書かずにはいられない原因

naka-motoo

これがわたしの小説の前提条件です

 科学分野の基礎研究が大事で資金面でも自由に十分に研究できる環境を研究者に与えないと日本の国力は減退するという人もいるけれども、全くそんなことはない。


 むしろ科学研究分野にカネをつぎ込みすぎだと思う。


 本当に基礎研究が大事だと思うのならば、一番重視しなくてはならない基礎研究とは、小さな子供たちに競争などというくだらない指標によらず、世の全員のひとを救うような教育を施すことだろうと思う。


 大学になど金を配らなくてもよいので、生まれてから成人するまでの間の家庭教育に日本の全資金をつぎ込んでもいいとすら思う。


 それは道徳教育などでは決してない。


 祖父母や親や周囲の大人たちが身をもって示す教育。




 最善・最良の方法はたとえば祖父が孫の手を引いて神社に参拝すること。


 祖母が仏壇の花を仕替えて手を合わせる背中を孫に見せること。


 嫁が自ら姑に仕え、子に「おじいちゃんおばあちゃんにやさしくしてあげなさい」と教え諭すこと。


 父親が賞与明細を祖父母に見せ「おかげさまで今期も無事勤めることができました」と頭を下げること。その姿を子供にも見せること。


 隣のおじさんが玄関の前を掃き清める姿。


 向かいのおじいさんが朝日に向かって手を合わせて感謝する姿。


 こういう、おぎゃ、と生まれて社会・世の中に出るまでの間、家庭・近隣の大人たち全員がホンキで全力で大人としての、いや、人間としての手本を示し、裏心の無いやさしさでもって子供たちを満たしてやらねばならない。


 


 これは学校では絶対にできない。


 課外活動でも絶対にできない。




 なぜか。




 学校でよい行いをすれば先生がほめる。


 学業でよい成績を取れば偏差値が上がる。


 ボランティア活動をすれば評判が上がる、印象が良くなる、場合によっては進学や就職に有利になったりすらする。


 学校や企業で親切で一生懸命でいると、他人からの評価がよくなったり突き詰めていけば人望を得て地位や給与があがる。




 それではダメなのだ。




 なぜか




 よい行いを競争している


 ボランティアを競争している


 きれいな心を競争している


 やさしさを競争している




 競争ごときの強制力でやることは、


 結局褒められるからやる


 評価が上がるからやる


 印象がよくなるからやる


 カネがもうかるからやる


 名誉を得られるからやる




 そういう教育をほどこすことにしかならない。


 そういうことを一生懸命学校で教えることにしかならない




 証拠に観よ


 


 生徒たちの行く末を学校の街の氏神さまに真正面から拝む教師がいようか?


 グラウンドに隣接した路地におわすお地蔵さまに花を手向ける教師がいようか?


 いじめに遭う子がいたら、いじめっ子に向かって、「わたしも一緒にいじめられよう」と修験者のごとく菩薩のごとく捨て身の覚悟ある教師がいようか?




 でも、できていない人間を責めることはできない


 国をあげてそういうことが不可能な仕組みにしてしまったのだから




 だから、個々人が自由な意思で、人間としての自由を行使して子供たちに家庭できちんと教育する必要がある。




 親のいない子はその子を扶養する大人が教育する必要がある。




 親切にしたところで社会的には誰からも褒められない身近な年寄りにやさしく接し


 拝んだとて目に見えてはよいことがあったのかどうかわからぬ神さまに報謝し


 誰も見ていないところでお不動さまに手を合わせお地蔵さまにお菓子を供える。




 親から子への愛情を無償の愛と表現する傾向があるけれども


 今書いたようなことは無償どころか無為の奉仕だ




 理由も理屈もなく、そうせずにはいられないからやる奉仕だ




 そして、そうせずにはいられないような気持で行動するには、おぎゃ、と生まれたその時から無為の奉仕をするひとたちに取り囲まれて無為の奉仕の嵐の中で過ごさねばならない。


 無為の奉仕の花びら舞う中で過ごさねばならない。


 当然ながら、祖父母や親、大人たち自身が、おぎゃ、と生まれた瞬間からそういう環境で育っていなければできるはずもない。




 わたしはろくでもない人間で、せっかく祖母たちや恩人に縁の深いおばあさんが身近にいてそういう世界を示してくれていたのに、わたし自身の愚かさからそういうことを徹底して過ごすことはできなかった。




 けれども、恩人の文章があった。




 恩人が「愚かなわたしが筆を染め造りし歌であるけれど」と歌った、詩のような歌のような文章があった。




 そこに書かれているのは、わたしごときが思いもつかぬような、上記の事柄を身に染みるようにして完璧に韻を踏んだ言葉で書き遺されたもの。


 


その簡潔さ、素晴らしさは、弘法大師が歌ったとされる「いろは歌」に匹敵するとわたしは思っている。




 だから、わたしはその文章に教育されている。




 自分がダメだと思う時にはその文章をそらんじる。




 本音を言うとわたしだって作家としてデビューしたい。




 文章をほめられたい。


 


 賞を獲りたい。


 


 印税が欲しい。




 けれども、恩人の絶対的価値を持つ文章すら


「ほんにまことと知られたら後世が大事とはやく知れ

 未来が大事と知れたなら、いちじもへんじも片時も 急ぎて後世をねがうべし」


と、切に切に歌ったけれども、わずかのひとが静かに聞いただけだ。


 ましてや中二病のごとく、ほんとうにホンキで実践したひととなると、皆無に近いと思う。




 でも、だからこそわたしはやりたい。


 中二病のホンキでやりたい。




 わたしの小説やエッセイを、この恩人のココロで真正面からホンキで書きたい。




 わたしの文章は、恩人をホンキでホンモノだということを前提に書いているつもりだ。




 だってそれが事実だから。




 それが、ほんとうのことだから。




 無為の奉仕のごとく、やらずにはいられないことだから。




 できうれば世の多くの人が恩人のココロに触れられるように、




 わたしは書きたい。




 書かずにはいられないんです。



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