6.夜叉の将

 金剛なる漆黒の胸甲の上に、羽のごとくに柔らかな半透明の天衣と鮮やかな虎の毛皮を巻き付け、厚手の裙で腰を覆い、煌びやかな瓔珞ようらくで偉丈夫たる首元に色彩を添える。一束にまとめられて左胸に垂るる長髪が、今日こんにちは大雑把な三つ編みにされて爽やかな山風になびいていた。武神にしてはふさわしくなく寛雅たる佇まいに身を飾って、かの鬼大将は毛並み輝く大虎にまたがる。

 将軍のあとに続く夜叉の眷属たちも、武器を仕舞い込んで敵意示さぬ出立ちに、魅惑の芳香を醸し出していた。


「浄土に入る前に、鎧だけは脱いでもらいますので」


 夜叉衆の案内者として、先頭を徒歩で進む伊舎那天いしゃなてんは、背後を振り返って指示をする。

 その先、逆光に黒々しく影となった武神からは、精悍みなぎる鋭利な赤瞳だけが送られてきた。

 この眼の光線に思わず怯む伊舎那天は、必要事項を述べただけにも関わらず、要らぬ罪意識を抱く。


「久方ぶりの再会だというのに、そうも改まられては、こちとら身構えてしまうぞ」


 やがて、武神のほうから声がかかった。鶴声の重々しさに、伊舎那天は一瞬、まるで地震にでも見舞われたかのように背筋を震わせて言い返す。


「あなたは、昔っからおっかないおヒトだ。本当に泣く子も黙るつらをしておられる。毘沙門殿を好いた吉祥きっしょうさまの気が知れんわ」

「そんなにか?けっこう、気さくにやってるつもりなんだがな」


 射抜く眼光はそのまま、武神の目がかすかに笑った。講ずる兵法に一切の情けはないというが、確かに愛想は良い男だ。

 伊舎那天は、やるせなく息をつくと、力む肩を楽に落として話題を変える。


「毘沙門殿、これからどうなさるおつもりか?シヴァさまの結界リンガを破ってまで、仏門に入るとでも申すのか」

「まぁな、今のところは別にどちらの門をくぐるというわけではないが、そのうち。そう言うおまえこそ、婆羅門側につかずに仏界にとどまるとは意外だ」

「どうせ向こうに行ったとて、ヴェーダの時みたくあつい観念イーシュワラを取り戻せるわけでもないからな。ならばここで、真に解脱を目指すほうがよほど利口ってものさ」


 やがて、天界へと続く雲の坂は、須弥山中腹の山道に差し掛かるところで途切れた。一行はようやく、地に足をつける。


「案内は、ここまでです。この道を真っ直ぐ登った先、浄土の入り口に梵天さまが待っておられるゆえ、そこで合流するように」


 役目を果たした伊舎那天は、武神にそう教えると、そそくさと立ち去ろうと踵を返す。その背に向かって、武神は小さく頭を下げた。


「ご苦労」


 この時になってようやく真横から差す日光が、黒い影に鮮やかな色を添える。

 照らし出された眉目秀麗たるその横顔に、穏やかな微笑を湛える毘沙門天であった。 





          ✴︎✴︎


 須弥山より遠く離れて、西方四十二恒河沙さいほうよんじゅうにごうがしゃ仏国土ぶっこくどの彼方に、無勝荘厳むしょうしょうごんと呼ばれる浄土じょうどがあった。

 大地には色彩豊かな蓮華が咲き乱れ、空には常に金銀眩い宝珠が舞っている。輝く清浄な世界の中心には小高い丘があり、そこに巨大な菩提樹ぼだいじゅが枝葉を広げている。釈迦如来は、いつもその根元に坐していた。


 人界に降りていた地蔵菩薩と帝釈天が帰山の最中であったその日、この仏は、普賢ふげん菩薩と文殊菩薩を両脇に据え、阿難あなん目連もくれんを始めとする千人の弟子たちを集めた上、親睦会がてら法を説いた。

 その後わけあって、婆羅門界から梵天を一時呼び寄せたのだが、それに際して孫も連れてくるよう指示を出す。


 梵天の孫、すなわち毘沙門天である。


「只今」


 まもなく、梵天は自身の孫を引き連れ、釈迦如来の目の前に現れた。そして二神とも合掌をし深々と頭を下げて挨拶をするのだが、梵天の顔にだけは緊迫の相が浮かんでいた。


「我が孫までお呼びになるとは。いかがなされましたか」


 近頃、護法神でもない毘沙門天がしばしば仏界に出入りしている様子を知る梵天、こうして孫共々にお招きの号令がかかる事態は初めてであった。梵天は、どこか苛立たしげにそう問う。

 しかし釈迦如来は、梵天のその問いには直接的解答を示さなかった。


「訶梨帝母の件は、落着した。ここに住み、仏法守護の役を務めることとなった。もう誰の命をも害されることはない、安心なされよ。梵天、彼女を化楽けらくの天域へ案内しなさい」


 釈迦如来の口で綴られし内容は、一人の異教神による仏法帰依とこれに伴う手続きであった。

 この事実を耳にして驚愕するは梵天、「まさか」とでも言うように目を見開き、恐る恐る愛しき孫の顔をうかがう。隣りの毘沙門天は、これといって顔色を変えることもなく、さも当然のように釈迦如来に再び深く辞儀をした。


「ありがとうございました。感謝いたします」


 訶梨帝母の三宝帰依が、毘沙門天と釈迦如来との間で遂げられた祈願成就であったことを悟る梵天、仏の解散合図を受けてもしばし身を硬直させていた。


 それからは、毘沙門天の妃である吉祥天きっしょうてんとともに緊那羅衆が招集され、釈迦如来へ捧げる祈りの法要が執り行われた。緊那羅衆の奏でる音楽に合わせ、花吹雪の中に吉祥天が美しい舞を披露する。

 この様子を聞きつけた天の神々が、次々にやって来て集まり、やがて賑やかな酒盛が開かれるに至った。


 ところがその樽俎そんそのさなかであるにも関わらず、梵天は孫が愉楽の空間へ入るのを一寸たりとも許さなかった。

 周囲の騒がしさに紛れて梵天は、毘沙門天を人気ひとけの少ない岩の影へと連れ出す。


「おまえ、どういうつもりだ。訶梨帝母の処分はどうした!今やおまえも我が手を離れるところだが、それだけは頼むとめいを与えておったではないか!これは、どういうことだ……」


 梵天は小声で、毘沙門天に想定外の状況のわけを問いただした。一方、毘沙門天は見事なまでの白々しい笑みをたたえるものの、その瞳はまさしく獲物狙いし虎のごとくに鋭く梵天を睨んでいた。


「処分?ああ、処分ね。処分とはひょっとして、打ち首のことでございましたか?これはこれは、うっかり……」

「おまえ……!わざとであろうが!」

「ええ?なんと?制裁よりも救済のほうがにかなっていると思いましてのこと」

「いやいや!これ以上須弥山に要らぬ勢力をつけるなと言ったつもりだったのだが!」


 神威シャクティあらたかなる毘沙門天が近頃、さとりの法門に魅了されつつあることを梵天は知っていた。せっかく婆羅門宗との習合を掛け合えるほどに弱らせた仏法の勢力も、まさかの夜叉一族による帰依次第では、再興の糧とするには十分なその神威シャクティすべてを手に入れてしまいかねない。ゆえに梵天は、虎の存在が世に知れるのを、もとよりあまり好ましく思っていなかったのだ。

 梵天が、地団駄を踏む。なおも動じぬ毘沙門天、靦然てんぜんたる言動にせせら笑いまで上乗せした。


「それでは本心を申し上げますと。別に、斬っておいても良うございましたよ、本当は。けれどもなんせ、あの女神の夫二人のうち一人は、我々の大事な国交相手の龍王義父ですからね。関係が絶たれてしまってはいささか困るので、いたしかたなく」


 夜叉たる訶梨帝母の脅威を恐れての処分を計った梵天、そこには夜叉女へかける憐憫れんびんさえ一切無い。かたや毘沙門天は営利目的の商売品の確保を目論んでの処分を実行し、自ら鬼の成仏を手伝っておきながら慈悲とはほど遠い本心を隠していた。

 歯軋りの止まらぬ梵天に向かって、歯にきぬ着せぬ言い回しで毘沙門天は迫る。


「で、訶梨帝母義母のもう一人の旦那を、祖父君の下命でヴィシュヌが殺した。手元の死を見た彼女が瘋癲ふうてんを起こし、今に野蛮化するきっかけをそちらが作っておいて。対処もままならずわたくしに助けを乞うとは、笑止千万ですな」


 とどめのやいばに、毘沙門天は梵天の過失を掘り起こした。

 そこまで責められれば、梵天の怒気もいよいよ頂点に達する。


「おのれ毘沙門、おまえも消されたいか!おまえのために一つ忠告しておく。これ以上、仏界に足を踏み入れるな。おまえは、婆羅門の神だぞ!」

「祖父君。あまり鳴かぬほうがようございますよ、嘆かわしい」


 対抗する毘沙門天、鋼鉄なる精神を相手にそう簡単には崩させない。


 するとそこへ、一踊ひとおどり終えた吉祥天が、姿の見えない夫を探し求めてついに岩影に現れる。

 ころも一枚も纏わぬ全身を色彩豊かな花飾りで包み上げたたたずまいは、何とも妖艶で麗しい。しかしてその馥郁ふくいくとは裏腹に、一笑も浮かべぬ奥二重おくぶたえの眼差しは氷のごとくに冷ややかで、これまた奸悪男かんあくおとこも黙る美しさであった。


 吉祥天が邪魔者を焼き焦がす勢いで睨みつければ、すぐさま怖気付く梵天は両拳を握りしめながらも渋々と引き下がる。

 それを見届けると吉祥天は満悦したかのように嬌笑きょうしょうを漏らしつつ夫の広い肩に手を添え、日向ひなたへ出るよう促した。毘沙門天も妻の助け舟に甘えてなされるがままになり、梵天に背を向けると吉祥天の腰に腕を回しながら岩裏を去って行くのであった。


 そうして以降、ようやく酒盛にありつけた夫婦は、微酔集団に手厚く歓迎される。毘沙門天は吉祥天の近辺に群がる男神たちをせっせと追い払い、妻を腕の中に包み込んで独り占めを楽しむのだった。

 



 一方取り残された梵天は、夜叉のもてなされる宴の景色を、苦渋に満ちる表情でしばらく眺めていた。

 その時、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。


「ふぅん、そういうことか。すっかり婆羅門神ブラフマーらしくなったな、梵天。そりゃあ、孫に改宗されたくはなかったろう」


 梵天が見上げれば、岩のいただきには帰山したばかりの帝釈天がいつのまにか腰掛けていた。投げられた言葉から察するに、帝釈天は梵天と毘沙門天の言い合っていた一部始終を覗いていたようである。


「残念だが、虎は私がもらうぞ。差し支えあるまい」


 帝釈天が、須弥山と夜叉一族との関与を強制する。もはや後退せざるをえなくなった梵天は、歯を食いしばって露骨に悔しがるも、最後には帝釈天の得意顔を見て折れた。


「……私はこれより訶梨帝母を化楽院へ送り次第、マンダラ山へ帰るが。十日後には兜率院の護法当番を受けておるゆえ、またここへ戻ってくる。虎を引き入れた結果を、その時にしかと報告してもらうぞ」

「ああ、必ず」


 続いて梵天は、帝釈天と約束を交わすと、早速任務に取りかかるため岩裏を離れて行くのであった。


 ちなみに帝釈天はこのあと、瑠璃光るりこうという浄土へ向けて馬を走らせる——。

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