十六

第34話

「昨日の課題の続きから。人間の基本的な行動理念とは何か、歴史から考えてみてって話だったね。どう、何か気づけた?」

「うん。フィクションを除き、人類は共通の目標によって争っている」

「それは?」

「幸福。いつの時代も、どの時代も。そしてたぶんこれからも。幸福の為に争い続けると思う」

「よくできました」

 女の子の頭を撫でる。いつか見たような姿形で、丸いながらも少しばかり鋭い目に、艶のある黒い前髪を垂らしている。頭の一番高い所から、強力な寝癖が立つ。私は女の子を呼ぶと、ハンチング帽を被せた。

「センちゃんの言う通り、この世に産まれた人間は全て、よりよい生活を望んでいる。昨日より今日、今日より明日、明日よりも先の未来が、少しでも幸福な日になるように努力している。センちゃんが言った通り、宗教も、戦争も、そして経済活動も、結局は幸福を得るための手段でしか無い。いつの時代も、そしてこれからも、自分たちの幸福を原則として追い求めていく事になる。では、人々は幸福と呼ばれる共通の目標がありながらも争いが絶えないのは何故か。それは、幸福の主体が人によって異なるから」

 手招きをして、晴れた草原を歩き出す。歩く傍から蕾が膨らみ、草の中に花が咲く。花弁のように舞い飛ぶ蝶へと手を差し伸べる。手に止まった蝶を女の子へと見せると、羽を広げて飛び立った。

「ある人は自分自身。ある人は家族。ある人は会社。ある人は同じ国に暮らす人たち全員。またある人はこの世界に存在する全ての人と、それぞれ主体が違っている。自分自身の幸福を求める人は、家族や会社の幸福を顧みない場合もある。他人の幸福を願いながらも挫折してしまった人も居る。それが不幸の根源になっている」

「じゃぁ、不幸は無くならないの?」

「そうねぇ。不幸は無くならないし。無くそうとする必要もない」

 渓流に橋を架け、小さな湖に船を浮かべる。女の子の手を取って船に引き入れると、椿の花が浮かぶ湖面を動き出す。やがて船は岸に乗り上げ、それっきり動かなくなった。

 椿の木々に分け入って行く。濃く深い緑の葉に、深紅の八重の花が咲く。先日までの雨を受け、花弁の中で雫が光り輝き放つ。

「幸福と不幸は二つで一つ。どちらか片方だけを消す事なんてできはしない。白と黒、心と体、アクセルとブレーキ。相反する二つが互いに力を合わせ、協力し、一つの役割を担っている。幸福と不幸も、氷と蒸気と同じで、一つの物の状態変化でしかない。幸福も一つの状態で、不幸もまた一つの状態なの」

「じゃぁ、不幸はそのままで良いってこと?」

 女の子が木々の間から顔を出す。私は優しく微笑みかけて、奥に建つ和風の屋敷へ向かう。どこかからか、空の竹を叩く音が響き渡った。

「残念ながらそれもまた違うかな。幸福だったら良いけれど、もしも不幸でいっぱいになってしまったらどう思う?」

「かわいそう」

「うん。かわいそう。幸福と、不幸は同一だけど、不幸だけは許容できる限界がある。限界を超えないようにあの手この手で発散するけど、中には一人で抱え込んで壊れてしまう人もいる。そうなると、いったい人はどうなるのかな?」

 女の子は答えなかった。私は靴を脱いで、屋敷の縁側に上がる。女の子が靴を脱ぐのを待って、手を貸し家に引き上げる。

 灯台に火が灯る。うす暗い畳の部屋を照らしあげる。ハローハローで出会ったあの日の記憶のままで、襖に椿が描かれている。灯台に導かれるように、襖の前へと進むと、独りでに開いた。

「最終幸福追求権、私は必要だと思う。必要な人を見てきたから。それで救われた人を見てきたから。だけどね。誰一人として見捨てない。その気持ちがあってこその死の権利なの。センちゃんに伝わったかな」

 俯く女の子の姿を見て、膝立ちになり肩に手を置く。私の意志でキツネの仮面を出すと、女の子の手に握らせた。

「それで良い。今はまだわからなくても、これからいっぱい考えて、考えて考えて考えれば良い。時間はまだまだ沢山あるから。アナタなりの考えを見つけて欲しい」

 黒色の猫の仮面を出す。無表情な顔つきは、微笑みながらも哀し気で、困りながらも怒っているような顔つきだった。

「センと違う考えでも、私と違う考えでも。アナタの考えを尊重する。大丈夫。アナタには私の論理と知識が、そしてセンとシズクの心がある。アナタが導き出した答えなら、きっと人々を幸福にできる。それにアナタが必要とする限り、私も傍に居てあげるから。これから一緒に考えよっか」

 女の子が頷いた。

 目の端で小さな影が走り抜ける。私は女の子の手を取り立ち上がると、目もくれずに小さな影へと笑って言った。

「シズク、夏への扉はそっちじゃないぞ」

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最終幸福追求権 @iamiam

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