3:異変

「あたしんとこにきた資料じゃ、ここ鬼が出るらしいのね」


 は? と目を丸くする俺に美子はメモを突き付けてきた。

 前半は前説を撮った時と同じ内容だが、続きがある。

 某疑獄事件の影響で、工事半ばで放置されたこの研修センターは、実は自殺が起きていたのだ。しかも、昭和から令和にかけて合計で七十二件。

「な、なんですか、これ!? え? これも――」

「だから違うって言ってんでしょ。ページめくってみなさいよ」

 氏名とプロフィール、そして新聞の切り抜きが貼られている。ざっと目を通す。


 ――施設跡地内で家族三人の遺体が見つかった事件で、北署は十六日、司法解剖の結果、三人とも自殺を図ったとして――


 ――廃墟内で見つかった大学生は司法解剖の結果、失血死の可能性が高く、北署は現場の状況から自殺と断定――


 ――麓の住民からの通報により消防隊が駆け付け消火した。男性は灯油をかぶり自殺を図ったとみられ――


 急に焦げ臭さが鼻にきた。思わず手で鼻と口を押さえる。

「……気づいた? コゲ臭いでしょ、ここ。でも、それだけじゃないわよ。もっと酷い臭いがするわ」

「え? さ、さっきまで臭ってなかったですよね?」

 美子はじろりと俺を見る。

「……ムラシーだけは臭ってないわよ」

 ぎょっとして外を見る。

 相変わらず煙草をふかしてのんびりしているおばちゃんも臭いと言っていた。

「あんた、さっきおばちゃんに物を触るなって言われたわよね。なんでか判る?」

 俺はマド寿美の過去回から得た情報を思い出す。

「ええっと……心霊スポットにある物を持って帰ると呪われるし、触るのも霊に対して失礼になる……でしたっけ?」

「おお、よくできましたって言いたいとこだけど、あれは番組上の建前みたいなもんでさ、実際のところは、こういうとこにある物は『場の記憶の触媒』になっていたり、『記憶そのものが入ってる』ことがあるのよ」

「場の記憶ぅ?」

 胡散臭そうな単語に胡散臭いなという反応をした俺の鼻面を、美子は人差し指でぎゅっと押し込んだ。

「あんた今体験したばっかでしょ!? この臭いは何だと思ってんの?」

「あの焦げ臭さのこと? いや、記事を読んだから、こう、脳がそれっぽい臭いを――」


 焦げ臭さがぐっと強くなった。ぎょっとして固まる俺と、さっと廊下の先を見る美子。すると更に酷い臭いが漂ってきた。


「うぷっ……な、なんだ、これ!?」

「ドブの中でネズミが死んでるみたいな臭いでしょ? こういう場所には鬼が湧くのよ」

「お、鬼!?」

「ムラシー! 緊急退避!」

 村篠さんがカメラを構えたまま、すぐに部屋から出てくる。

「臭う?」

 美子の問いに、村篠さんは眉を曇らせる。

「微かにな。ドブっつーか、チーズっつーか」

「ええっ!? これっ……こんな凄いの臭わないんすか!?」

 村篠さんは顔の下半分を抑えた俺をじろりと睨んで、成程なと呟いた。

「イダケンは当たりだったか」

 当たり?

「それ、どういう意味――」

「ほら! 出る出る!! 追っかけてくるわよ!」

 臭いが一気に強くなってきた。

 廃墟のあちこちでがしゃがしゃと小さな物音がし始めた。風が吹いたから、臭いが強くなって音がした。

 なら臭いの大元は? 

 あの廊下の先のドアの向こうでイノシシでも死んでるのか? 

 でも、さっきまで全然臭わなかったし、死体があるなら蠅ぐらいいるだろう。鳥も虫もここにきてから一匹も見ていないのだ。


 外では、おばちゃんが丁度車に乗り込むところだった。村篠さん、そして俺を抜かした美子が外に出る。

 俺の足が止まった。

 疲れが一気に来たように、足が重くて止まってしまった。


 ……あれ?


 首が勝手に動く。

 ゆっくりと右を向く。

 窓のない大きな部屋が視界に入ってくる。左の隅が真っ黒く焦げている。きっとあそこで焼身自殺があったのだ。ここに立って、あそこが良さそうだと考え、ポリタンクをもってこんな風に部屋に入って、ああそうだ、息子にこれを残しておこうと思い立ってポケットに手を入れて――


『イダケン!!』


 体が揺さぶられるような美子の叫びに、俺は自分が何かを右手で握っているのに気が付いた。がくがくときしむ首を下に向け、右手を開いてそれを床に落とそうとする。だが、それは、その古びて溶けかかったテープレコーダーはまるで手に吸い付いたかのように落ちず、それどころか俺の親指は不自然な角度に曲がり、再生ボタンを押し込もうとしている。

「――っ! ――――ぃっ!!」

 声が出ない。目が熱くなる。ボタンが押し込まれ、ガチリと音がすると――なんてことだ電池がまだあったのか――汚れたカバーの向こうでテープが回り出すのが見え、声が聞こえ始める。


『わ――もう――し――ね――』


「喝!」


 美子が俺の手にチョップを打ち込んでいた。激痛と安堵感、そして強烈な尿意と凄まじい切なさが同時に襲ってきた。


「あああああああああああああ! 死にたくない! 死にたくないよお!!」


 俺は何を叫んでるんだ!?

 頭の中に何かが浮かんでは消える。

 狭い部屋――借金――泣き叫ぶ男の子――頬を抑えてうずくまる女性――ガソリンスタンド――山道――

「いやだいやだこんなしにかたはいやだたすけてたすけ――」

 止めようにもとまらない。涙と鼻水があふれ、膝が崩れる。そして、とうとう股間から熱いものがあふれ出し――


「イダケン! これを見なさい!」


 美子の声に俺は顔を上げた。

 目の前にスマホがあった。

 画面には全裸の女性が煽情的なポーズを決めつつ親指を咥えている今時そんなのあるかってくらいベタなセクシー画像が映っていた。

「…………え?」

 呆気にとられる俺の背中を、美子はすかさず叩いた。

「よっしゃ戻った! ほら、脱出! 早く立って! いや、そこじゃないわよ!?」

 湿った股間を指差す手を掃って、俺は苦い顔で美子の後に続いて廃墟の外に飛び出した。

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