失敗

「お棗、服着ているんですね」

「あれはお棗じゃなくてお茶入れよ。お濃いのお抹茶を入れているときは、お仕服にいれておくの。やっちゃんがいう、お茶入れの服ね」

 長尾は、文字どおり長い尻尾のようなひもがついた仕服のことだ。

 わたしは長尾をぬがしていく。ヒモをといて、するりと引っぱる。右薬指と小指で持たせて、向きを変える。上と下と、仕服を広げて、茶入れを取りだす。大きいので、ゆっくり、慎重に置く。かたちを整えて、右手をつかって、くるくると巻き取っていく。

「うわ、何してんのかわかんねえ」

「綺羅さんもお免状取っているから、もうできますよ」

「いやあ、できる気がしないぜ」

 綺羅さんは、目を細めてわたしの手元に注目する。さっさと仕服を整えて、棚の上に置く。これで、やっとお茶入れを清めることができる。

 帯から帛紗をぬき取って、右手をなかに入れた。一度広げて、ゆるめてひっぱる。次の辺に移動して、右左右としわをのばす。次の辺はゆるめてひっぱる。それからちり打ち。帛紗をたたんでいく。

「あれは何をしているんですか?」

「四方さばきよ。お濃いをするときは、あれをするのよ。いずれ、やるから覚えてね」

「はい!」

「でもまず、お薄をマスターするところからね」

「はい!」

 先生は、やっちゃんにお点前をさせるかもしれない。手がふるえた。

「あ」

 思った時にはもう遅かった。老松の割蓋がつるりとすべって、畳にころがる。

その拍子に、なかに入っていたお抹茶も舞う。

 気づいた時には、ひざのまわりに緑色が散らばっていた。

 やっちゃんと綺羅さんはあたふたしている。先生と中井さんは立ち上がった。

「失礼しました」

 わたしは気にせずお点前をつづけようとしたが、先生に止められた。

「いいから、とりあえず玄関でお抹茶をはらってきなさい」

 中井さんは小さめの掃除機をを持ってきた。トラブル対応の早さは、経験がものを言う。わたしは抹茶を落とさないように着物のすそを持って立ち上がった。

 やっちゃんが心配そうにこちらを見ている。気付かないふりをして、着物をはたきに行く。お抹茶がついたときのコツは、ついた部分ではなく、そのまわりをたたくこと。なるべく生地のなかに入らないように気をつけなければならない。

「珍しいわね。そんな失敗するなんて」

「すみません」

 玄関でパンパンとしていると、先生が様子を見に来てくれた。すごくみじめな気分。こんなはずじゃなかったのに。今日はとことんついていない。

やっちゃんがあらわれてから、どうもうまく行かない。自分が卑劣で、つまらない人間に思えてしまう。きっと、茶道をやるにふさわしくない。

 玄関には、真っ赤な椿が備前焼の花入れに一輪はいっていた。開きすぎた侘助。わたしの失態を、椿にまで笑われている気がした。

「お点前、続ける?」

「もちろん、続けます。これが本番なら、あのまま続けていました」

「そうね、それが正解だわ。でも、今はお稽古ですから。準備ができたら戻ってらっしゃい」

 先生はやさしい目をして消えていく。一体、どういうつもりなのかしら。わたしにいじわるして、面白がっているのは先生のほうなのに。

 やっぱり、わたしが寒河江家の孫だから。そう思って、首を振った。中井さんも言うように、わたしが山本社中に入るまえから、おばあさまと先生の仲は悪かった。でも、わたしに対して先生は親切に教えてくださったし、夢も叶えさせてくれた。ありえない。

 お抹茶を十分にはらい落として、茶室にもどる。連子窓から、ちらちらと舞う雪が見える。雪のはかなさを人生になぞらえるなんて。くそくらえ。人生はそんなに美しいものじゃない。茶道をしているからって、心がきれいになるものじゃない。

窓をきっちりしめて、点前座に座りなおす。抹茶をぶちまけた畳はキレイに片付けられていて、さっきの失敗はなにもなかったことになっていた。それがいいのかわるいのか。

「できる?」

「できます。先ほどは、たいへん失礼いたしました」

 いいところを見せつけなければいけなかったのに。くやしなみだがこみ上げてきそうだ。

 しかし、ここで泣くわけにはいかない。ぐっとこらえて、お茶入れの割蓋をあける。お茶をはくときは、山脈のようにいれる。先生も中井さんも、お茶入れの中身まで気が回らなかったのか、中はぐちゃぐちゃのままだった。

 なかったことになんてできないんだ。なにがあろうと、その場でできる茶道は一回かぎり。二度と、おなじお点前はできない。

 唇をかみしめて、お抹茶をすくう。お薄は一杓半。お濃いは三杓。一般的なイメージのお抹茶はお薄だ。それよりも濃く、ねばりけがあるのがお濃い。スムージーとでもいえば、伝わるだろうか。

 茶杓をお茶碗の上に置いて、そっと蓋を閉めた。今度こそ、蓋がすべらないように最大限注意する。お茶入れを置いて、茶杓でお茶をさばいていく。練りやすくするためだ。

 お湯を少しだけ入れて、あとはひたすら練る作業だ。茶筅を手に取る。

 席についている四人はみんな手を止めて、こちらを見つめていた。シンと、茶室に張りつめた空気が流れていた。

心を無にして、うでだけを動かしていく。手首は固定させるイメージで、動かさない。水と粉末のお茶が、しだいに混ざりあい、なめらかな表面になる。照明の光が反射しだしたら、手を止める。お湯を追加して茶筅についた抹茶をさっと取る。しあげに、『の』の字をかけば、おしまいだ。

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