突然近づいて声をかけた俺に驚くこともなく、冬野は緩慢な動作で顔を上げた。
「私、雪が好きなんですよ。だからこういう雪の日はこの季節を五感で楽しむべく、こうして外に出ることにしています」
そう言って微笑む冬野に目を落とす。きつく巻かれたワインレッドのマフラーに紺のダッフルコート。袖からは長めにカーディガンが覗き、指先だけが少し飛び出している。足には暖かそうなブランケットがかけられており、まさにフル装備といったところだ。
「そんなに着こんでたら全然わからないだろ」
「そうでもないですよ。この恰好でも結構冬を感じられるものです」
冬野はカーディガンの袖から人差し指を少しだけ覗かせると、空に向けて立てながら言った。
「まず視覚ですが、これはわかりやすいですね。この深々と降り続ける雪です」
続けて中指も飛び出した。
「次に触覚ですが、顔や耳はちくちくと刺すように冷たいですし、指先はじんじんと悴んで強張ります」
今度は薬指だ。
「さらに聴覚ですが、雪の日に耳を澄ますと、特にしんと静まり返った心地がします。また時折通りかかる人の足音もざくざくと鳴って独特です」
予想通り、小指がほんの先だけ現れた。
「続いて嗅覚ですが、吸い込むと鼻の奥までつんと冷えてなんだか水のような匂いがする気がします。厳密には匂いではないかもしれませんが、晴れの日や雨の日とは違った匂いなので、雪の日の匂いとしても良いでしょう」
そして親指も――と思いきや、こちらに向けていた手をなぜか自分の方へ向けて首を捻った。
「最後は味覚ですか……ええと、困りましたね。雪でも食べてみましょうか」
冬野はそう言ってうんうん唸ると、急に「あ」と発して鞄を開けてペットボトルを取り出した。
そして「これがちょうど良さそうですね」と、蓋をあけて一口だけ含んで飲み干し、どこか得意気な顔で言う。
「少し甘くて、少し酸っぱい、レモネードの味。これを雪の日の味、ということにします」
「最後だけいい加減だな」
「これでも一生懸命考えたのですから、意地悪言わないでください。――おや? よく見れば、橘さんではないですか」
「知らないで話してたのかよ」
今気づきました、といった顔で驚く冬野がなんだか可笑しくて思わず破顔する。
冬野は俺の反応が理解できないのか、目をぱちくりと瞬かせていた。
本当に変な奴だな。このときはそういう印象だった。
それからというもの冬野は度々、公園の東屋に現れた。
現れるのは決まって、雪が降っているが風の弱い、比較的落ち着いた気候の日だ。
そんなときは俺も特に深い意味などなく、冬野の姿を見つけては東屋を訪れた。
最初は一言二言交わして帰るだけだった。
それがやがて悴む指先を暖められるように、暖かい飲み物を差し入れるようになった。
もう少し経って、俺も一緒になって本を読むようになった。
この頃になると、冬野と俺は並んで無言で本を読むときもあれば、本は読まずに会話をするだけの日もあった。
「ああいう木のことを、冬木立というようです」
「あの葉のない木のことか?」
「そうです。他には枯木立とも。あの木は姫沙羅でしょうか。ほら、枝の先に蕾のような膨らみがあるでしょう? 春になればあれが葉となって開き、夏の入り口になれば可愛らしい花を咲かせてくれるはずです」
冬野との時間は心地良かった。
学校では一言も交わさないのにここでだけは話す。
冬野の話はどこか少し高校生の『普通』とは外れていたが、全く苦痛ではなく、いくらでも聞いていられた。
このことが俺にとってはなんだか二人だけの秘密のような気がして、無性に楽しく感じられた。
そして時が流れ、三月も終わりに差し掛かった頃のことだ。
その日、雪は降っていなかったが、公園の前を通りかかるとなぜかいつのも東屋に冬野がいた。
手にした本は閉じられ、ぼうっと空を見上げている。その様子が気になったが、今日は雪が降っていない。ならば話しかけるべきではないのだろうか。
そう思い、先を少し歩いたが、後ろ髪を引かれる思いに負けて踵を返して東屋へと向かった。
「どうしたんだ?」
俺が話しかけても冬野は空を見上げたままだ。
やはり迷惑だったのだろうか、と思って立ち去ろうとした瞬間、冬野の口が小さく開き、言葉が零れた。
「困りました。もう雪が降りません」
冬野はなんだか寂しそうにへにゃりと眉尻を下げ、どこか途方に暮れているようにも見えた。
雪が降るたびに外で過ごす冬野にとっては、雪が降らないということ自体が筆舌に尽くし難いほどに悲しいのかもしれない。
それがなんだか好きなおもちゃを取り上げられた子供のように見え、思わず苦笑してしまう。
「本当に雪が好きなんだな」
「――いえ、そうでなく」
冬野はそこで一旦言葉を切ると、空に向けていた視線を戻して俺の方を真っすぐに見た。
「ただ、橘くんとこうしてお話する機会がなくなってしまうのを残念に思っていたのです。私にとって、とても貴重な時間だったので」
照れるわけでもなく、本当にただ残念そうに言う冬野だったが、俺にとってはとんでもない不意打ちだ。
一気に紅潮したであろう顔を見られないように、マフラーを少しあげて鼻のあたりまで隠すと、いつものように隣に腰掛けた。
冬野は俺のその行動に不思議そうに小首を傾げたが、俺が鞄から本を取り出すと、安心したかのように自分も手に持った本を読み始めた。
そのまま無言の時間が過ぎ、いつもの帰る時間が近づいてくる。
このまま終わってしまうのが嫌で、俺は意を決して口を開いた。
「――別に、雪が降ってなくても普通に話せばいいだろ。俺たち、友達なんだから」
どんな反応が返ってくるかわからず、恐る恐る横目で様子を窺うと、冬野はこちらを向いて、いつかのように目をぱちくりと瞬かせていた。
そして俺と同じように、ワインレッドのマフラーに顔を埋めると、視線を外して前を向いた。
「そう……ですね。友達……ですもんね……」
ぽつぽつと呟くように言って、今度はマフラーを下げてこちらを向くと、柔和に微笑む。
「では春になってもまたここでお話しましょうか。知ってらっしゃると思いますが、あの桜の木がもうすぐとても見事な花をつけるのですよ。……一緒に見ていただけますか?」
少し早い春が来たかのような笑みに、上手く言葉を返せず、「ああ……」とだけ答えると、冬野も「よかったです」とだけ言い、ほぅと息を吐いて本を閉じた。
季節は移ろい、人と人との関係も変化していく。雪は溶けて消え、春になれば芽や花が芽吹く。
だが、どうやら俺と冬野のこの日々は、雪の思い出とならずにこれからも続いていくらしい。
雪の日、公園の東屋にて 金石みずき @mizuki_kanaiwa
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