第3話 やっぱり、へんかもしれない

 ハッとして彼女と目を合わせると、射貫かれるように開かれた黄金色の綺麗な目に余裕のない私の顔が映っている。

 なんでこの女は私の名前を知っているのか、は正直あまり気にならない。どうせ人の情報を読むことができる便利な魔法でもあるんだろうと思っていたから。

 

 私がこんなにも心臓を高ぶらせたのは、こいつがいきなり敬語じゃなくなって、しかも私の名前を呼び捨てたから。


 いや、おかしい。なんで敬語じゃなくなったからって、呼び捨てにされたからってこんなにもドキドキするの。なんでこんなに顔に熱を感じるの。

 違う。

 違う。

 なんでこんなに。

 違う。

 だって、これじゃあまるで、私はこいつに


「お願い」

「う、あ」


 近い。顔が、近い。


「はなれて、いや、おねがいだから」


 目を伏せたいのに、魔法にかかったように逸らせない。小さくなる私の声がもう囁き声程の大きさになっている。


 この女は依然離れない。私の上で馬乗りになって、捲れて太ももが見えているドレスも気にせずに、私の顔にキスをするかのように迫っている。


 いやって言ったのに。話を聞かない。この女はそうだ。離れてほしいって願いも、私を帰してほしいって願いも、私の願いをこれっぽっちも聞かないくせに、自分の願いは受け入れてほしいと宣う。まるで自分のことしか考えていない。


「えり、」

「わ、かった。わかったから、もう」


 ついには降参の声をあげてしまった。するとクスリと彼女は笑って顔を離す。

 顔が離れていくことへの安心感と離れたことによる喪失感を感じてしまい、自分が情けなくなった。

 こんな女に私は絆されているのかと。本当に自分自身が情けない。


 そもそも女の人に言い寄られたのは初めてじゃない。

 私が女子校に通っていたこともあってか、女同士の恋愛には少し見聞があったし、実際後輩に好意を寄せられてバレンタインの日、手作りのチョコを両手に真っ赤な顔で告白されたこともあった。

 この感情が恋愛感情かなんなのかを確かめるためにお試しで女友達と付き合ったこともあったし、遊びではあったけれどキスをしたこともあった。


 そうだ、だからこんなに動揺するのはおかしいのだ。この女は確かに綺麗だが地球にいた頃にもこの女と同じくらい顔が整っていた友達がいた。


 あぁ、そうだった。それで、この前町を歩いていたらスカウトされたって話していて。すごいね、モデルになっちゃいなよ。なんて人並みの感想を言った私に対して私と一緒にいる時間が減るでしょ? やだよ。なんて言って微笑んできた友達。

 今度の休みにリニューアルしたカフェに行こうって約束していたのに。もう帰れないなんて。

 もう家族にも会えないし、友達にも会えない。我が家にも帰れないし、テレビもゲームもできない。のんびりとこたつに入りながら年を越すことも、夏休みだね、何しようねって学校で友達と盛り上がることもできない。

 この女のせいで。こいつらのせいで。私を戦いの駒にするためだけに。こんなところに呼びつけた。


 全部奪った。


「なんでよ」

「?」


 女が首をかしげる。


「なんで、なんで私なの。なんで……っ帰してよ。お願いだから、何でもするから……」


 ほんとは胸ぐらをつかんで押し倒して、その陶器のようにすべらかな顔を殴って怒鳴りつけてやろうかと思った。

 けど私は相当にこの状況に参っていたようで言葉は所々震えるし、視界がぼんやりと滲んできた。

 あぁ、情けない。感情を吐き出すほど目が濡れていく。


「あらあら……」


 女が私の目じりに指をあてて、拭うように指を動かした。


「お願いだから、帰らせてよ。いやだよ、もう。夢なら覚めてよ。もうやだ」


 ついには決壊してポロポロと涙が零れ落ちていく。

 でもその涙は落ちきる前に全てこの女が拭い去っていく。


「もう。怒ったり泣いたり……ふふ、忙しい人」


 この世界には私の居場所はない。

 いきなり何の持ち物もなく知らない国の知らない街に放り出されるかのような不安感が酷く怖い。発狂してしまうかのような不安感。

 こんなところで、日本という平和な国でぬくぬく育ってきた私がやっていけるわけがない。もういやだ。家に帰りたい。


「もう……泣かないで。私を見て。安心するから」


 ぐいと顔を持ち上げられて視線が合う。途端にふっと何かが拭われたような爽快感と感情が晴れていくような心地のよさがした。

 でもどこかの感覚が、これがまずいぞと体中に不快感を這わせ始める。

 

「大丈夫。エリは大丈夫。私がいるから。私がいるからエリは大丈夫。ほら、もう怖くないでしょう?」


 言葉の1つ1つがひどく心地いい。耳に入り込んで脳の中を甘くするような……変な……?

 あぁ、やっぱり、へんかもしれない。このおんな。


 そんな数秒前の思考も霧のように薄れていって、なんにもわからない。

 ただコクリと浅く頷く。その様子を見て女は笑みを深めた。


「ほら、おやすみなさい。もう一度目が覚めたら感情が落ち着いているから。目を閉じて。大丈夫。あなたには私がいますからね」

「ぁ……」


 頭を優しくなでられて瞼を優しくなでられる。

 それだけでなんだか頭がボーっとして全身が脱力感に襲われる。

 撫でられた瞼が開かなくなって、笑い声のような嫌な空気の震えが聞こえたな、と思ったぐらいにはまた意識が闇の中に落ちていた。

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