第13話 大寧寺の変(後) 当主義隆の栄光

 天文二十年(1551)八月、大内領内は風雲急を告げた。

 叛意を募らせていた隆房がついに軍事行動に出たのである。


 事の発端は安芸から。二十日、家臣を遣わして厳島を占拠すると、続いて対岸にあった桜尾城を説得して開城させた。さらにくみしていた毛利元就が、佐東郡銀山城の城番を誘って開城させると、周辺を制圧する。

 こうして安芸各地の要衝を抑え背後を固めた後、隆房は数千の軍勢をついに山口館へと差し向けたのだった。



※ ※ ※ 



 対する義隆は、大友家へ使者を遣わし援軍を要請。

 その承諾の書状を携えてやって来た大友家使僧を、八月二十七日、接見の上、能舞台にてもてなしている。 

 しかし、大友勢が来るまでの間、直属の将兵や馳せ参じてくれる国衆達で何とか凌ぐと、義隆は青写真を描いていたが、結果として甘かった。陶勢の動きは速く、その日の深夜のうちに山口へと接近していたのだ。



 栄華を極めた本拠、山口はたちまち混乱に陥った。

 身分の上下を問わず人々は慌てふためき、脱出を図ろうとする。中でも特に動揺が激しかったのが、京都から下向し、山口に滞在していた公家達だった。


「事ここに至っては、隆房と和睦するしかない」


 義隆の元へやってきて口々にそう進言する。

 これを受け入れ義隆は方針を一転。平地で戦う危険を避け、近くの山にあった法泉寺へと向かう。館や在地の人々を一旦捨てる事にしたのだ。

 

 しかしその直後、彼は悟ることになる。捨てられたのは己の方だったと。


 避難した義隆がまず目を付けたのが、隆房に意見できる実力者であった長門守護代、内藤興盛である。

 自らの隠居と嫡子義尊の相続を条件に、和睦の斡旋と援軍を頼めないか。前関白二条尹房を介して申し入れたものの、呆気なく拒絶される。


 また豊前守護代である杉重矩も、義隆の援軍要請を拒絶。

 翌日夜には、三千余いた軍勢の大半が状況不利を悟って脱走してしまう。

 

 そして天運からも見放された。

 寺に留まれなくなった義隆は、僅かな将兵と共に北上して日本海へ。そこから海路にて九州へ脱出を試みようとしたが、一里ほど進んだところで強風に遭い押し戻されてしまう。万事窮すだった。



※ ※ ※ 



 止む無く義隆一行は、長門国大津郡にある大寧寺へと向かう。

 同寺は一時、西の高野と称されるほど隆盛を極めた、曹洞宗の名刹だった。


 一行は寺の参道を進んでゆく。

 するとその途中、義隆はふと足を止めた。悪路を急行してきたためだろう、己の髪が乱れているではないか。境内に入るまでに整えようとして、彼は参道脇にあった岩に兜を掛ける。

 

 そして傍の池に己の顔を写そうとした瞬間、言葉を失った。水面に己の姿が映っていなかったのだ。


(わしの命運もここまでか……)


 悟った義隆は、寺の僧達に案内を受け、行水し白装束へと着替える。そして終夜、住持と仏法の雑談を行ったという。 

 彼の胸中には、どの様な思いが巡っていたのだろう。

 隆房の叛意を信じようとせず、後手に回った対応の甘さか。

 受け継いだ領国を、混乱の坩堝へといざなってしまった事に対する、父祖への謝罪か。


 それとも援軍を送ると言っておきながら、結局動かなかった、大友への恨みだろうか。

 


 迎えた夜明け。

 大寧寺の広い境内にも光が差し込み、庭園の如き美しい景観が現れてゆく。

 ここは紅葉の名所である。だが惜しい事に時は旧暦の九月に入ったばかり。色づくのは、もう少し先だ。


 しかし、最期の朝を迎えた義隆にとっては、それは些事だった。

 当主のしがらみに縛られない、ただただ没入する事が出来た一時の憩いの時。境内の美しさを双眸に焼き付け、彼は朗らかに微笑む。


 そして午前十時頃、彼の耳に飛び込んできたのは、境内におよそ似つかわしくない、無粋な騒めきだった。

 軍馬のいななき、複数の甲冑の擦れる音、そして突入の喊声──

 やがて寺に四方から矢が射かけられてゆく。義隆側近達は懸命に防戦したものの、ついに事態を覆す事は叶わなかった。



 討つ人も討たるる人も諸ともに 如露如電応作如是観

(討つ人も討たれる人も共に、人生は露や稲妻の様にはかないものだ)



 九月一日、辞世の句を詠んだ大内義隆は切腹、家臣冷泉隆豊の介錯により果てた。享年四十五。

 多くの時間を戦場にて過ごし、最後まで領国の繁栄を模索し続けた大内家八代当主は、率兵上洛という大願を果たす事なく、ついに内乱の中で散った。

 

 その後、陶勢は寺の近くで、義尊や義隆に従っていた家臣公家達を死に追いやる。

 ついで筑前守護代、杉興連などの敵対勢力を、次々滅ぼして領国内を平定してゆく。

 そして密約のとおり、大友家から当主義鎮の弟晴英を当主に迎え、新たに領国運営に乗り出した。後に大寧寺の変と称される強行された代替わりは、こうして終焉を迎えたのだった。



※ ※ ※ 



 義隆横死。その一報は、すぐに隆信の元に届けられた。


 挙兵から僅か数日、あっという間の転覆劇だった。

 言うまでも無く、石見の益田氏や、安芸の毛利氏、吉川氏、天野氏などの国衆達と手を結び、大友家をも味方につけた、巧な事前調略。そして挙兵後も、迅速な行動に徹した隆房の戦略は褒められるべきだろう。


 しかし同じ当主として隆信は、深く問わずにいられなかった。

 あまりにも早すぎる瓦解。大内家中にとって当主の存在は、そんなに軽いものだったのかと。


 将軍をも上回る、従二位という高位にまで昇りつめた権威。

 そして死の直前、備後山名氏の本拠、神辺城を落として見せつけた武威。

 それらの威勢を兼ね備えたのが、栄光ある大内家の当主だったはずだ。


 だがその立場は、守護代や家臣達が不満を募らせ結束すると、簡単にその座から転落してしまうという、脆弱なものでしかなかった。

 父義興の頃には見られなかった事態。義隆は政事軍事問わず、精力的に励む当主だったが、己の立場の低下に、ついに有効な手を打てなかったのだ。


 一方、隆房側からしても心残りはあっただろう。

 彼らの目的はあくまで代替わりである。名目としては「義隆は軍事に対して弱腰で、当主としての資質を欠いている。なので当主の座から引きずり下ろす」というものだった。


 もし義隆が本当に当主の器でないのなら、守護代、家臣達合議の上での押し込めで充分である。しかし、彼らは交渉の段階を殆ど経ることなく、いきなりの武力転覆に打って出た。これは義隆の統治能力をただただ警戒していた証拠であり、皮肉と言わざるを得ないだろう。



 そこで隆信ははっとなって目を見開く。

 御家隆盛の中、その資質を疑われた当主。そして公然と敵対行動に走る者が現れ、分断された家中。大内だけの話ではない。それはこの佐嘉に置ける状況も瓜二つではないか。否、大内と言う後ろ盾が混乱している分、もっと状況は劣悪であろう。


 思わず背筋に悪寒が走る。だが悟った時にはすでに時遅しだった。

 十月、水ヶ江城からやって来た使者は急変を告げた。鑑兼が忽然と姿を消したのである。そしてあの悪夢が──



※ ※ ※ 



 十月二十五日、佐嘉の周辺を埋め尽くしていたのは、無数の連合軍だった。

 鑑兼を旗頭に、土橋栄益主導の下、隆信追放の好機とばかりに肥前各地から敵勢力が押し寄せて来たのである。  


 顔触れは、まず龍造寺と敵対していた東肥前各地の国衆達。そして龍造寺と血縁関係にありながらも敵対した国衆達。さらに西肥前から、多久、後藤、有馬らもこれに加わった。


 そして、龍造寺一族において敵に回った者もいた。特に与賀龍造寺家では、佐嘉の国衆である高木家に養子当主として送っていた鑑房(先代盛家の長男)が、包囲に加わっており、明白な敵意を露わにしていたのだ。



 軍勢はまず、家信(隆信弟、慶法師丸)がいた、水ヶ江城を包囲。続いて佐嘉城に押し寄せ、そこへ通じる道々を封鎖する。

 その後は冒頭で触れたとおりである。包囲された佐嘉城に、小田家家臣深町理忠まさただが無条件での開城を誘いにやって来る。その申し出を受け、隆信は城を明け渡すと、二百余りの一族家臣と共に佐嘉から落ち延びる事となったのだ。



 歴史は繰り返すもの。

 龍造寺の辿った過程は義隆と瓜二つであると、隆信は認識しながらも活かす事ができなかったのだ。

 ただ彼は生き永らえた。それは天が内省を促すために与えた一時。なぜこのような事態を招いたのか、彼は己の政治姿勢を振り返りながら、再起の道を模索する事になる。



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