第35話 約束

『ほーら、もう遅いから帰るよ!』


 日が暮れ出す頃、まだ幼い娘を迎えに来た母親が呼びかける。


『はーい!』


 川からあがって来たトリーシャは、駆け足で母親の前にやって来た。


『ちょっと、また水びたしじゃない』


 続いてやってきた少年も、前髪からポタポタと水を滴らせている。


『そりゃもう、一度水の掛け合いが始まったら止まらないからな』

『その通り!』

『まったく毎日よく飽きないねえ』

『えへへへへ』

『おーい、ルカ』

『あ、父さん! それじゃまたなトリーシャ!』


 自分を探しに来た父の姿を見つけて、ルカが走り出す。

 ルカの父は、トリーシャとその母に一度大きく手を振ってから帰途へ着く。


『ねえ、お父さんはいつ帰ってくるの?』


 屈託のない笑みで、たずねるトリーシャ。


『すぐに帰って来るよ』


 トリーシャの母は、そう言って笑った。

 そのことに気づいたのは、いつ頃だったか。

 ――――父はもう帰ってこない。

 研究者という仕事は、旅をすることが多い。

 そして常に、危険と隣り合わせだ。

 これまでは、長くても一年しないうちに必ず一度は帰って来た。

 それがもう二年、三年と帰らない時間が続いて、母は次々に仕事を増やした。

 トリーシャは『いつ帰って来るの?』と聞かなくなった。

 母はそれでも、毎日いつも通り父の部屋を掃除する。

 そしてトリーシャの前では、変わらず笑っていた。



『……大丈夫なの?』

『心配しなくても大丈夫だよ。こんなの全然大したことないからね』


 発覚した病。

 それは現在の医術では手が付けられないのだという。

 治すには、とある魔物から取れるアイテムが必要らしい。


『だからトリーシャは行ってきな。今日はいよいよ御業の授与でしょ』


 病になってからも、母は笑みを絶やさずにいた。

 だがトリーシャはもう、知っている。

 父の残していった物品を見て、母が悲しそうに目を伏せる時があるのを。

 だからそんな時は、いつもより元気にふるまってみせるのだ。


『トリーシャ! 早く早く!』


 やって来たのはルカ。


『見てろよ、世界を救う騎士の誕生を。そしてトリーシャの母さんも――――俺が助ける!』


 そう言って目を輝かせるルカの言葉に、救われた。

 そんな未来を、当然のことのように語るルカ。

 本当に、そうなってくれるのではないか。

 そんな風に思ってしまうほど、その言葉は純粋そのものだった。

 ……しかし。

 非情にもルカの得たスキルは戦闘に向くものではなく、病の母のもとを離れられないトリーシャにそれは与えられた。



 トリーシャが選んだのは、ギルドで働くことだった。

 ギルドなら世界中から人が集まって来るし、病気についても何か情報が得られるかもしれない。


『そっか。トリーシャには合ってるかもな。面倒見いいし、元気だし』


 そう言ってくれたルカも、同じくギルドで働くことになった。

 でも、それを『うれしい』とは言えなかった。

 望むスキルを得られなかったルカ。

 だからただ、『また一緒だね』と言ってほほ笑んだ。



『大丈夫。ちょっと調子が悪いってだけだから』


 母は病状が悪化した今も、そう言ってトリーシャにほほ笑みかける。ベッドの中から。

 今はもう分かる。

 それが、自分のためにそう振るまってくれているのだと。

 そんな母だからこそ、なんとしても助けたかった。

 たとえ、ギルド職員として反則を犯しても。



 ――――しかし。



 ヒュドラの口内に、紅蓮の炎が渦巻いていく。

 ギルドの誰もが認める三人の冒険者たちは倒れ伏したまま、動かない。

 蛇竜が放つ業火。

 全てを焼き尽くす灼熱の炎は、容赦なくトリーシャに迫る。

 おとずれる、終わりの瞬間。

 目を閉じる。

 一筋の涙と共に、トリーシャからこぼれ出た言葉は――。


「――――助けて、ルカ」


 そして。

 炎が斬り裂かれた。

 ひと振りの大剣によって巻き起こった疾風が、迫る炎を霧散させる。

 舞い散る火の粉の中。

 異変に気付いたトリーシャが、そっと目を開ける。

 そこには、彼女の助けを求める声に応えるかのように立っていた。

 白銀の全身鎧が。

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