狼の隣人

白長依留

歴史はこうして消えていく

 名前も忘れ去られ、隣町に飲み込まれた片田舎。

 特産と呼べる物は無く、年々、住民数は減っていく一方だった。だが、冬になるとこの片田舎には多くの人々が訪れることになる。


「今年も、この佐登村に積雪の時期が訪れました。今年こそ、皆さんのご期待に応える事ができるのではと、私達は興奮しております」


 元は村長宅だった大きな日本家屋。宿泊施設すらない片田舎――かつて呼ばれていた佐登村という名前を女性が口にしていた。

 明らかに市販の物とは違う大型のレンズを備えたカメラ。それを肩に担いで、男が女性の姿を追っていた。近くでは光を反射させるレフ板とマイクを持った男たちもいる。

 テレビのレポーターである女性は、よく通る声で元佐登村の歴史を語りながら隣の部屋へと移動した。そこは、二十畳はありそうな大部屋になっており、複数の男たちが各自の道具の点検をしていた。


「昨年はあと一歩というところ逃してしまいましたが、今年はどうでしょうか」

「ああん? 去年はてめーらが下手に近付いたから逃げられたんじゃねーか。今年は邪魔するんじゃねーぞ」


 部屋中から避難の視線を浴びせられ、表情を凍らせる女性だった。カメラが回っていることを思い直すと、ぎこちない表情ながらも何故この時期に人が集まるのかを語り出した。

 数年前から、この元佐登村では冬になると狼の目撃情報が出てくるのだ。


 やれ、山の中で見つけた。

 やれ、民家の庭で飼い犬を怯えさせていた。

 やれ、……。


 昨年は、男が毒づいたようにカメラマンが狼を見つけ、興奮のあまり声を出し近付いてしまったことで逃げられてしまった。

 カメラに残った映像データ。残された獣毛。これらから、二〇世紀初頭に絶滅したと言われていたニホンオオカミだと断定された。

 絶滅種から絶滅危惧種となったニホンオオカミ。保護という名目で懸賞金がかけられ、猟師たちの目をギラつかせる結果となっていた。先程、男たちが手入れしていたのは麻酔銃だ。環境省を頭として、実行部隊として派遣された男たちは、お世辞にも保護という理念を抱いているとは思えなかった。


「まあまあ、こんな田舎まで来て下さったんですから」


 好好爺然とした、腰の曲がった老人が小さくもよく通る声を上げながら現れた。この元佐登村の村長だった老人だ。


「奥の間に食事の用意が出来ましたので、皆様、どうぞおくつろぎ下さい。その間に、布団の用意をしておきましょう」


 険悪な雰囲気が多少は和らぎ、男たちは廊下に出て奥へと進んでいく。


「そうそう、テレビ局の方々は離れの方にご用意しましたので。余計なことでしたかな」


 捕獲が……懸賞金が目当ての猟師の男たちと、ニホンオオカミの存命を伝えたいテレビ局。同じ目的でも、スタート地点が違う両者はまるで水と油のようだった。







 思ったより美味しかった食事とお酒。こんな片田舎でここまで舌鼓をうてたこともあり、テレビ局の人たちの口も自然と軽くなっていた。


「なんなのよ、あの男たち。過ぎたことをグチグチグチグチと、いつまでも嫌みったらしいったりゃありゃしない」


 カメラが止まっているのを確認し、レポーターの女性が眉根を寄せて口を尖らせる。

「そうは言ってもさ、去年のカメラマンが不用意に近付いて逃げられたって証拠を、自分でしっかり撮ってたからな」

「だよな。だからあいつは今回の撮影に参加出来なかったんだし」


 カメラのバッテリーを充電しながら、今年初めて参加するカメラマンは肩を落とした。


「俺としちゃ、ニホンオオカミが生きていたからって、だからなんだって話なんだけどな。繁殖できる頭数なんて多分いないんだろ? 保護とかいいつつ、捕まえるのは研究の為だろどうせ」

「おい、不用意な発言はするなよ。今ここでカメラマンが消えたら、オレ達が来た意味が無いだろ。二度目ともなれば、今度はおれ達全員減給になることだってあるだろうし」


 テレビ局の男たちの分の布団は、母屋のほうに用意されているとの事だった。この離れの部屋は、唯一の女性である彼女が使うとのことで、男たちは退散していった。

 離れと言っても一人で過ごすには十分な広さがある。一人残された女性は、寂しさと同時に寒さを改めて実感する。屋外は膝程までの積雪があり、外に出れば体の芯まで一気に冷えてしまう。日本家屋は現在主流の洋式と違って、隙間風が多い。レポーターの女性は荷物から防寒具を出すと、屋内にも関わらず上に羽織った。周りの目を気にしなくて済むからこそ、女性は気を抜いていた。


「おや、もしかして露天風呂まで行く気でしたか?」

「ひゃっ」


 まさか人が来るとは思わず、女性から小さい悲鳴が漏れた。


「すいませんねぇ。驚かせてしまったみたいで」

「い、いえ。えっとその、露天風呂があるんですか? 去年まではそんなこと言ってなかったですが」


 この家に泊まるのは今年で何回目か。今まで露天風呂がある事なんて聞いたことはなかった。何か問題があるのだろうかと女性が考えていると、元村長が穏やかに笑みを浮かべてきた。


「今年は積雪が少ないですからねぇ。裏戸から出て細い道をまっすぐ行くと、温泉があるんですよ」


 テレビ局や猟師の男たちがこの家へ来る前に、除雪を済ませて使えるようにしてあるそうだ。除雪してから雪は降っていないので、行くのに問題はないとのこと。脱衣所も露天風呂に併設されているそうなので、使ってみてはどうかと元村長は提案してきた。


「他のお客様にはお教えしていませんので、今日はゆっくりと使えますよ。明日は皆様にもお教えしてしまいますので」


 一人で周りを気にせず楽しめる時間をわざわざ作ってくれたのだろうと、女性は元村長の好意を受ける事にした。







 懐中電灯を片手に、替えの着替えとバスタオルと持って山道をレポーターの女性が歩いて行く。空は澄み渡り星々がバケツをひっくり返したように散らばり、何時もより近くに見える月が夜道を照らしていた。

 懐中電灯は消していた。最初は懐中電灯を付けていたのだが、空の美しさに気付いてしばらくしたら懐中電灯を消していたのだ。

 目が慣れたのか道が見えるようになってからは、星を楽しみながら女性は露天風呂まで歩いて行った。


「これは、なかなかね」


 脱衣所で脱ぐ前に、まずは露天風呂がいかがなものかと思い、様子を見たら思ったよりも本格的で女性にとって嬉しい誤算だった。

 すぐに脱衣所で服を脱ぎ、適当に用意された籠に放り込むと、寒さに我慢出来ずに湯船に足を入れた。


「体を洗わず湯船に入る冒涜感」


 女性は温泉の縁の岩に体を預け。空を見る。温泉からの湯気が煙って、先程より綺麗には見えないが、それでも露天風呂というシチュエーションが良いスパイスとなっていた。

 じんわりと、熱が体に染みこんでくる感覚を女性が楽しんでいると、雪が崩れる音が聞こえた。

 猟師の男たちか? テレビ局の男どもか? 元村長は誰にも言っていないと言っていた。嘘だったのかと身構えたとき、露天風呂の周りに広がる森の中から一対の目の輝きが見えた。

 誰? という誰何の声は女性の口から出ることはなかった。なぜなら、目の輝きが近付くごとに重苦しい音が聞こえてくるからだ。

 森の中から出てきて月明かりに照らされた姿は――熊だった。

 女性は動けなかった。体が石の様に硬直し、声を上げることも動く事も出来ない。熊は女性に気付いているようで、少しずつ近付いていてくる。


 ――怖い怖い怖い怖い。


 女性の口は一生懸命悲鳴を上げようと動くが、心臓がそれに抗うように暴れ回り理性を打ち壊してく。ゆっくりと時間が流れていくような感覚が襲ってくる。しかし、遅く流れる時間は恐怖を感じる苦痛を引き延ばすだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。


「グルルルルル」


 閉じられた世界だと勘違いするような状況。それを打ち破ったのは、心胆寒からしめる唸り声だった。その唸り声は女性の後ろから聞こえた。

 熊を取り囲むように、何かが取り囲む。女性は野犬の群れだと最初思ったが……違った。その姿は昨年にカメラマンがカメラに収めたニホンオオカミ。それが六頭いたのだ。

 牙をむき出しに鼻に皺を寄せ、うなりを上げるニホンオオカミ。熊は徐々に包囲を狭めてくるニホンオオカミを警戒したのか、森の中へ消えていった。

 熊の次はニホンオオカミ。探していたといっても、群れに囲まれるなどという状況で喜べるはずもなく、女性は今度こそダメかと思った。

 群れの中から一匹が女性に近付く。その目は透き通った色をしており、飼い犬とは違って親愛は感じられない。けれども、敵意も感じられない気がしていた。まるで、こちらを値踏みするかのような深い深い瞳。

 やがて、近づいて来た一匹が露天風呂に入ると、他の五匹も露天風呂に飛び込んで来た。

 レポーターとして、この状況をカメラに収めたい、レポートしたいという欲に駆られる女性だが、動く事も声を出すことも出来なかった。

 体を温めきったのか、ニホンオオカミが出て行くことで解放された女性は、手早く露天風呂から出て着替えて脱衣所の外に出た。

 そこには地面に伏せているニホンオオカミ。女性の姿を見るや立ち上がり、元村長宅に向かって歩き出した。時折止まって、女性に振り返りながら。

 帰るにはニホンオオカミに付いていくしかない。恐る恐る付いていく女性は、無事に元村長宅に辿り着くことが出来たが、それを見届けたかのようにニホンオオカミは山へと消えていった。


「な、なんなの」


 やっと気を抜くことが出来たのか、しばらくぶりに発した言葉はなんとも間抜けな言葉だった。

 離れに戻ると布団が用意されているところだった。


「おや、お帰りなさい。よい体験が出来ましたか」


 元村長が布団を敷き終わり、女性に向かって声をかけてきた。

 よい体験なんて生やさしいものじゃない。どれだけ命の危機に瀕していたか。文句を言うと思ったところで、女性は思いとどまった。


 ――良い体験?


 元村長の言い回しに引っかかるものを覚えたが、女性はそれ以上口にすることは出来なかった。

 今年もまた、明日からニホンオオカミを見つけるための山狩りが始まる。けれど、ニホンオオカミは今年は見つからない気がした女性だった。

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狼の隣人 白長依留 @debalgal

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