三.

 久しぶりに間近で見る蒼翅君は、少しやつれているように見えました。もとから気怠げな目元も、今は本当に疲れているかのように生気がありません。目の下には濃いくままでできていて、肌からはすっかり血の気が失せています。北村君の言ったとおり、蒼翅君は相当難儀しているようでした。

 蒼翅あおばね君は湯のみを少しばかり見つめると、酒でも飲むかのように一気に茶を飲み干しました。

「随分と疲れているようじゃないか」

 私は言いました。蒼翅君は前髪をかき上げると、ため息交じりにそうかなと呟きます。私が目の下のくまや頬のやを指摘すると、蒼翅君はそれはまいったなと答えました。

「いや、本当に、今回は大変だよ。ここ三か月ほどずっと机に向かっているんだが、本当に何一つ書けないんだ。ではすでに出来上がっているのに、いざ紙にそれを写すとなると途端に何もできなくなる」

 蒼翅君は、ここ、と自分のこめかみを軽く叩いて言いました。

「何故だか分からないよ。頭の中ではこれまでにないほど完璧なものが出来ているのに、いざ紙に書こうとすると出てくるのは下劣な模造品ばかりだ。おまけに書けば書くほどひどくなると来ている。あの紙切れを作品として出すくらいなら、そこらの凡才に書かせた方がよっぽどましだ」

「そこまで困っているのなら、少し気晴らしでもしたらどうかね?たとえば、外を散歩するとか。ルミヱールとか、他のカフェーに行ってもいい。思い切って旅に出るというのも良いんじゃないか?」

 私が提案すると、蒼翅君はゆっくりと首を横に振りました。

「僕もそうしたいんだがね、瑤が行きたがらないんだよ。遊びや旅行なんかができるような状態じゃないと言い張ってね。それに、金がないという話なら僕だってよく分かっている。だからこそ一刻も早く、この膠着から抜け出したいんだ」


 これまでの余裕っぷりはどこへやら、この時の蒼翅君はかなり追い詰められているようでした。飛び回ろうにも翅をむしられ、地面をのたうち回るしかない蝶のような哀れさが全身からかもし出されています。

「……瑤のやつも、毎晩あすこで稼いでいるくせに、僕らの暮らしは日に日に厳しくなる一方だ。本当は僕に黙って遊んでいるんじゃないかと勘繰ってしまうね」

「だが、君は彼の稼ぎで酒を買うじゃないか」

 私が指摘すると、蒼翅君はハハハと乾いた笑い声を上げました。

「それはそうだ、すっかり忘れていたよ。だが、最近は一滴たりとも飲んでいないぞ。その金すら尽きたと瑤が言ってね」

「飲んだところで書けるようにならないのが分かっているから、わざとそう言っているんじゃないか? 私も、君に必要なのは酒ではないと思うよ」

「なら何だい? 他の相手で気分を変えるとか?」

 蒼翅君はふいに、物憂げで静かな顔からは想像もできない、毒々しい声で言いました。

「それはいかにも君らしい。北村君とは長く続きすぎたと思うのかい?」

 私はむっとして嫌味を返しました。

 すると突然、蒼翅君がダンとちゃぶ台を叩いて怒りを露わにしたのです。

「そんなことはない! 瑤は今までに知り合った誰よりも、あらゆる点において優れている! 彼にせがまれれば僕は他の誰とも付き合わないと誓ってもいい!」

 私は即座に謝りました。蒼翅君は獣のように荒々しく息を吐くと、またもとの物憂げな表情に戻りました。

「本当なんだ。瑤は他の誰とも違って、僕に高価なものをねだったり、猫なで声でお世辞を言ったりしない。床の中でもわざとらしく鳴いたりしない。そういう奴らと僕の付き合いじゃ、中心にいるのはいつだって向こう側だ。連中はあの蒼翅碧花と浮名を流している自分に酔い痴れて、僕の金で贅沢をさせてもらったとか、僕の体を知っているとか、そういうくだらない思い出——というか、どうでもいい事実を捻出しようと躍起になっているのさ。それで自分も文学界に名を残したと勝手に喜んでいるんだ。そんな下世話な努力を繰り返しては少しでも有名になろうとあえいでいる。まったくの下衆だよ。

 ところがその点、瑤はいつも誠実だ。とても献身的だ。あの子はいつでも僕のことを一番に思ってくれる。それで僕がどれだけ救われたことか、君に想像がつくか分からないけれど……そうだな、たとえば君の細君は、君をいつもいたわってくれるだろう。瑤もそうだ。彼は僕の、ものを書くという孤独な勤めをいつも支えてくれる。そればかりか、ものを書くしか才のない僕に代わって、僕のできないことを全てしてくれるんだ。おかげで僕は書き損じの原稿を屑籠からあふれさせないよう気を付けるだけでいい。他の誰も、瑤ほどの根気と思いやりを持って僕と付き合えた奴はいないんだ。もちろん、君は別だがね。そこは勘違いしないでくれたまえ。君には、僕という人間を衆人の底知れぬ欲求の渦から守るという崇高な役割がある。僕の友人という肩書が、僕が決して床に招かない相手であることがどれだけ素晴らしく名誉なことか、君には分かっているだろう?」


 ここまでを一息にまくしたてると、蒼翅君の顔には疲労の色が戻ってきました。私は、彼に茶を注いでやりました。蒼翅君は一言礼を言うと、また酒をあおるように茶を飲みました。

「しかし、蒼翅君。君が北村君と付き合い始めたのは、彼を娶るためではなかっただろう?」

 私は、ふと頭にひっかかったことをそのまま口にしました。蒼翅君はそれはまあ、とばつが悪そうに頭をかいて、

「もちろん、はじめは新しい相手が欲しかったからだよ。だけどそんな思いは次第に消えて、純粋に彼と共にいたいと思うようになった。瑤が同じ思いでいてくれてよかったよ、でないと僕は今頃、天上の彫像物に惚れた哀れな亡霊になっていただろう」

 と答えました。

「何だい、まさか彼が下宿を引き払う気になっていなかったら彼を祟るつもりだったとでも言うのかい?」

 私はからかうように尋ねました。蒼翅君は気怠そうに笑って答えました。

「いいや。たとえ瑤に振られても、僕は瑤を恨みはしないよ。だが、強烈な憎悪が亡霊を生むのなら、同じくらい熱烈な愛もまた亡霊のもとになるだろうということさ。女の幽霊には自分の子どもを育てるやつがいるが、恨みではなく愛情が彼女にそうさせているのは誰の目にも明らかじゃないか」

 すると天井から、ぱたぱたと小走りに移動する音が聞こえてきました。ほどなくして現れた北村君は、ルミヱールの制服に身を包み、継ぎはぎの目立つ古いコートと肩掛け鞄を持っていました。

「小暮さん、今日は来てくださってありがとうございます。僕は仕事があるので、そろそろ行きますね」

 北村君はそう言うと、コートを羽織って鞄を下げました。彼はそれから蒼翅君の方を見て、

「お昼の雑炊が残っているので、今夜は絶対に食べてくださいね。でないと本当に、体を悪くしてしまいますよ」

 と言いました。その口調は本当に夫の不摂生にへきえきしている若妻のようで、私は思わず吹き出しそうになりました。

「なあ、瑤、ここ最近はずっと雑炊じゃないか。他のものはないのかい?」

 不平を言う蒼翅君もまた、妻に文句を言う夫にそっくりです。北村君が腹立たしげなため息をつくと、蒼翅君はちゃぶ台に手をついてゆらりと立ち上がり、彼の正面に立ちました。


 ひょろりと長身の蒼翅君と並ぶと、北村君は本当に小さく見えます。蒼翅君は北村君の頬に手を添えて、透き通った肌をくるりと撫でました。そうして繊細なあごを手で支えると、その唇にそっと自分の唇を重ね合わせました。

 二人はしばらくのあいだ、別れを惜しむように互いの唇をはみ、口づけを交わしていました。やがてどちらともなく顔を離すと、北村君は整った顔に儚げな微笑みをたたえて「行ってまいります」と告げ、夕方の街へと出ていきました。


 私は、思いのほか時間が経っていたことに驚きました。喫茶ルミヱールで夜の給仕にあたっている北村君は、いつも決まって五時に家を出ます。私がルミヱールを出たときは三時を少し回った頃でしたから、二時間弱も蒼翅君の家に邪魔していたことになります。私は、家の薄暗さでそんなに時間が経っていることにまったく気が付かないでいたのです。

 私は蒼翅君にいとまを告げ、明日また来ていいか尋ねました。

「是非来てくれたまえ」

 蒼翅君は快く答えました。

「本当は、ここで飯まで食っていってもらいたいところなんだがね。どうだい? ただの雑炊でも、瑤が作ったのは格段に旨いぞ」

「いや、遠慮しておくよ。今日は家で食べると妻に言ってあるからね」

 私はそう言うと、部屋の隅に置いていたコートと帽子を取りました。

「……そういえば、ここに警察が来たことはあるかい?」

 私は、支配人から聞いた話をふと思い出しました。蒼翅君はいいやと首を横に振り、

「何だってまた、そんなことを聞くんだい」

 と訝しげに訊き返します。私は何でもないと首を振ると、

「実はここに来る前にお巡りさんを見かけてね」

 と適当にごまかしました。

 蒼翅君は「へえ、そうかい」とさして関心もなさそうに答えました。私は暇を告げて、磨硝子すりがらすの引き戸を開けて外に出ました。日が暮れかけた中では通りはすっかり暗くなり、濃紺の空から舞い落ちる雪が電灯に照らされてキラキラ光っておりました。


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