第五話

 年は明け、春が来た。美代子さんは女学校を退学し、私は高等小学校二年生になった。

 進路希望調査には、町を出て就職したいと書いた。父は初め渋ったが、岡崎にいたくないと言うと、黙ったきり反対しなかった。亀井町の蕎麦屋の娘が但馬屋のお嬢さまと心中・・を図ったとは、皆が知っている噂だった。

 騒動の後、父母と兄に引き連れられて、但馬屋へと謝罪に行ったが、お母さんは、私と美代子さんとを今後一切会わせないと言って、父からの菓子折を突き返した。

 私は美代子さんからの手紙を待った。登下校は必ず但馬屋の裏手を通り、オルガンの音や美代子さんの歌う声が聞こえないかと耳を澄ませた。しかし、いずれも、遂に叶わず、姿を垣間見ることさえなかった。やがて、清次郎さんが松田家の養子となり、美代子さんとの祝言も内々に挙げられたと聞こえてきた。

 美代子さんは家を受け入れ、夢や私を諦めたのだ。美代子さんのことを思い出すときは、あれほど愛した歌声や笑顔ではなく、人垣に逆らわずに私から離れて行く黒い革靴が目に浮かぶようになっていた。


 学校を卒業して、私は豊橋で海運業を営む会社の経理部門に就いた。九時から五時まで算盤を弾く生活を四年ほどした後、人事部に移動となり、東海一帯の高等小学校や女学校へ出向いて、女子生徒の就職斡旋を行った。

 二十一歳になった夏。世は大戦景気に沸き、会社の採用活動も盛んになった。私は奥三河地区を廻った帰り、足助へと寄って石川くんの寺を訪ねた。前庭を掃き清める小坊主に尋ねると、石川くんは山での修行を終えて戻っているそうだったので、呼んでもらうことにした。庫院から出て来た石川くんは、八年振りに会った私の変貌に驚いていた。

 私は大きな襟の白ブラウスにオレンジ色のスカートを着て、革のトランクを提げていた。学校廻り用に社長から支給された衣装は、青葉と蝉時雨の禅寺には、あまりに浮いた格好だった。対する石川くんは、髪をきれいに剃り上げて、墨染の衣に輪袈裟を掛けた一人前たる僧侶の風格を見せていた。

 石川くんは私を庫院へと通し、自ら急須を傾けてお茶を汲んでくれた。囲炉裏を前に斜向かいに座りながら交わされる話題は、身の上話から思い出話を経て、あの日のことになった。彼は改まった顔付きで頭を下げた。

「あんときはごめん。ずっと謝りたかったけんど、謝れんで……」

「いいの、私が馬鹿だった。石川くんが止めてくれんかったら、どうなっとったか。ごめんの……ありがとう」

「足立さん……松田さんとは会っとる?」

「ううん、あれきり」

「ほうかぁ」

 石川くんが湯呑みに手を伸ばしたので、私もお茶を飲んだ。

 石川くんは何度か店を訪ねて来てくれた。そのたびに、私は二階へと逃げた。理不尽とはわかっていたが、石川くんを恨んでいた。彼と行き会わずに殿橋を渡り切れていたらと、何度も思い描いた。しかし、そんな夢想に続きは用意されていないのだ。

「美代子さん、冬に子ども生まれたげなて。まぁ二人目だてのぅ」

「聞いとるよ。但馬屋さん、うちにも行商来てくれとるで。繁盛しとるだてねぇ、電気看板も付いたて」

「……のぅ、石川くん。大店の若奥さんで、子どもも二人おって。美代子さんは、きっと幸せだろねぇ?」

「どうかのぅ。人の幸せなん、外から見てもわからん。環境的な充足と心理的な満足は、必ずしも一致せんでのぅ」

「何とか言わんかったっけ? 仏語で。望みが叶わん苦しみを」

求不得苦ぐふとっく。求めて得られん苦しみ、欲のなさせるものだのぅ。四苦八苦のうちで一番日常に感じる苦しみかもしれんわ」

 穏やかな顔で説法する彼が、ふと、旅先で偶然行き会っただけの若僧に思えた。この僧侶と、家など継ぎたいわけではないと言った記憶の中の少年とが重ならない。八年間の隔たりは、少年を青年へと成長させていた。

「私だけが成長しとらんのかもしれんのぅ」

「うん?」

「一生の友達だなん子供の約束、私だけが思い続けとるだよ。……美代子さんは、但馬屋の女将さんになってまって、私のことなん忘とるだろに」

 私は湯呑みに残ったお茶を飲み干した。うつむいて黙る私の手から、石川くんが湯呑みを取ってお茶を注いだ。

「のぅ……足立さんは、松田さんのこと恨んどるだかん?」

「恨む……わけ」

 石川くんと目が合って、私は否定の言葉を取り繕うことができなかった。私が美代子さんの革靴を思い出すのは、やはり、あの足が私から去って行ったわだかまりに基づくのだ。鼓動が速まって、彼から目を背けた。石川くんは、それ以上の追求をせずに、私の膝前へと湯呑みを置いた。

「別に恨むこと自体は悪くない。ほだけんど、妬んだり、恨んだり、ほんな感情は心を疲れさせるでのぅ」

「……私は嫌な奴だ、変わらんわ」

「ほうだかのぅ?」

「ほうよ、幸せな美代子さんには、会いに行けんと思うだもん。幸せじゃないって聞かなきゃ、会いに行けん気がする」

「わからんでもないわ、幸せってことは満たされとるわけだで。好きな人が、自分のおらなんでも幸せそにしとったらのぅ」

「嫌な奴だ。自分を必要としてほしいで、相手の不幸を願うだなん」

「男前で良えがね、自分が幸せにしてやるて思っとるわけだらぁ? 見上げるほどの男っぷりだ」

 石川くんがしみじみと頷いてお茶をすするので、私は少し心が軽くなった。

「石川くんはすっかりオッさまになった」

「まあのぅ。足立さんもすっかり職業婦人だ」

「何でかやぁ、早よぅお嫁さんになりたいって言っとったはずが」

「まだ裁縫は上達せんだかん?」

「あぁ、嫌な人だ。ほんなこと覚えとって」

 私たちは顔を見合わせて笑った。

 私が宿を取っていないと聞くと、石川くんは宿坊に泊まれるように、父である和尚さまへと頼んでくれた。夕食と朝食をいただいて、私は豊橋へと帰った。別れ際、手紙を書くからと尋ねられ、寮の住所を教えた。しばらく待ったが、手紙は来なかった。


 彼岸のころ。仕事を終えて寮へと帰ると、下駄箱まで寮母さんが出て来て、夕方集配分の手紙だと言って、分厚い封筒を渡してくれた。美代子さんからだった。鞄を捨てるように床に置いて、その場で開いた。薄紫色に青い葡萄が描かれた便箋には、息も継げないほどの細かい字が綴られていた。


『親愛なるシゲ子さんへ

 長のご無沙汰お詫び申し上げます。お元気にしておいでますでしょうか。貴女には本当にご迷惑をお掛けしたというのに、会いに行くこともできなくて御免下さい』


 そんな書き出しから始まった長い手紙は、所々涙が落ちて墨が滲んでいた。石川くんから手紙が届き、私の住所を知らされたので、すぐに筆を取ったという。

 美代子さんは清次郎さんとの祝言を済ませた後、松阪の祖母宅へ移され、女学校を卒業するまで帰省することもなかった。十七歳の春に岡崎へと戻って、養兄となっていた清次郎さんと正式に入籍した。


ぐに貴女へと謝りに行こうと思いました。けれども、貴女は既に家を出ていらっしゃること、れは私の所為せいで町に居辛くなった為と夫より聞かされ、今更訪ねるなと言われ、行かれませんでした。……いいえ、いいえ! 私が意気地無いばかりです! 私が意気地無いばかりに、貴女に迷惑を掛けて謝りもしなかった』


 やがて身籠り、子育てと女将としての仕事に追われ、私とのことは考えないようにしていた。それが、先日。石川くんから届いた手紙により、私が足助を訪ねたこと、豊橋で働いていること、元気そうであることと共に、私が今でも美代子さんに会いたがっていることを知った。


『虫の良い事を言うと思われるかもしれないですけれども、貴女は私の一番の親友です。どうか、一度貴女にお会いして謝りたいのです。今直ぐには難しいかもしれません。いつか、私ともう一度お会いしてれませんでしょうか?』


 私は立ちどころに会社へ駆け戻ると、自動車に乗り込む途中にあった社長へと三日間の休暇を申請した。実家へ帰りたいと述べる私の様子がよほど逼迫していたためか、社長は理由も聞かずに車を空けて、駅まで向かわせてくれた。

 八時過ぎ、汽車は岡崎に着いた。馬車鉄から電気化された路面電車に乗り換え、一里の夜道を抜けて岡崎の町へと至った。私は実に八年振りに連尺通へと踏み入れた。飲食店で賑わう通りを、酔客がのんびりと歩く。彼らを追い越し、電飾に縁取られた但馬屋の看板の前に立った。既に店仕舞いがなされていたが、かまわずに戸を叩いた。初老の下男が潜り戸を開けた。

「お客さん、ごめんください。明日は九時からやっとりますで」

「若奥さまにご用がある。亀井の足立シゲが来たと伝えとくれ」

「……あ、れ、シゲさん!」

 目を丸くした下男が私の顔を指し、急いで中へと入っていった。私は気も早く流れ出した涙を拭って、美代子さんを待った。すぐに忙しない足音が聞こえて、美代子さんの高い声が私の名前を呼んだ。私も堪らずに、潜り戸から但馬屋の土間へと入った。

「シゲさん! シゲさん──!」

「美代子さん!」

 見世の間から裸足で駆け下りて来た美代子さんを、私は両腕の中に迎えた。

「ごめんのぅ、シゲさん……! ごめんのぅ、本当に……!」

 美代子さんはやはり嫌々をして泣いた。束髪崩しだった髪は日本髪に結い上げられ、痩せていた身体にも豊かさが戻っていた。

「謝らんでよ、美代子さん」

「ほなけんど、私のせいでシゲさん……」

「いいの」

 私が強く抱き締めると、美代子さんも抱き締め返した。私はそれだけで全てを許してしまうのだった。

「──美代子」

 低い男性の声に振り向くと、清次郎さんだった。座敷から困惑した目で見下ろす清次郎さんは、生え際にいくらか白髪が目立った。私は美代子さんから離れて、頭を下げた。

「やっとかめぇにございます。夜分遅くに突然お訪ね申しまして──」

「シゲさん……」

 緊張を抑えて、やおらに顔を上げると、清次郎さんは見世座敷に手を着いて、奥に上がるように出迎えていた。追い返されるかと思っていたので、拍子抜けした。

「美代子から聞かせてもらっとります。シゲさんにはご迷惑かけて、申し訳なかった」

「シゲさん、上がって、なぁ?」

 美代子さんは、石川くんからの手紙を受け取った後、改めて当時の話を清次郎さんとお母さんにしたと教えてくれた。

 あのときは、急に担うことになった店の大きさに、皆が圧されていた。何よりも、自分自身が幼くて、私を巻き込んだことを申し訳なく思う。そう謝った美代子さんの顔付きは、但馬屋を担う一人前の女将のものだった。

 奥座敷に通されると、美代子さんのお母さんからも詫びを述べられた。

「シゲさんはほんまに、美代子に良うしておくれたのに……!」

 しかし、私も無計画に二人で逃げ出そうとしたことは事実なのだ。深く礼を返した。

 清次郎さんは、私たちを離れの茶室に通して、美代子さんと二人で話せるようにしてくれた。薄暗い電灯の下で、私たちは泣きながら、八年間にあったことを報告し合い、詫びて、また感謝した。

 一瞬に時は過ぎた。夜泣きの声に美代子さんが顔を上げたとき、柱時計の針は既に十二時を過ぎていた。美代子さんがお乳かもしれないと立ち上がり、赤ちゃんを連れて来ても良いかと尋ねた。私はもちろん歓迎した。

 もうすぐ一歳になる麻理子まりこちゃんは、赤い肌着から伸びる手足が福々しい。美代子さんは身体を揺らしながら、お乳を飲み終えて眠る麻理子ちゃんの背を叩いていた。

「よう飲む子でのぅ。お兄ちゃんの方は食が細いで心配したけんどのぅ、こん子はぷくぷくしとる──かわええ子やのぅ」

 四年間を松阪で過ごした美代子さんの言葉には、西寄りの色が覗いていた。

「美代子さん……幸せそうで安心したわ」

 やにわに美代子さんは顔を曇らせて俯いた。

「ごめんな、シゲさん」

「え、何で? 良いことだがね。美代子さん、幸せなんらぁ?」

「ほなけんど、私が散々我儘言って、シゲさん付き合わせて、町にも居づらいよにさせて……なのに、私、今が幸せなんて……」

「美代子さんの馬鹿」

 美代子さんが顔を上げた。私は麻理子ちゃんを抱く美代子さんの手に手を重ねた。

「美代子さんが幸せじゃないって言ったら、本当に今度こそ家出しよまいて言いに来たんだに、私。だけんど、のぅ。──こんなかわいい子がおって」

 美代子さんの目が潤んで、息が詰まった。

「……シゲさん、ありがとう」

「泣かんでよ、のぅ? あれあれ……」

 美代子さんが震えるので、麻理子ちゃんが目覚めて泣き出した。美代子さんは鼻をすすりながら、小さな声で子守唄を歌った。『Santa Lucia』だった。歌声は、子どものころの華やかな高さがなくなった代わりに、落ち着きを得た丸い柔らかなものになっていた。

 慈しみの横顔を、私は見ていた。

 何の悩みもないような鈴の音の声で歌っていた美代子さんは、穏やかな母の声を持つようになった。十五歳の美代子さんも、松阪の城跡で歌っていたのだろうか。十八歳の美代子さんは、どんな歌をどんな声で歌ったのだろうか。私は知らない。ここに至るまでの八年間、その変遷を側で辿れなかったことが、大層悔やまれた。

 柱時計が時を刻む音と、美代子さんの優しい歌声との中で、私は美代子さんとの八年分の空白が埋まっていくような気がした。


 二十三歳になって、私は結婚を期に岡崎へ戻って来た。但馬屋の世話で、今は市内となった広幡町の畳屋の跡取り息子へと嫁ぐことになったのだ。静さんという、五つ年上の優しい人だ。少し私の父に似た気難しさを持つ職人だが、おしゃべりな私の話をにこやかに聞いてくれる。この人とは、二男二女の子宝に恵まれた。

 石川くんとも文通は続き、三十歳を目前にしたころ、結婚したとの報告を受けた。紅葉の季節、私は家族で足助へ訪れ、寺へも立ち寄った。三、四度ほど、訪れたかと思う。いずれも、石川くんは私たち一家を出迎えて、お茶を出してくれた。


 昭和に入ったある春の夕暮れ。私は広幡の婚家から亀井の実家へと諸用があり、但馬屋の裏手の道を歩いていた。懐かしい通学路だと思っていると、但馬屋の庭からオルガンの音と共に、鈴を転がしたような高く澄んだソプラノの歌声が聞こえた。立ち止まり、聞き入った。


「来よや友よ 舟は待てり

 サンタルチア サンタルチア!」


 懐かしい歌だった。曲の途中で、オルガンが止まった。

「麻理ちゃんー、お夕食ー!」

「はーい」

 見世の方から聞こえたのは、美代子さんの声だった。オルガンの前にいた少女は麻理子ちゃんだったと気付いた。

 私はしばらく、但馬屋の裏手に立ったまま、捉えられない言葉の断片を塀の向こうから拾い聞いていた。

 五時の鐘が鳴って、再び歩き出した。家へと続く坂道を登る。口からは自然と『Santa Lucia』のイタリア語が出てきた。あの春、菜の花畑を金色の海と見立て、白い日傘を櫂として、舟唄を歌った美代子さんの姿。愛した歌声は、今でも鮮明に思い出せた。私は、ナポリの海を歌った少女が、この先も私の心に住まうだろうと、予感していた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

菜の花畑に舟は待てり 小鹿 @kojika_charme

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ