第26話

「ね、起きて。朝だよ」

 真っ黒な画面に前触れもなく、大音量で声がした。幼い子ども、どちらかと言えば女の子の声だった。しばらくゴソゴソしていたが数秒限りの間が開く。静かになったと思ったら、今度は頭を震わせる程の声で言った。

「こらー、起きろー!」

 画面にようやく光が灯る。ぼんやりとした視界は横に長くあり、何もかもがぼやけて見える。二度、三度と視界が閉ざされる度、次第に焦点が定まってくる。

 抑え気味の照明の下、幼い女の子が見下ろしていた。丸いながらも少しばかり鋭い目に、艶のある黒い前髪を垂らしている。頭の一番高い所から寝癖が綺麗に立っており、緩やかに垂れて指していた。

「ちょっと、スズネ。やめなさい。重いから!」

「じゃあ、起きて」

 抑えようとして、それでも溢れ出る笑顔を浮かべ、女の子は意地悪に言った。馬乗りの姿勢は崩さずに、倒れるように抱き着く。

 女の子に腕を回して横に転がす。次第に視界が狭くなって、瞬く間に黒一色へ逆戻りする。

「もうちょっと寝かせて」

「やだ」

「あと五分だけ」

「いち、に、さん、し、ご。はい、経った」

「経ってないでしょ。もう。今、何時?」

 うっすらと光が戻る。女の子の髪を掻き上げると、視線操作で時計を出した。

「ちょっと、まだ五時じゃないの。こらスズネ、おとなしく寝てなさい!」

 女の子を抱きしめる。楽しそうな悲鳴と笑い声が上がる。動画はそこで停止して、初めから再生するか、終了するか、それとも次のファイルを開くのか。私の指示を待っている。

 ソファの上で一方の足で胡坐をかいて、もう一方の膝を立てると、片手で口元を覆い隠す。

「シズク。このファイル」

 どこにあったの、と聞こうとしてやっぱりやめた。どうせ話せないのだから、満足のいく答えなど得られないだろう。代わりにシズクを抱き寄せた。

 次のファイルを開く。

 同日わずか数時間後のタイトルだ。モニターで再生させると、見覚えのある立派な寝癖が映り込んだ。

「ママ、まだ?」

「もう少しだからちょっとジッとしてて」

 女の子を前に向かせ、自身はブラシで髪を梳く。椅子に座り、背を向ける女の子は黒地に白の正装ながら、随所にリボンやレースの着いた、子どもらしい服を着ている。

「なにこれ取れない」

 スタイリング剤を寝癖に擦り込む。入念に、何度も何度もブラシで梳くも、頑固な寝癖はすぐに立ち上がり、挫けるところを知らないでいた。

「なんでよ、もう。お父さんの音楽会に遅れちゃうじゃない!」

 視線操作で時間を見る。荒っぽく梳き続けながら、ルームサービスに帽子を取ってくるよう指示を出す。持ってきた、深い紺色のハンチング帽をひったくると、女の子に帽子を渡した。

「はい、その帽子をかぶって」

「えー」

「えー、じゃないでしょ。可愛いからほら、早くしなさい」

「可愛くないよ。だってお父さんのだもん」

「スズネがかぶったらなんでも可愛いから。はい」

 女の子から帽子を取り戻し、頭に乗せる。お世辞にもサイズは全く合っていない。だがフォーマルな服装との組み合わせには違和感が無く、中性的な雰囲気が子どもらしさを引き立てる。

「ほら、可愛い。さぁ早く立って。もう出るよ!」

 手を引いて半ば強引に立ち上がらせる。さぁ玄関へと歩き出した時、女の子が手を振りほどいて言った。

「待って。おしっこ」

「さっき行ったでしょう! もう、早く行ってきなさい!」

 動画が終わり、走る女の子も止まる。

 たしかこの後、お母さんと一緒に音楽会に行ったんだっけ。記憶が正しければ、端末を持つより前のはずだ。

 次のファイルは手を繋ぐ女の子と一緒に歩くところから始まった。温かみのある暖色系の照明の下、足音も吸い込む絨毯の上を急ぎ足で歩いていく。

 扉を一つ抜ける度、楽器の音が大きくなる。四重扉を全て抜けるとオーケストラの大合奏が響き渡る。ステージだけが照らされた人いっぱいの会場の中、端末の指示に従い席と席の間を下る。一番前の列に至ると頭を低く下げて、足早に女の子の手を引き横切った。

 ほぼ中央の席に座る。女の子を無理に隣に座らせると、やっとの思いで一息ついた。

「大人しくしててね」

 アップテンポなドラムの下地にバイオリンのスウィングが乗る。すべての楽器がため息をつくとドラムを従え、サックスが一人立ち上がる。スポットライトを浴びながら、声高らかに歌い始めた時だった。

「パパ!」

 女の子は椅子を飛び降り手を振りながら舞台に向かって走り出す。慌てて女の子の手を掴み、自分の元へと引き寄せると大きなハンチング帽が滑り落ちた。

「アンタはどうしていつもそうなの!」

 露わになったしぶとい寝癖に帽子をかぶせる。もう一人だけにはして置けないと、女の子を膝に乗せ、お腹の上で手を組む。

 サックスはたった一人の声援に応えるように、一層大きく身体を揺らす。精一杯に伸ばしきった後、それぞれの楽器達が揃ってサックスを追い始めた。

 曲が終わり、ファイルも終わる。盛大なる拍手の下で指揮者が深くお辞儀をしたまま止まる。

 私が次のファイルを開く。今度は女の子の姿では無く、サックスの奏者と指揮者と、そして記憶ファイルの持ち主が話している場面からだった。

「素敵な演奏の邪魔をしてしまい本当に申し訳ありません。スズネにはよく言っておきますので」

 頭を下げて、女の子が視界に現れた。少しばかり不安そうに、手を繋ぎながら見上げている。さっきまでとはうって変わって、静かで大人しく、お淑やかなお嬢さまだ。

「気にしないでください。スズネちゃんの可愛い声が聞けて皆喜んでましたよ。お母さんも大変でしょう。色々と便利な社会になったとは言え、子どもからは目が離せませんから」

 笑って言った指揮者に対して、改めて謝辞を述べる。彼は穏やかに制すると、膝をつき、今度は女の子に微笑みかけた。

「パパを貸してくれてありがとう。お陰で良い演奏ができたよ」

「ほらスズネ、ごめんなさいは?」

 女の子は恥ずかしそうに手を抱きしめて、言われて初めて謝った。

「うん。ちゃんとごめんなさいが言えて偉いぞ」

 指揮者の人は笑顔で言った。

「黒澤さん。音楽に熱心なのも良いですが家族の事も忘れずにね」

「もちろんです」

「たまには休んで子育てに協力しなさいと言っているんです。労働の時代は終わったのですから、奥さんと君の娘を大切にしてあげなさい。特に子どもの成長は一瞬ですよ」

 遠くから指揮者の人を呼ぶ声がした。彼は笑顔で応えると軽く会釈し、他の集団へと去って行った。

「聞いてた? ちゃんと協力しなさいよ」

「わーかってるよ」

「大変だったんだからね。今日だって寝癖が治らないわ、出かける直前でトイレに行くわ、さっきだって急に走り出すし、本当にもう」

「それで俺の帽子をかぶっていたのか」

 彼は笑いながら女の子の帽子を取る。抑えられていた寝癖が立ち上がり、女の子が動く度、頭の上で踊っていた。

「すごい寝癖だな」

「そうなのよ。濡らしても、スプレーもワックスも全部ダメ」

「可愛いじゃないか。アニメのキャラクターみたい」

「そういうオタク趣味、気持ち悪いから止めて」

「そう言うなよ。自分の娘が可愛くない人間が居るか?」

 女の子の頭を撫でて、帽子を戻す。女の子は帽子を片手で持ち上げると、自分の手でかぶり直した。

「なら、スズネをお願い」

「え、今?」

「なによ」

「すまん。ちょっと今からコイツの練習を」

「あのねぇ。いつもアンタはそうやって家にいないじゃないの。今日がなんの日か覚えてる? スズネの誕生日なのよ!」

「覚えているって。二歳だろ」

「三歳です! 自分の娘の年齢を間違えるなんてあり得ないでしょ!」

「すまんすまん。せめて誕生日プレゼントを」

「もう準備しました。アナタのは必要ありません」

「何をプレゼントするんだ?」

 記憶の持ち主は耳元に顔を近づける。小さな声で足元の女の子に聞こえぬように、気を付けながら囁いた。

「嘘だろ。早すぎないか。まだ三歳だぞ」

「アンタは居なかったんだから文句を言える立場じゃないでしょ。とにかく私が決めたんだから口出さないで。帰るわよ、スズネ」

 鼻を鳴らして向きを変える。女の子の手を無理に引き、エレベーターへと歩く。引きずられるように女の子は小走りで追いかけると、不安そうに見上げながら小さな声で尋ねる。

「パパは?」

「来ないってさ」

 肩越しにふり返った視線の先には、残されたサックス奏者が俯くように立っていた。

 次のファイルは暗闇に灯る小さな火から始まった。

 三つの蝋燭全ての上で、柔らかな火が踊っている。その火の奥で、はにかんだ女の子の顔が浮かぶ。胸いっぱいに息を吸い込むと、蝋燭の火を吹き消した。

「誕生日おめでとう!」

 たった一人の拍手が響く。吹き消したはずの蝋燭の火は一つだけ復活し、ゆったりとまた揺れている。女の子は息を吸い込み吹きかけるも、弱いのか、それともずれているのか。のらりくらりと、やり過ごしてはまた盛る。

 女の子は業を煮やして立ち上がり、触れそうな程に顔を近づける。近い近いと、遠ざけようと試みるも、それより早く女の子は火を吹き消した。

「おめでとう。スズネ、何歳になった?」

「三さい」

 部屋に灯りが戻る。

 若干、舌足らずに言ってみせ、親指、人さし指、中指と三つの指を立てる。三は普通こうなんだよと、記憶ファイルの持ち主は、人さし指から薬指までを立てて見せた。

「そう、三歳。よくできましたぁ! 良い子のスズネに、じゃーん! お誕生日プレゼント!」

 赤色の可愛らしい包装紙に綺麗なリボンが乗った、手の平程の包みを出す。歓声を上げる女の子にプレゼントを渡すと、開けてごらんと促した。

「中身は何かなぁ?」

 乱雑に包装紙を裂いていく。散った花弁のように、裂かれた包装紙が舞い落ちる。長い時間をかけて出て来たのは、体内端末の箱だった。

「これなに?」

 少しばかり不服そうに、女の子は言った。

「それはね。明るい未来へのチケットです。よかったね、スズネ。これで将来幸せになれるよ!」

「ねぇ、パパは?」

「パパ? パパもママも、みんな付けてるよ」

 貸してと言って、女の子から箱を取り戻す。女の子に代わって中身を開封すると、複雑な回路が乗った厚手のシートが現れた。

「ほら、おでこ出して。ちょっとペチョってするだけだから」

 今だからわかる。紙より薄いメモリーに、小指よりも小さなコア。緊急時用の極めて小さなバッテリーに、衛星上から電気を受けるアンテナがある。

 女の子の前で膝立ちとなり、長い前髪を掻き上げる。抑えていて、と二度も言って自分で髪を抑えさせると、慎重に、端末の乗ったシートを貼り付けた。

「つめたーい」

「ダメよ。剥がしちゃ。一時間もすれば馴染むから、それまで触っちゃダメだからね」

 抑えていた髪を放す。立ったままの寝癖が揺れる。

 パパは、と尋ねる女の子の頭をワザと乱すと、明るすぎる口調で言った。

「さぁ、ケーキ食べよっか」

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