第3話 人間ならいいけど

 門を出て駿豆半島の海辺の集落によく見られるなまこ壁の土塀沿いに石畳の道を江洲楓は歩いていく。

 明治から昭和初期まで見られた外壁の工法の一つなまこ壁は、平瓦を貼り付けてその目地に漆喰をなまこのように盛り上げて仕上げていく。

 火事の延焼を防ぐなど防火の役割をするとともに保温や保湿性も高く、実用と装飾の合致した独特の景観美を成す。


 久繰里家はその広さ立派さから御屋敷と呼ぶのにふさわしいが、観光施設ではなく生活が営まれている住まいである。それにも関わらず風情ある佇まいは、そこを背景にして着物や袴に編み上げブーツの女学生スタイルの若い女性たちが休日には散見されるという。


「ここを料亭か何かと間違われる方もいらして、女将さんも一緒に写ってください、なんて言われることもあるのですよ」と、茶飲み話で久繰里あまねは笑っていた。

 そういう時は本当に気さくな当たりのやわらかな人だった。久繰里あかりのことがなかったら、感じのいい方だな、で済んでいたことであろう。


 「先生」発言に見えた揶揄めいた表情も、一般的な反応の範囲ではあった。中にいると所属している場所への批判に過剰反応していしまうのかもしれないと江洲楓は思っていた。それは学校以外のどの職場でもそういうものなのだと友人たちと話したこともあった。


 ゆっくりと歩いているとはいえ、なまこ壁と石畳の道はなかなか途切れなかった。 

 地元の素封家だけあって敷地も広い。聞いた話では枇杷畑を有するこの山一つが久繰里家のものだという。


 駿豆湾に面した半島の西側は電車が通っておらず訪れるには山道を車か船を使うことになる。カーブの多い山道は観光道路として整備はされているがスピードを出す自動車も多く慣れていいないと危ない。


 船は夏場は本数が増えるが海水浴客でいっぱいで時間も限られる。それらを鑑みて今回は路線バスを使ってここに来た。週末であれば運転の得意な竹園灰が車を出してくれたのだが。


 今回の訪問について、先方、久繰里家が指定してきたのは月曜の午後だった。月曜は夏場の観光繁忙期でも比較的時間がとれるとのことだった。


 あの夜の出来事は、未だ江洲楓の胸にわだかまったままだった。

 まだ何も解決していないのだ。

 尋ねてきた卒業生久繰里あかりから渡されたカラス玉の謎、彼女の幼馴染み「おねえちゃん」こと信川美理愛の行方、携帯に送られてくるメッセージ、そして、久繰里あかりの変化。

 江洲楓はここに至るまでのことを思い返した。





「いします」


 江洲楓の腕の中で久繰里あかりの口から漏れたのは、携帯に送られてきたメールの一文だった。

 いします――癒します――委します……

 言葉に出さずに反芻しながら江洲楓は自分を落ち着かせようとした。


「がいします――害します、でなかったから、大丈夫。おびえるな、怖くない、落ち着いて」


 でも。


 癒すのは誰。

 誰を癒すの。

 委ねるのは誰。

 誰に委ねるの。

 何を委ねるの。

 何を委ねられるの。


「人間ならいいけど」


 そう漏らして、江洲楓は思わず自分の口を両手で覆っていた。

 彼女に寄りかかるようにして手で支えられていた久繰里あかりは、ずるずるとすべり落ちていった。

 そして、ごろり、と床に横たわった。


「あ、ごめんなさい、痛かったよね」


 混乱した江洲楓がもう一度久繰里あかりを抱きかかえようとした時だった。

 竹園灰がようやく駆けつけてきた。


「外で音がしたので見まわってきた。サンルームの入口が開いてたから中も確認したけれど」


 そう言うと江洲楓のそばに倒れている久繰里あかりに気づき跪いて抱き起こした。


「客室に運んで休ませよう。それから、保護者、というか、成人してるから一人暮らしかな、同居人がいたら心配してると思うから、とにかく連絡をした方がいいと思う」


 腕の中でぐったりしている久繰里あかりをなんとか客室のベッドに寝かせると、夜中ではあるがとにかく心当たりに連絡をとることにした。

 久繰里あかりの実家は江沼市街地ではなく、駿豆湾沿いの港町の一つにあった。江沼市の一番南寄りになる。そこから路線バスで通ってきていた。


 短大入学とともに家を出て下宿してそのまま就職していたはずだった。本人は四年制大学を希望していたが家から了承を得られなかったのだ。

 本来であれば高校を卒業したらすぐに家業を手伝いながら結婚するまで所謂花嫁修業をして過ごすのが久繰里家のならわしだと言っていた。

 しかしさすがにそれでは時代錯誤だろうということになった。社会を見るのも将来の家の経営に役立つだろうからと、江沼市の中心部に住んでいる遠縁の伯父が、後見人を務めるからと母親を説得してくれたのだそうだ。

 久繰里家は代々娘が跡をとることになっているそうで、母親の決め事は絶対だったが、その時は渋々ながら許してくれたのだそうだ。

 普段は久繰里家のことには何一つ口出しをしない折り目正しい伯父だったが、その時だけは、あかりのために粘り強く母親を説得してくれたのだそうだ。


 久繰里あかりが短大に進んで家を出た年の夏に、伯父は熱中症で亡くなったとのことだった。男手が必要な久繰里家の手伝いで町主催の夏祭りの準備で炎天下を走り回っている中突然倒れてそのまま亡くなったのだった。


 頼りにしていた伯父の突然の死は相当こたえたらしく、その時の憔悴しきった母親を見て、久繰里あかりは短大をやめて家にもどってこようと思ったそうだ。

 ただ、その時行儀見習いに来ていた遠縁の娘さんが、伯父は久繰里あかりが短大で何かしらの資格を得てそのまま家を離れて欲しがっていたと聞かされたのだった。


 理由はわからないが、そういえば、ものごころついた頃から、折にふれ家を訪れてきた伯父が読んでくれる本、すすめてくれる本は、いつも、冒険や旅に出る物語だった。

 因習に絡めとられて身動きのできないこの町から出て、広い世界に出て欲しいという願いがこめられていたのかもしれない。そうした話のできぬまま、頼りにしていた伯父はこの世を去ってしまったのだ。


 久繰里あかりから家の事情を聞いたのは、卒業後進学先で必要な書類を取りに学校に来た時だった。その時は旧習はまだまだ残っているのだなと心に留めただけだった。

 その時のこと思い起こしながら、そういえば短大卒業後転職を経ての今どこに住んでいるのかは今回の再会では話に出なかった。やりとりはメールと携帯電話だけなので、家の電話番号はわからない。非常時とはいえ勝手に持ち物を探るのはためらわれた。


「楓、来て、目がさめたみたい」


 竹園灰の声に江洲楓は駆け寄った。


「あかりさん、大丈夫」

「は、い、あの、お水を、いただけますか」


 まだぼーっとしているようだが声のトーンは平静だった。

 気泡入りの琉球ガラスのコップにミネラル水を注いで渡すと、久繰里あかりはのどを鳴らしてひと息に飲んでしまった。

 

「すみません、もう一杯お願いします」


 そうして久繰里あかりはおよそ1リットルの水を飲み干してしまった。

 ようやく落ち着いきを取り戻して、ベッドから降り立った。


「ありがとうございました。帰ります」

「帰りますって、終バスはないのよ。朝までここで休んでいって。連絡を入れるから家の電話番号を教えてもらっていいかな」

「家……」


 久繰里あかりの顔から血の気が引いていった。


「家には、おねえちゃんが、いる……帰れない」

「おねえちゃんさん、信川美理愛さんが家にいるって、どういうこと、行方不明だと言っていたと思うんだけれど」

「わからない。カラ、ス、玉を取り返しに来た。でも、江洲先生に預けたから、お願いしたから安心したから、江洲先生にお任せしたから、知らない、と答えたら、返してもらってこなければ、ん、んん、と言われて」

「ん、んん? 」


 久繰里あかりが口ごもったわけは、なんとなく察しがついた。

 彼女の妄想だとしても、その時の彼女には「おねえちゃん」が見えていたのだろう。それが本物なのか幻なのか幽霊なのか妖魔なのか、見てない自分には判断できない。


 結局、彼女の実家に夜分恐れ入りますと連絡をいれ、一晩泊めた。朝、寝起きに500ccほどの水を飲み干してから、一人で大丈夫ですと昨夜とはうって変わってしっかりとした様子の久繰里あかりは、日が出る前の始発バスに乗って帰っていった。

 髪の色は若干緑が薄まったようだった。その後十日ほど経った頃に手紙が届いた。「おねえちゃん」は今度は猫撫で声でカラス玉のありかを尋ね続けているという。そして、お話したいことがあるので、申しわけないけれど家に来てもらえないかとしめくくられていた。


「どう思う」

 江洲楓の声には何とかしなければという過剰な責任感がにじんでいる。

「かなりまいってるんじゃないかな、精神的に」

 竹園灰は、深入りは禁物とばかりに素っ気なく答えた。

「それは、まいるよね、わけがわからないままにつきまとわれてる」

 腕を交差させて自分の肩を抱くようにして、江洲楓は身震いした。

「ただ、その相手が本当に存在しているのかどうかはわからないんだよね」

 事実確認をするように竹園灰は言った。

「今のところ、彼女の話だけがそのおねえちゃんさんの存在の根拠」

 小さなため息が漏れる。

「あと、それ、そのカラス玉。ウランガラスの。それとカラス玉を入れてある宝石型のカプセルの素材も奇妙。生体の何かのような。薄気味悪い」

 観察眼を働かせて、竹園灰は言った。

「おねえちゃんさんの宝ものを薄気味悪いなんて言って、呪われるかもよ」

 呪われるなどという非現実的な言葉が出てくるようじゃ、危ないことをしかねない。竹園灰は、彼女の両肩に手を載せると、軽くゆさぶった。

「存在があやふやなものの呪いなんて、たいしたことない」

 江洲楓は、そんなことはわかってるとばかりに竹園灰の手をはらった。

「もう、知らないからね」


 真反対のことを言いながらも二人は久繰里あかりのその後のことが気にかかっていた。そこで、招待に応じることにしたのだった。




 思い出しながら歩いてなまこ壁が途切れた所まできたところで着信があった。

 竹園灰からだった。

 月曜は勤務先の図書館が休館日だが職員は館内整備で出ていたりする。

 本格的に忙しくなる夏休みに入る前に、一日だけ有休がとれたのでこれからこちらに向かっているとのメッセージ。


「帰りの足は確保できた」


 路線バスの最終は早いので、今日は何の収穫もないままかと思っていたので安心した。

 江沼市街地からこの町まではバスで1時間はかかる。毎日ここから往復していたのかと思うと、三年間ほぼ皆勤に近かった久繰里あかりの真面目さに感心する。

 そういえば彼女は、図書室で通学時間の話題になった時にこう言っていた。

「バスの時間は読書時間なんです、だからちっともつらくないんです」と。

 確かに本好きにとっては、じっと座っていられる通学時間は、貴重な読書時間になる。毎日確保できる読書時間は夢のように違いない。確実に座れるとなれば厚くて重いハードカバーの本を通学時間で読破することもできる。


「お待たせ」


 と、目の前に枇杷色のソフトクリームが差し出された。

 まださほど時間が経ってはいないのかつのがピンと立っている。

 差し出したのは竹園灰だった。


「ありがと」


 江洲楓は笑顔を見せてソフトクリームを受け取った。

 ソフトクリームは口の中で甘くてひんやりとけていく。

 竹園灰の顔とソフトクリームで緊張がほどけていく。

 ソフトクリームがのどを通って胃に落ちる頃に、ぶわっと汗が噴き出した。

 冷されたはずなのに、緊張感の反動なのだろうか。

 午後の陽射しが照りつけたら今度は噴き出た汗が急速に冷えていく。

 脳の反応が、感覚がおかしくなってしまったようだ。

 眩暈にふらつく。


「彼女には会えた」


 大丈夫ときいてくる代わりに日傘を竹園灰はさしかけた。

 日陰になってふらつきは止まった。


「会えなかった。会いたくないって」

「ほんとに」

「それはわからないけれど。親からそう言われたら無理にとは言えないもの」


 江洲楓はくちびるをかみしめた。


「でも、このままでは帰れない」

 竹園灰もうなずく。

「集会所で古文書講読会の寄合がある。久繰里あまねさんは、そこで司会をすることになっている」

「さすが、どこで聞いたの」

「あそこ」


 指差した先にはガラス張りの箱型の掲示板が立っていた。

 中には町内のお知らせが掲示されている。

 昔ながらの紙に筆描いたものとプリントしたものが混ざっている。古文書講読会のお知らせは筆書きだった。


「ほんとだ。開催日は今日で午後7時から、場所は中央集会所。議題は、夏休みの蔵の一般公開の日程と、案内役の当番の割り振りについて。司会は久繰里あまね氏」

「奥様から頼まれたので持っていって欲しいものがあると行儀見習いさんを外に連れ出すから、その間にあかりさんの部屋へ入って一目どんな様子かだけ見てきて」

「わかった」

「時間はあまり稼げないから、とりあえず、そこにいるのがあかりさんかだけでも確認して」

「人けがなかったから、多分、いけると思う」

「父親は役場勤めだったと思うけど」

「里帰りだったか研修旅行だったかでいないと言ってた」

「では、今夜を逃すわけにいかない」


 二人は細かく打ち合わせをした。


「時間まで、何もしないでいるのは不自然だから、観光しよう」

「観光……」


 不服そうだったが竹園灰はしぶしぶ差し出されたチケットを受け取った。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る