【短編】食べる手が止まらないんだ

夜葉@佳作受賞

食べる手が止まらないんだ

「ハッシュドポテトにフライドチキン。そして冬はやっぱり肉まんで決まり! これこれ。やっぱバイト前はこれに限るわ~。腹が減っては戦は出来ぬってやつなのよ」


 とある冬の日の放課後。ブレザーの上から厚手のコートとマフラーに身を包んだ少女は、通学路にあるコンビニの中でそっと呟いた。


 るんるんとした気持ちでお腹を空かせ、思わずレジ袋を覗き買った商品を眺める少女が一人。


 空腹で周りが見えなくなっていた少女は、うっかり入店して来た客とぶつかりそうになる。


「わっ!?」


 少女は咄嗟に謝罪を入れたが、相手はまるで気にしていない様子。


「ご、ごめんなさい! よそ見しててつい……」


「……ふふっ」


「…………え?」


 同じ学校の制服を着た男子とすれ違う。

 目を細め、口角は力強く上げ、しかし抑えるように笑みを零す男子。


 彼は少女の事など気にも留めず、力強い足取りでコンビニへ入店して行った。


「何、今の……。ていうか彼、誰だっけ。何か見覚えがあるような、無いような……」


 記憶の片隅に浮かぶ顔と、先ほどの彼が重なろうとしていた。

 だがどうしても思い出せない。あの独特な笑顔には、覚えがなかった。


 今のは誰だったのだろう。ボーっと突っ立って考え事をしていると、ふとコンビニの横から少女を呼ぶ声が響く。


「千尋ー! 何やってんのー!」


 駐輪場の近くから、友人が少女の事を呼んでいた。


「ごめん三香、ちょっと考え事してた」


「入口で考え事するなー? どうせ何から食べるか悩んでたんでしょ。それで、今日は何買ったの?」


 暗い冬空の中。コンビニから漏れる光を浴びながら、駐輪場の側でお喋りをする二人。お決まりと言った様子で、千尋と三香はアルバイト前のひと時を楽しんでいた。


「ポテトにチキンに肉まん! バイト前だしこれぐらい食べないとね」


「そんな事言って、千尋は休みの日でも買い食いしてるじゃない。あんたに合わせていたら、せっかくシフト増やしてもすぐ金欠になりそう」


「休みの日は今日も学校お疲れ様のご馳走よ。ってか何。三香シフト増やしたの? なんで?」


「稼ぎたい半分頼まれた半分かな。ほら、あたしってば雑貨屋でバイトしてるじゃん? 最近ごたついてるみたいで、シフトの人数増やしてるんだってさ。やる内容は変わらないって言うし、それならまぁ良いかなって」


「今の話に雑貨屋関係あった……? でもまぁ新しい事増えないまま給料アップはいいなぁ。それに比べてうちなんか……」


 口の端に付けたチキンの衣にすら気づかず、会話に食事に盛り上がっていた千尋の動きが止まる。しゅんと元気を失った彼女を見て、三香はすかさず悩みの種を言い当てるのであった。


「やる事がまた増えた。でしょ?」


「そーーーーーなの!! 聞いてよ三香! うちってば本屋のはずなのにさ、これからは文具にも力を入れようってまた扱う商品が増えたの! 本だけならって始めたのにさ、文具なんて小さいクセに種類は死ぬほどあってもう訳分かんないんだから!」


「いやいやあたし雑貨屋だから。千尋の思う何倍も色々扱ってて大変なんだからね?」


「なっ、くぅ~……返す言葉が見つからない……」


「分かったら人に当たらず頑張りんさい。ほら、そんな事言ってたらもう時間だよ」


 未だにポテトを頬張る千尋へ、スマホを触っていた三香がその画面を見せる。画面の時計に目をやるや否や、タイムリミットは刻一刻と迫っている事に気づく。


「三香、バイトって事は今日電車なんでしょ? ゴミ捨てとくから先に行きな。それじゃまた明日ね!」


「ん、ありがと。千尋も文具覚えなー? じゃまた明日!」


 手を振りながら、三香の姿が小さくなっていく。そんな彼女へ千尋も手を振り返しながら、二人分のゴミを店内のゴミ箱へと捨てに行こうとした。その時だった。


「わわっ!?」


 よそ見をしながら歩いていた千尋は、振り返った瞬間に店内から出て来る客と衝突してしまう。今日は気が抜けていると自負した千尋は、ぶつかった相手に謝罪を入れる。すると……。


「あれ、君は……」


「ぇ、なっ……!?」


 予想だにしていなかったように、取り乱す男子が一人。

 なんと、先ほど衝突しそうになった彼であった。


 だが千尋が驚いたのはそれだけではない。取り乱し表情を歪める彼を見て、千尋はぼんやりと浮かんでいた彼の正体が今はっきりと分かった。


「君、吉田くん……だよね?」


「えっ、いや……」


 もじもじとはっきりと返答をしないが、彼は間違いなくクラスメイトの吉田だ。不安を抱えたようにオドオドするその姿には見覚えがあった。だからこそ、あんなに笑顔な彼の表情に見覚えが無かったのだ。


「ごめんぶつかって、よそ見してて……」


「じゃ、それじゃ……!!」


「あっ、待ってよ!」


 まともに会話もせず、吉田は逃げるように千尋の前から立ち去る。


「なんなの……」


 嵐のように去って行った彼を見て、千尋はぼそりと愚痴を零す。

 冬の冷気を帯びた地面からお尻を離し、軽くはたきながら立ち上がる。


 落ちたゴミを拾おうとした。だが、その拍子に何かが落ちているのを見つけた。


「新品の……消しゴム……?」


 恐らくぶつかった拍子に彼が落としたものだろう。だが何故このような状態の物がここに。


 ただの持ち物なら、落ちないよう筆箱や鞄の中などに入れてあるはず。今買った物ならレジ袋に入れるか、テープぐらいは張ってあるのではないか。


 嫌な予感に襲われ、千尋は必死に否定する。


「別に。ただ持っていただけよきっと。そもそもこれが彼の物かなんて、そんなの……」


 何を疑っているんだ、私は。

 深く考える事を止め、千尋はそっと封がされたままの消しゴムを拾い上げる。


 地面に触れた指先が、異様に冷たくて痛く感じた。




 ――――――――――




「『相原千尋 17時12分』っと……」


 コンビニを去ってから数十分後。バイト先の書店に着いた千尋は早速着替えと打刻を済ませ、同僚達へ謝罪を入れる。


「相原さんが遅刻だなんて珍しいねぇ。学業が忙しいとかなら、シフト調整しようか?」


 シワを重ねた温和そうな男性が、指定のエプロンへ身を包み心配そうな表情を浮かべていた。


「い、いえ大丈夫です店長! ちょっと考え事してただけなので……では、レジ向かいますね」


「そうかい? ならいいんだ。あ、レジは別の人に頼んだから、今日はフロアへ行ってくれるかい?」


「え。あ、はい、分かりました!」


 フロア。という言葉と共に、最近増設された文具コーナーが千尋の頭を過った。


 正直慣れているレジの方が良いと思ったが、千尋は遅刻して迷惑をかけた立場である。苦手意識をグッとこらえ、千尋はフロアの業務へと移ろうとした。


「あ、そうだ。相原さん」


「はい?」


「昨日の売り上げがね、少し合わないんだよ。何か知らないかい?」


「いえ……昨日は休みだったので。いくら合わないんです?」


「300円。まぁ大方、誰か会計ミスでもしたんだろう。引き留めて悪かったね。それじゃ今日も一日よろしくね」


「は、はい。それでは!」


 店長の柔らかい笑顔に見送られ、千尋はフロア業務へと移る。


 早速待ち受けていたのは、陳列を待つ文具の山。

 いったい何からやったものかと考えながらも商品を手に取り、一つ一つ確認する。


「えーっと、ノートに封筒に原稿用紙。こっちは墨汁にインクに……げ、絵の具まで仕入れたんだ。種類は十に二十に……うん、これは後にしよう。それからそれから……」


 普段使う文具から一生縁が無さそうな画材まで、コーナー拡充のためやって来た商品達とにらめっこをする。


「鉛筆に消しゴムにシャーペン。こっちは馴染みがあるから分かりやすいね。お、これは元々あった物の新色だ。へぇ~こんなに色あったんだ。後で自分用に一本買っちゃおうかな。えっと値段は……」


 新しく増えた商品に疲弊しつつも、まだ見ぬ出会いに喜ぶ千尋。早速懐事情を考えながら値段をチェックする。すると。


『300円』


 これなら買っても大丈夫。なんて事を思ったその時、ふとその値段が気になった。


「確か店長が言ってたのもそれぐらいだったはず。でも、書籍なら500円はするし……。いやいや、お釣りの間違いだってあるじゃない。偶然よ、偶然……」


 偶然。ふと、バイト前に拾った消しゴムが頭をよぎった。

 何故か笑っていた彼と、その後異様に怯えていた彼。


 なんでそんな場所に未開封の消しゴムが落ちていたのだろう。


「偶然よ。あれも偶然、これも偶然。全部偶然なだけ。それだけのはず……」


 そして消えた300円と、たまたま目に入った300円の商品。

 何かが結び付きそうな邪推を無理くり抑え、千尋は今ある業務に専念するのであった。




 ――――――――――




「千尋、それ食べないの? 冷めるよ?」


「えっ。食べるよ、食べる。食べるに決まってるじゃない」


 いつものコンビニの前。千尋は三香に指摘され、持っていた肉まんを無理やり頬張った。


 翌日。未開封の消しゴムを吉田へと返そうとしたが、彼は休みであった。結局もやもやとした感情を一日中引きずった千尋は、日課の買い食いすら止まってしまうほど気持ちの整理が出来ていなかった。


 あれほど食には執着していたはずの千尋の様子を見て、流石の三香も違和感に気づく。


「なんかあった? バイト先で怒られたとか」


「別に……。ちょっと考え事していただけ」


 考え事をしていた。それだけの事であれば、千尋の顔色がここまで優れない理由がない。三香は友人として何が出来るか考え、こういった時は気を晴らすのが一番と、浮かない千尋を遊びに誘う。


「そうだ千尋、久しぶりにカラオケでも行かない? シフトも増やしたし、たまにはパーッと、ね。今日は休みって言ってたし、いいでしょ?」


「ごめん……休みの人出たから行かなきゃならなくて。昨日遅刻して迷惑かけちゃったから、断り辛くて」


 存外ノリの悪い友人を見て、思わず三香も困惑する。それに彼女の口から出た遅刻という言葉。


 前日は直前まで一緒にお喋りをしていたはずなのに、どうしてその後遅刻なんてしたのだろうか。今の浮かない様子と合わせて、千尋の考え事とは何か。三香は友人として聞かなくてはならないと、そう強く胸の奥に感じていた。


「そっか。じゃあカラオケはまた今度。……で、考え事って何? 学校? バイト? まさか、それ以外!?」


「そういうのじゃない!! そういうのじゃ、なくて……」


 気軽に相談出来る内容であればどれだけよかったか。

 関りのないクラスメイトについて、誰に何と相談したら良いのだろうか。


 一歩間違えれば相手の人生を破壊しかねない、そんな歪んだ疑惑を、千尋は抱えてしまっているのだ。


「三香はさ……」


「んー?」


「吉田くんって、どんな人か知ってる?」


「えっ」


 突然千尋の口から飛び出した、予想だにしなかったクラスメイトの名前。なぜ、急にその名前が挙げられたのか。深刻な千尋の表情を見て、三香は彼女の考えが分からなかった。


「ほら、あいつってクラスでも喋らないじゃない。確か三香は去年も一緒のクラスだったでしょ? だから、去年はどうだったのかなって。それで」


「どうって、何が……?」


「例えば、なんだけどさ……」


 吐き出してしまえば、楽になる。自分一人が抱え込む問題ではない。


 それに、このままバイトに行ったって仕事に手が付く訳がない。別に、これは例えばの話だ。嫌な疑惑が晴れれば、それだけで気持ちはずっと軽くなる。


 千尋は一日中考えていた疑惑を、そっと唇に乗せた。




「万引きとかするような、そんな奴じゃ無かったよね?」




 スゥーっと。破裂寸前の風船が萎むように。

 抱え込んでいた気分の重みは、空気が抜けるように治まっていく。


 別にそんな事ある訳がないのだ。だから、これは口にするだけで良かった。それで終わりの話だった。


 だが、千尋の言葉を聞いた三香の顔色が曇る。真っ白なキャンバスに黒いインクを零してしまったような、何か取り返しのつかない事を聞いてしまったかのように。




「千尋、何でそれ知ってるの?」




 ――――――――――




 憂鬱な気持ちのまま、千尋はバイト先へ向かい勤務の準備を進めていた。


 足取りが重い。頭も気持ちも重い。

 何となく顔を背けていた現実が、三香の言葉によって直接襲い掛かっていたのだ。


 三香から聞いたのは、去年彼女のクラスで起きていた事件である。


 一つ。彼女のクラスには素行不良の生徒がおり、進級前に退学していた。その生徒は気の弱そうな同級生を標的としており、吉田もその一人に含まれていた。


 千尋はその生徒について知っていた。標的までは知らなかったが、その生徒の悪行を見たのは一度や二度では収まらなかった。


 だがもう一つ。千尋も、恐らく同級生の誰もが知らなかった事実を。素行不良の生徒が退学となったきっかけを、三香は千尋に語ってくれた。


 それはある日の放課後。たまたまその生徒が万引きする様子を、三香は見てしまったのだ。


 我慢のならなかった三香は万引きを担任へ相談。警察が介入した事もあり、普段の行いも重なって該当の生徒は退学。こうして事件は終息した。



「はずだったのに……」



 担任や学校が知っているのは恐らくそこまでの話。だが、三香はさらにもう一つ。誰にも言わなかった秘密を抱えていた。


 退学となった生徒は、なんと吉田に万引きをさせ、盗める店かどうかを確かめていたのだ。


 吉田が成功したのに合わせて自分も盗みを働く。

 彼を捨て駒にして、安全な場所から悪事を働く。


 そんな彼が許せなかった。だから三香は、吉田の存在は伝えずに該当生徒だけを通報した。そしてその生徒は退学処分となり、吉田は見逃された。


 それが三香の知る本当の顛末であった。だから、千尋から吉田の話をされた時、三香は心底動揺したと言う。


 そんな彼女の言葉を聞いて、千尋はどうすれば良いか答えを出せずにいた。



「……また明日、返す時考えよう」



 これ以上考えても今は仕方がない。千尋は着替えを済ませ、表へと顔を出す。すると、不意に店長から声をかけられる。


「なんだかまた顔色が悪そうだが大丈夫かい? レジがキツいなら今日もフロアで構わないよ」


「い、いえ大丈夫です! そう言って昨日も変わってもらいましたし……」


「今日は無理に来てもらったんだ。そんな事は気にしなくてもいい」


 別に大丈夫です。と断りたかったが、会って数分の店長にすら言われるようでは、きっと相当気の迷いが顔に出ているのだろう。そしてそんなやつに接客はさせない方が良いと思ったのも、店長の立場としてなのかも知れない。


 このままレジに立っては店に迷惑がかかると思い、千尋は店長の提案を受け入れる事にする。


 入荷した商品のチェックを終え、フロアの整理に回っていた。その時だった。



「あれは……!」



 文具コーナーの前で一人、商品を睨む男の子。

 私服にこそ身を包んではいたが、その顔に千尋は見覚えがあった。


 学校を休んでいたはずの彼が、忽然と千尋の働く書店へ姿を現す。


 声をかけるべきなのか。何と話しかければ良いのだろうか。消しゴム落とさなかった? なんて聞いて、話を出来るような間柄でもない。


 無論、万引きしたでしょ。などと言えば明らかに敵と認識されてしまうだろう。そうでなくても彼は過去に辛い思いをし、他人に対する警戒心が強いのだから。


 けれど、胸に残った疑念と友人に聞いた過去の出来事。二つが千尋の中に残り続ける限り、千尋だって仕事も学業も手に着かない。


 だがどう話しかければ良いか、答えの見つけられられない千尋。ただ物陰から覗く事しか出来ない彼女の前で、疑いの目を掛けられた彼は事に出る。



(今、袖の中に……!?)



 口を覆い、必死に物音を立てないように身を潜める。

 疑惑や仮説なんかではもう収まらない。


 クラスメイトであった吉田は、売り物の一つを袖の中へと潜ませた。その事実はもう、覆りようのない現実と成り果ててしまったのだ。


 何事も無かったかのようにその場を立ち去ろうとした彼を見て、千尋は衝動的に前へ出る。そして、気が付けばもう迷いなんてものはなく、零れるように口から言葉が紡がれた。



「そのシャーペン、いくらするか知ってる?」



 突然話しかけられ、背筋をビクりと飛び上がらせる私服姿の男の子。


「な、何を……何の、話……だよ」


「袖の中。そのままレジへ向かうか。それとも元へ戻すか。選んでよ」


「…………ッ」


 しらを切れないと感じた吉田は、そっと袖の中に潜ませたシャーペンを元あった場所へ戻す。俯き、黙り込み、目も合わさず、吉田はジッと、その場へただ立ち尽くしていた。


 何も言わないが、空気で伝わる。恐ろしく怯え酷く悲観する彼は、その後待ち受ける罰を強烈に意識している。


 きっと千尋が口外すれば、彼の人生は取り返しのつかない場所にまで行ってしまう。だが、そんな決断を私がしてしまっても良いのだろうか。


 彼はただ、やりたくもない事を無理強いされて、したくもない罪を重ねて。そこに彼の意思は無く、ただ彼は、彼は……。



「……もう、やらないからさ」



 黙っていた彼から、先に言葉が漏れた事に驚いた。

 その台詞は懺悔。自らの罪を認め、聞いてもらうための言葉。


 そんな彼の言葉に、千尋は心の底で安堵していた。


 自らが手を下すのではなく、彼の方から道を示してくれたのだ。

 間違いを犯したかもしれないが、それでも更生する余地があるのなら。


「他に、取った物はない?」


「ないよ」


「信じて良いのよね?」


「ああ」


「……分かった」


 信じてあげるくらいは、していいのかもしれない。

 胸の内から零れ落ちそうな感情を抑え、千尋は彼にそっと語りかける。


「もう行って。今日はもう、見たくない」


「……ああ」


 千尋に促され、吉田は一歩、また一歩と店の出口を目指し歩みを進める。


 このまま消えてくれれば、無かった事に出来る。

 悪事を働いていた彼はもう、どこにもいなくなる。


 それからはもう、ただのクラスメイトに戻る。

 最善とは思わない。でも希望は残る。


 後はもう、帰り道に買い食いでもして忘れよう。


 お互いに忘れてしまえば、悪者なんていなくなる。

 三香が一度見逃した彼は、正しい道へ戻る事が出来る。はずだったのに。


「相原さん忙しいところ悪いんだけどね……って、わっ!?」


「あぁ……っ!!」


 千尋を探して現れた店長と、店を出ようとした吉田がぶつかる。

 その拍子に、ふと未開封の消しゴムが床を転がって行く。



「あ」



 千尋の頭の中が真っ白になる。


 気づけば千尋は、吉田をバックヤードへと連れ込んでいた。




 ――――――――――




 二人は不気味な静寂に包まれながら、淡々と会話を進めていた。


「これで全部? 本当に、他の物は無いでしょうね」


「もう……盗ってない。机の上にある物で全部だよ。本当だ」


 消しゴムの他に、小さなメモ帳と絵の具が二つ。千尋が見つけた段階で、彼はもうこれほどまでに物を盗んでいたと言うのだ。


 魔が差した。などと言い訳の出来ない所業に、千尋はかける言葉も失い目を背ける。


「……どうして、万引きなんかするの? 嫌々だったんでしょ。もう彼はいないんでしょ。それとも、まだ彼に脅されてやっているの?」


「彼……? ああ、彼か。あいつはもうこの街にいないよ。どこに消えたのかも知らない」


「だったらなんで……! 盗む理由なんてどこにも無いじゃない。そうでしょ!?」


 感情的に。千尋は吉田の正面へ立ち彼を睨み付ける。

 万引き犯の心理なんて分からない。それでも、分からないなりに何かあるんじゃないかと。彼はまだ何か抱えているんじゃないかと思って、必死に彼の言い訳を探していた。


 だが、千尋の想いは何もかもが間違っていた。


「…………ふと、思うんだよ」


「えっ」


「ふらっと歩いているだけで、ふらっと立ち寄っただけで。あっ。って感じるんだ。その時はもう、手が伸びているんだよ」


 虚ろな目で吉田は語る。どうしようもなく止められない胸の鼓動を。湧き上がる衝動を。スリルという名の快楽を。彼はぽつりと、渦巻く感情を口から零す。



「食べる手が、止まらないんだ」



 笑っていた。


 犯行が見つかり、裏へ連れていかれ、自白をしている最中だというのに、彼は。彼は笑っていた。


「……だからって普通は盗らないでしょ!? そんな事やったらどうなるか。君は知っているはずでしょ!? だって君は、彼がどうなったか知っているじゃない!!」


 万引きを働けばどうなるか。そんなものは考えなくたって分かる。軽い気持ちで。などと言っても、その後の末路を彼は知っている。何より間近で見ていた彼なら、知っていない方がおかしいはずなのだ。


 だが彼は違った。


 自分をイジメていた生徒が処罰されたのを見て、彼は別の感情を芽生えさせてしまった。


「あいつは見つかって罰を受けた。だけど僕はバレなかった。あいつと違って僕は上手くやった。あいつよりも僕は優れていたんだよ。あんなやつは罰を受けて当然だ。だけど僕は、あいつとは違う。違うんだよ……」


 優越感という名の、邪悪な芽。

 犯罪の中でしか感じられない自己肯定。


 見つからなかったという結果だけが、彼の人生を突き動かしていた。


 だが。


「……違う」


 千尋は聞いていた。他ならぬ友人の胸の内を、知っていた。

 彼は見つからなかったのではない。見逃されたのだ。


 そんな事実を知らない彼は、歪に芽吹き、悪の花を咲かせてしまった。


 三香の想いは間違っていたのだろうか。

 彼を可哀想に思い、見て見ぬふりをした。その結果が今の彼だ。


「違う。それは違うよ……。君は見られていた。でも、その子は君の事を言わなかった。君が自分の意志でやってないって分かったから、君の事は伝えなかった。だから君は、裁かれなかった。それだけなんだよ……」


 吉田は目を見開き、正面に立ち尽くす千尋を見つめる。酷く沈んだ表情で、哀れみを含んだ目で、驚き顔をこわばらせる吉田を、ジッと見つめ返している。


 彼女は、なんだ。


 彼女は、何を言っているんだ。


 見つからなかったから罪に問われなかった。それは他ならぬ自分の実力だ。

 捕まったやつが愚かで、見つからなかった自分は優れている。そのはずだ。


 だが何故だ。何故彼女は、そんな事を言い出したのだ。


 どうして彼女は、僕が盗んだ事を知っていたんだ。


「嘘だ……嘘だ!!」


 考えたくもないのに、納得なんてしたくもないのに。彼女の言葉と彼女の話す内容が、頭の中で結び付こうとする。気付きたくない。答えなんて知りたくもない。悪いのはあいつで、僕は悪くない。僕は優れているんだ。だから。



 だから僕は、嫌でも彼女の言葉を理解してしまったんだ。



「…………ほっといてくれよ」



 何かを悟った彼は、現実から目を逸らすように視線を下げる。

 それと同時に、一筋の涙が彼の足元へ零れ落ちる。


「どうして……今になって構うんだよ」


「それは、君が悪い事をしていたから。でしょ」


「だから、どうして今なんだよ」


 ギロリと、俯いていた吉田が顔を上げる。

 今にも噛みつきそうな獣の目で、吉田は千尋を睨み付ける。


 そして、吐き捨てるように彼は呟いた。



「どうして、僕が殴られている時には何も言わなかったんだよ」



 呼吸の仕方を、忘れそうになった。


 彼が言った一言に、千尋は言葉を失った。


 それは、同学年の誰もが知っていながら、見て見ぬふりをしていた現実。

 素行不良の生徒と関わりたくないから、一人の少年を犠牲にした事実。


 周りが視界に入れなかったばかりに、彼は誰にも知られず堕ちていた。


「…………でも、そんな事はもういいんだ」


「えっ」


「だからさ、頼むよ」


 獣のような視線を向けたまま、彼は口角をゆっくりと上げる。

 そして目を細め、抑えるように口を開きながら、千尋へと懇願する。



「また、僕なんて見なかった事にしてくれよ」



 彼は、笑っていた。


 そんな彼へ、言葉に出来ない嫌悪感を抱いた。


 今思えば、はっきり分かる。殴られていた相手が、彼であったとはっきり思い出せる。


 なのに、見なかった事にしていたのは自分だ。面倒事に関わりたくないから、きっと他の誰かが伝えるだろうと思ったから。



 だから今、こんなに胸が苦しいんだ。



「……出来ない。出来ないよ。見なかった事になんて、私にはもう出来ない」



 彼が手を伸ばす。


「……待ってよ!!」


 そんな彼を無視して、千尋はバックヤードを飛び出す。


 扉を開くと同時、聞き耳を立てていた店長と鉢合わせた。


「……見張っていて下さい。彼がここから出ないように」


「い、いいのかい? 知り合い、なんだろう……?」


「だから、だからなんです」


 そう言って、千尋は受話器を取り、三桁の番号を押す。


 受話器を耳に当てながら、彼がこの店に現れた理由を察する。学校近くのコンビニに居た事、三香のバイト先が最近ごたついていると言っていた事。


 どこまでが彼の思惑なのかは分からない。でも、見て見ぬふりをしていた私達は、彼が現れた事実にすら気づかなかったのだろう。


 だから私は、受話器を取った。

 だから私は、彼の存在を口にした。

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