二.

 私は店を出ると、すぐさま蒼翅君たちの住む家に向かいました。喫茶から歩いて十五分ほど、古い民家が並ぶ住宅街の、殊更に古くて小さい二階建ての家が蒼翅碧花の住まいであり、彼の創作の全てが生み出されている聖域でした。昼間というには遅い時間でしたので、私は後日会う約束だけしようと決め、玄関の磨硝子すりがらすの引き戸を軽く叩きました。太陽がやや西に寄っているせいで通りは大部分が影に覆われ、家々の屋根のてっぺんにだけ光が当たっています。通りを行きかう子どもや学生、買い物帰りの婦人をぼんやり眺めていると、ふいに扉がガタガタ音を立てて開きました。

「ああ、小暮さん」

 薄暗がりの玄関に立っていたのは、他ならぬ北村瑤青年でした。私は帽子を軽く上げて会釈すると、

「突然すまないね。蒼翅君はいるかい?」

 と言いました。

「碧花先生なら、二階においでですよ。新作がだいぶ煮詰まっているらしくて、ここ何か月かはずっとこもりきりなんです」

 北村君はふわりと笑みを浮かべながらそう言いました。硝子細工の人形が笑っているような、上品ながらも下手に触れば壊れてしまいそうな笑顔でした。あまり上背がなく、全体に線も細い北村君は、一見すると背の高い女子のような印象を与えます。彼は着替えの最中だったらしく、肌着の上から羽織ったぶかぶかの袢纏の前を片手でしっかり押さえていました。細い鎖骨が見え隠れし、言葉を発するのに合わせて白く華奢な首を喉仏が転がります。私は思わずそのさまに見入ってしまいました——上がっていかれますか、と尋ねる北村君の声に我に返った私は、惚けていたのを誤魔化すようにそうするよと答えました。


 北村君について入った家は、私が最後に訪れたときとそれほど変わっていないように見えました。ただ、なぜか明かりという明かりが薄暗く、私は茶の間に入るときに敷居に足をひっかけてしまいました。

「すみません、でも碧花先生がこの方がいいとおっしゃって」

 土間で茶の準備をしながら、北村君が言いました。

「あまり明るいと集中できないそうなんです」

「そんなに大変なのかね?」

 私が尋ねると、北村君はそれはとてもと答えました。創造力に長けた蒼翅君にしては珍しい、私はそう思いましたが、零から百を作り出すことを生業とする以上、上手くいかないときもあるはずだと思い直してそれ以上の追究はしませんでした。


 北村君はやかんを火にかけると、「碧花先生をお呼びしますね」と言って寝室のある二階へと姿を消しました。階段をのぼり、廊下を歩く柔らかい足音に続いて低い話し声がするのを何となしに聞きながら、私は狭い茶の間を見回しました。ちゃぶ台でほとんどの空間が埋められた手狭な茶の間は、すり切れた畳も継ぎはぎだらけの障子も、部屋の隅に押し込まれた引き出しとその上に乗る小さなラヂオも、特に何の変化もないように見受けられます。やがて廊下を引き返す足音がして、北村君が一階に戻ってきました。

「もうすぐ降りてこられます。お茶でも飲んで、待っていてください」

 北村君はまた人形のように笑うと、急須と湯のみを盆に乗せて茶の間に戻ってきました。飲み口の少し欠けた湯のみもいつも通りです。北村君がお茶を淹れていると、天井から再び足音が聞こえてきました。階段をきしらせながらゆっくりと降りてくる足音に、私は急に心が浮足立つのを感じました。雲隠れしてからはもちろん、そのしばらく前から私は蒼翅君と会っていませんでしたから、知らず知らずのうちに緊張してしまったのでしょう。果たして茶の間に現れた蒼翅碧花君は、癖のある前髪をかき上げると、お馴染みの気怠そうな笑顔を見せました。

「これはこれは、本当に我が友小暮こぐれ君ではないか! 僕はまた、瑤が気晴らしの冗談でも言っているのかと思ったよ」

「ね、先生、冗談じゃないって言ったじゃありませんか。ここ何か月か、先生があまりに人前に出てこられないから、心配して来てくださったんですよ」

 北村君はそう言うと、もう一つの湯のみにも茶を注ぎました。

「僕は二階を片付けてきますから、どうぞゆっくりしていってください。お茶くらいしかお出しできませんが……」

「そんな、お茶だけで十分だよ。私だって急に押し掛けたのだし、文句は言うまい」

 申し訳なさそうに眉根を下げた北村君を、私は慌ててなだめました。蒼翅君は私の正面にどっかとあぐらをかくと、

「まったくだ。これで君が出版社の連中だったら、僕はここの湯のみを二つとも投げつけているね」

 とおどけて言って、くつくつと肩を震わせて笑いました。北村君は盆を持って下がると、トトトと軽い足取りで二階に消えていきました。


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