温かいもの食べてから

君塚つみき

1

常木つねきさんってなんでうちに入社したんですか?」

 職場で昼休憩を取っていた常木つねき藍花あいかは、昼食を共にしていた若手の後輩社員、布滝ぬのたき美鳥みどりにそうかれた。

「お、布滝さんにもこの話をする時が来たか」

 藍花は箸を止め、感慨深げに目を細める。

 美鳥とは今担当している案件で初めて顔を合わせた浅い仲で、こういった踏み入った話はあまりしたことがなかった。

「ちょっと長い話だけどいい?」

「はい、聴きたいです!」

「おっけー」

 お茶で喉を湿らせた藍花は、過去に何度も披露している身の上話を始める。

「布滝さんが生まれる前の話なんだけど」

 今から二十六年前。

 藍花がまだ小学生だった頃。

「私、赤いきつねに助けられたことがあるの」



 一九九五年。一月一七日。

 藍花が住む神戸は、かつてない大地震に襲われた。

 至るところで建物が倒壊し、火災が発生した。交通網は完全に麻痺し、電気・水道・ガス等のライフラインはほとんど全滅。戦後から高度経済成長期にかけて隆盛を誇った神戸の街は、瓦礫と黒煙に覆われ地獄と化した。

 一連の震災による死傷者も多数に上り、その中には藍花の家族もいた。

 藍花の両親と姉は、地震で全壊した家の下敷きになって命を落とした。損壊が少なかった部屋にいた藍花だけが、死に至ることなく軽傷で済んだ。

 そうして奇跡的に生き残り、ご近所の友人家族に連れられて学校に避難して三日目。

 藍花の心はボロボロになっていた。



 避難所の体育館に広がる非日常を、藍花はうつろな目で眺めていた。

 館内を埋め尽くす、人、人、人。床に布団やビニールシートを敷き、毛布や防寒着にくるまって身を寄せ合う彼らは、一様に暗い顔をしている。

 皆、避難生活に疲れていた。

 頻発する余震で気が休まらず。

 厳しい寒さに気力と体力を奪われ。

 そして――

 きゅるるる、と情けない音が鳴った。

 藍花は音の出所を一瞥いちべつする。

「やだもう、恥ずかしい。ごめんね」

 藍花の友人、赤根あかね伊月いつきがお腹を押さえて顔を赤らめた。

 ――そして、空腹。

 避難所での食事はとても充分とは言えなかった。食べ物は味気あじけない乾パンのみ。それも備蓄に余裕がなく、少量を避難者全員で分け合っている状況だ。食べ盛りの小学生の腹の虫が正午を前にを上げるのも無理はない。

 藍花はそばにあった銀色の包みを伊月に差し出す。

「これ、食べていいよ」

 それは藍花に配られた乾パンだった。藍花は食欲がなくて昨日から何も食べておらず、乾パンを余らせていた。

 一瞬物欲しげな目をした伊月は、しかし藍花の手をそっと押し戻して言った。

「それは藍花ちゃんの分だから。食べたくなったときのためにちゃんと持ってて」

「そう」

 藍花が乾パンを掴む手をだらりと床に下ろした、そのとき。

「みなさん聞いてください!」

 避難所を運営する市職員の男性が、体育館入り口に現れて声を張り上げる。

即席麺そくせきめんの食糧支援が届きました! これから校庭で配給するので、ほしい方はお集まりください!」

 途端、館内が歓喜でどよめく。

 それは避難所に初めて舞い込んだ明るいニュースだった。粗食そしょく続きで腹を空かせた人々が次々と立ち上がる。

 伊月も声を弾ませていた。

「藍花ちゃん聞いた? 私たちも行かない?」

 だが藍花は力なく首を振るだけだった。

「そう。気が変わったら来てね」

 伊月は気遣きづかわしそうにしながら、藍花を残して配給所に向かっていった。

 ぞろぞろと人が出ていって、館内は急にがらんとなる。残っているのは足腰が弱いお年寄りや怪我人くらいだ。

 周りに人がいなくなってから少し経って。

 独り膝を抱えて座る藍花の前に、人影が差す。

「こんにちは、お嬢ちゃん」

 人当たりの良い笑みを浮かべた狐目の優男が、藍花に声を掛けてきた。長めの茶髪が若者らしさを醸しているが、どこか大人びた雰囲気もあって年齢不詳な人物だ。

「……誰?」

「僕は金井かねい篤樹あつき。ここに食べもん届けに来たんや」

 男はそう名乗り、着ている青いジャンパーの二の腕部分を見せてくる。そこには即席麺で有名な大手食品会社のロゴが描かれていた。先ほど市職員が周知していた食糧支援というのは、この男が運んできたものなのだろう。

「あっちでカップ麺配っとるから、君も行きな」

「私はいいです」

「なんで? お腹空いとるやろ」

「食べたくないんです」

「せやからなんで?」

「言いたくありません」

「そう言わんと教えてや。な?」

 何のつもりか金井はしつこく理由を訊ねてくる。

 なぜ何も食べたがらないのか。伊月にも話していないその本当の訳を、藍花は何故かこの男に話す気になった。


「死にたいんです」


 幽鬼じみた形相で、藍花は吐露とろした。

「家族がみんな死んだんです。私だけ残して。一人だけ生きててもつらいから、みんなのところに行きたいんです。何も食べなければいつか死ねます。だから私はもう何も食べません」

 訥々とつとつと語る藍花は仄暗ほのぐらい目をしていた。そこに激しい情動はない。涙は家族が埋まった家の前で流し尽くした。今残っているのはただ死を待ち望む、乾き冷え切った心のみだ。

 家族を奪われた藍花の沈痛な言葉を黙って聴いていた金井はそのとき、藍花の足下に転がる銀色の包みに気付いた。

「乾パンって正直あんまり美味うまないよな。こんなんばっか食べてたら気が滅入めいるわ」

 そう言って金井は乾パンをひょいと取り上げる。

 脈絡のない言動に藍花が怪訝けげんな顔をする中、金井はジャンパーを脱ぎ、それで乾パンを覆い隠した。

「よう見ててや。いち、にの、さん!」

 三つ数えた金井は、乾パンに被せていたジャンパーを取り去る。すると。

「え?」

 乾パンを持っていたはずの金井の手に、覚えのないものがあった。

 てのひらほどの大きさをしたお椀型の容器。

 赤色を基調としたデザインのパッケージ。

 フタに描かれた黄色のマルちゃんマーク。

 そう。日本人なら誰もが知るカップうどん、赤いきつねである。

 不思議がる藍花の前で、金井は容器のビニール包装を取りフタを半分がした。そして粉末スープを器の中に開けてフタを閉じ、上から手をかざす。

「いち、にの、さん!」

 再びの掛け声の後、金井がフタを剥がすと、藍花はいよいよ驚きで目を丸くした。

 器からもうもうと湯気が立つ。さっきまでお湯すらなかったのに、ほんの数秒できつねうどんが完成していた。

「さらにおまけ」

 金井が器の上で掌をサッとはためかせると、黄金色のお揚げが一枚から二枚に増える。

「金井さんはマジシャンなんですか?」

「いんや、ただのサラリーマンや」

 奇術じみた調理を披露した金井は飄々と答えた。

「さ、お食べ」

 どこからか割り箸まで取り出した金井が、出来上がった赤いきつねを藍花に差し出す。

「いや私は……」

 死にたいから食べなくていい。そう断ろうとした藍花だったが。


 きゅううぅ、と。

 お腹が鳴いた。


 器から立ち上るだしの香りが、藍花の胃袋へ強烈に訴えかける。口の中に唾が湧く。

 なぜだろう。

 心は死にたがっているのに。

 身体からだが生きたがっている。

 乖離かいりする心身に葛藤する藍花は逡巡しゅんじゅんの末、おずおずと赤いきつねを受け取った。

 そして、麺を一口、すする。

 途端、目の色が変わった。藍花はつるりとした温かい麺を、ほとんど嚙まずに呑み込む。

 すかさず二口目を啜る。今度は麺のコシを味わいながら。

 続いてお揚げに箸を伸ばす。厚みがあってふんわりしたお揚げは、噛めば噛むほど甘味が沁み出してくる。

 器に口を付けてつゆを飲む。鰹節と煮干しの旨味が口の中に広がり、飲み込んだつゆの熱さが冷えた身体に沁み渡っていく。

 夢中で食べる藍花の目から、いつしか大粒の涙が流れていた。枯れ果てていたはずの感情が止めどなくあふれる。

「人間、お腹かせとると悪いことばっか考えてまうねん」

 優しい眼差しで藍花の食べっぷりを見守る金井は言う。

「家族に死なれて自分も死にたなる気持ちはよう分かる。でも、温かくて美味いモンしっかり食べたら、気ぃ変わるかもしれんで」

 金井が問う。

「どうや、まだ死にたいか?」

「っ、分かりません……!」

「そうか。今はそれでええ」

 ぐしゃぐしゃにした顔で嗚咽おえつ交じりに答えた藍花に、金井は満足そうに微笑む。

 自分が死にたいのかどうか、藍花は分からなくなっていた。温かい何かが、胸に巣食っていた死への願望を溶かし始めている。

 やがて器の中身を平らげた藍花は、残っていた乾パンを金井に差し出した。

「すみません、もう一杯ください」

 金井は呵々かかと笑い、再び青いジャンパーをひるがえしたのであった。



「――そうして生きる気力を取り戻した私は現在、赤いきつねに恩返しするためにこの会社で働いているのでした。おしまい!」

「めっちゃいい話じゃないですか!」

 藍花が赤いきつねの製造元――東洋水産とうようすいさん株式会社に入社した経緯に、美鳥は目を潤ませて感嘆する。

 あの日死ぬのをやめた藍花はその後、神奈川に住んでいた叔父夫婦に引き取られて健やかに育った。大人になって就職し、結婚して子供もできて、今は幸せな人生を送っている。

「そうだ。入社後、金井さんには会えたんですか?」

「ふふ。それ訊いちゃうか」

 美鳥から予想通りの質問をされて、藍花は苦笑した。

 この話には、実はまだ続きがある。

「それがね、金井さんとはあの日を最後に会ってないの。入社してすぐに社内を探したけど、彼は見つからなかった。それどころか」

 藍花は信じがたいことを口にした。


「金井篤樹なんて人、これまで一度もこの会社にいなかったそうよ」


「え? それって」

 美鳥の顔に困惑が浮かぶ。それは、人事部に問い合わせて『そんな名の社員がいた記録はない』と返されたときの藍花と同じ顔だった。

 そう、まるで。

 きつねにつままれたよう。

 その反応を面白がりながら、藍花は話をくくった。

「金井さんが何者だったのかは分からない。でも私が赤いきつねに助けられたのは本当よ。あの日のあの味は、一生忘れないわ」



 今日も藍花は赤いきつねを食べる。

 香り高いつゆが絡む温かい麺を啜ると、いつも思わず笑みがこぼれる。

 そしてそのたびに。


 考え直してよかったやろ? 


 と笑う、狐目の男の顔が思い浮かぶのであった。

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温かいもの食べてから 君塚つみき @Tsumiki_Kimitsuka

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