日日是好日
茶碗を出して、となりに出帛紗を置く。朱色の帛紗とはちがい、かための生地だ。お濃いを点てるときや、上のお点前をするときにつかう。
「茶道って、いろんな布があるんですね」
やっちゃんのコメントで、ヒリヒリとしていた空気が霧のように消え去った。
「出帛紗というのよ。中井さん、どうぞいただいて」
先生の声で、中井さんは立ち上がった。わたしに目を合わせようとしてきたので、そっと目線をおろした。
中井さんはお茶碗と出帛紗をさっと取り、席に持ちかえった。となりの人との間において、飲む人全員で総礼。出帛紗を開いて、お茶碗の上にのせた。茶碗を回して、少し押しいただいく。ひとくち。
「おふく加減はいかがですか」
「結構でございます」
幸せそうな顔をして中井さんは、お茶を口にふくんでいく。よかった。少しだけ息がしやすくなった。
炉のお点前なので、中じまいをする。あいさつを受けたら、柄杓を構えて、お釜の蓋をしめる。ぐらぐらとした音が、小さくなった。蓋置、柄杓を建水に仮置き。帛紗を身につけて、飲み終わるの待つ。
中井さんは飲み口を懐紙でふき、茶碗を回してもとの方向にもどす。次の人との間に置く。
次の人が飲みはじめたら、おたずねがはじまる。
「素晴らしいお茶をありがとうございます。お茶銘は?」
「碧樹(へきじゅ)の昔でございます」
「お詰めもとは?」
「六日園でございます」
「お軸は?」
一斉に床の間のほうへ顔を向ける。文字を見て、ぎくりとした。
日日是好日
にちにちこれこうにち
「あ、わたしこの言葉知ってる」
「じゃあ、意味は分かる?」
「悪い日と思えば悪い日! いい日思とえばいい日!」
「そう! そのとおり」
タエ子先生は、大げさな拍手をする。
今日は散々な日だと思っていた。
そんな心を見すかされていた。
「……」
わたしが黙りこくっているので、先生ははぁ、とため息をはいた。これもまた、大げさだ。あきれられたのかもしれない。
「もういいわ。前を向いて、おしまいにしましょう」
今日がいい日なんて、思えない。ぼんやりとしながら、手だけを動かしていく。なかじまいをといて、茶碗が返ってくるのを待つ。中井さんが立ち上がった。
「ぼーっとしない、またお道具落とすわよ」
「すみません……」
お茶碗を取りこむ手が重い。柄杓、次は茶筅。ひとつひとつ頭のなかでつぎの手順を思い出さなければ、手が動いてくれない。
こんなことははじめてだった。ふだんは、頭で考えるより先に手が伸びる。水の中でお点前をしている気分だった。泳ぎかたがわからなくて、もがく魚の気持ち。一刻も早く、点前座(てまえざ)から降りたかった。
涙をこらえながら、拝見と受け答えを終え、やっと茶道口までたどり着いた。礼を終えて、ふすまをしめた。二度と、開けたくなかった。
廊下に出て、さっきしめた窓を開ける。
雪は本降りになっていた。もしかしたら、東京でも数センチ積もるかもしれない。電車や地下鉄が止まる前に帰りたい。
いつもなら、何時間でもこの茶室にいたいと思う。先生の指導をいくら受けてもまだ足りないと、なごりおしくなる。
でも、今日はそうじゃなかった。この場から逃げだしたかった。
「おはいんなさい。ごあいさつがまだよ」
帛紗を引きぬき、扇子を手にした。なまりのように重い腕を動かして、ふすまを開けた。
「ありがとう、ございました」
「今日は調子が悪かったわね」
「……すみません」
「まあ、そんなこともあるわ」
先生は深く言及せず、やっちゃんの割稽古の指導にもどった。
そのあと、綺羅さんや中井さんのお稽古の間も、虫の抜けがらのように、ぼおっとしていた。手に力が入らなかった。どうしてしまったのか、自分でもわからない。
「じゃあ、今日はこれにておしまいにしましょう。また来週、よろしくお願いします」
「ありがとうございました」
「それで、秋のお茶会のことですが」
顔をあげた。すぐそこにいる先生が、とても遠くに見えた。
「サチさんとやっちゃんに課題を出します。その結果で、どちらにお点前さんをおまかせするか、決めたいと思います」
「課題?」
「春までに自分なりの茶道を見つけて、発表してください」
自分なりの茶道。たったいま、わたしは失くしたばかりだ。やっちゃんと勝負するしない以前に、自分なりの茶道が見つけられる自信がない。
やっちゃんも無理難題を言われて、とまどっていることだろう。そう思って、目をやる。
やっちゃんは、むねの前で、拳をかためていた。やる気も、自信も十分にありそうだ。
「いますぐにでも、できますよ」
そんな。
目の前が真っ暗になった。
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