5.希望を求めて

「私がおまえの味方でいられるのも、今のうちだぞ……」


 耳朶みみたぶにかかる温かい吐息のむず痒さに寒気を覚えた帝釈天、梵天を払いのけてつと立ち上がる。そして、友の三面を鋭く見下ろし声を荒げた。


「何が習合の賛同を得て来ただと!汝ら明らかに、我々仏法を捕食消化するつもりであろうが。裏切り者が……!」

「人聞きの悪い、私は違うと言うておろうに!」

「いいか梵天、須弥山は渡さぬぞ!」


 対する梵天も、帝釈天を見上げて抗う。二神の唐突なる喧嘩劇に、少しずつまどろみ始めていた堂内がにわかに騒然となった。

 帝釈天は一度周囲を見渡して冷める空気を感じ取ると、これが耐えがたかったのかいきなり梵天の腕を掴み上げ、外へと引きずり出していくのであった。



 さて、敷居しいきを越えた先で梵天を投げ捨てた帝釈天は、カビむす石段に腰掛けて垂髻すいけい形に結われし癖毛を力任せにほどく。それから一つ大きく息を吐いて殺気を鎮めると、背後で裳裾もすそをはたきながら起き上がる梵天にみすぼらしい声を出した。


「……疲れた。それだけ」

「別に、何とも思っておらぬ」


 即座に、梵天から答えが返ってくる。日頃から無表情な三面は、友に乱雑に扱われようとも平然としていた。今宵は、正面の口がよくしゃべる。


「おまえの言う通り、本気で仏法を存続させようものならば、諸如来・諸菩薩を天竺東勝身洲てんじくとうしょうしんしゅうより東方の土地へ進出させる他に選べる道はない。どこまでこちらに手を貸せるかわからぬが、私もなるだけ手段を尽くそう」

「嘘を吐くな。気休めはよせ」

「では、おとなしく須弥山を渡せ」

「渡さん」


 梵天と帝釈天は、しばし押し問答で睨み合う。しかしまもなく、早々に力尽きたのは帝釈天のほうであった。

 帝釈天が、こめかみの髪束をかき上げながら項垂うなだれた。


「……従わねば、捨てられる。でも、なにをどこまで信じてよいのかもわからぬ。汝は明後日にはここを離れるというし、私はまた一人……」

「いつまで経っても、甘えん坊なやつめ」


 ここで、無気力になりつつある帝釈天の泣き言を少々鬱陶しく思った梵天が、友のうなじに腕を巻きつけ己のほうへと引き倒そうとする。これに驚き嫌がった帝釈天は微々たる抵抗を示すも、梵天は断じて解放を許さなかった。


「静かに寝ておれ、帝釈天。寝ねば、この騒がしい夜も明けぬぞ」


 しまいに梵天は、帝釈天を甘い誘惑の中へと落とし込む。意思薄弱とする今の帝釈天には、それが心身休まる極楽世界へのいざないに見えた。

 ついに帝釈天はすっかり脱力して束縛に身を委ね、梵天の柔らかな太腿ふとももの上に頭を横たえるのであった。


 それからほどなくして、青白くきらめく月光が差せばどこぞから安眠の寝息が聞こえてくる。

 今晩の天神たちの不穏な会話に、周りにいた諸菩薩は誰一人として口を挟まず、坐禅を組んでいた釈迦如来に至っては見ず知らずを装っていた。 






          ✴︎✴︎


 梵天が婆羅門界へと帰ってから数ヶ月が経った頃、地蔵菩薩がとある任務のために人界へ降りると言うので、帝釈天は七神の眷属を連れてその護衛を受け持った。


 とある任務とはすなわち、凶暴なる一人の夜叉女の狂乱狼藉によってことごとく被害を受けた一集落にて取り残されているという、生存者の救助である。

 つい先日、この見るもおぞましい血達磨鬼ちだるまおにが徘徊していたところを、くだんの虎将軍が拾って釈迦如来に明け渡したらしい。須弥山の神仏がかく天災をようやく知ったのはこの時であり、当時の帝釈天に至っては魔族バイラビ征伐のため不在であったがゆえに認知すらしていなかった。

 暴鬼事件の全貌を、帝釈天はこれより知るのである。



 こうして一行がやって来たのは、見るからに暴鬼の襲撃によって荒れ散らされたありさまの人里であった。

 田畑は全て掘り返され、崩れかけの家屋の壁には大量の血痕がこびりついている。悲惨な光景のわりには閑散とした空気の漂うその人里に、見渡す限りでは人間どころか小さな生き物一匹たりともいないようであった。


「夜叉の女に襲われたとの情報が伝わるに、惜しくも察知が遅れてしまいましたねぇ。あらまぁ、みんな食べられてしもうて……」


 地蔵菩薩は延々と独り言を並べながらも、かく人里には目もくれずにそのまま通り過ぎていく。そして、村外れにそびえ立つ禿山はげやまの浅い洞窟の中へと、迷うことなく入っていくのであった。

 外界から差し込む光も、ここで早々に断ち切られる。


夜叉女やしゃめとはもしや、訶梨帝母かりていものことですか。一昨日、風の便りで耳にした程度で……」


 帝釈天は、自身の後光で暗がりの周囲を照らしつつ、地蔵菩薩の独り言を遮って質問をする。地蔵菩薩は、「ああ、そうそう」と答えて頷いた。


「さきほど通りすがった土地の衆生たちは、その鬼に全員喰われてしまったのだとか。どうも、人間たる身を喰えばその分、寿命が延びるとでも思ったみたいで」

「なるほど。まあ、よくある話ですな。類いとしては、羅刹に近いと言いましょうか」


 会話を進めているうちにも、一行は洞窟の奥へ奥へと深く入り込んでいく。

 するとやがて、さらに一段と歩き進んで行けば、暗がりに紛れて何やら大勢の幼子おさなごたちの泣き声らしき音が聞こえてきた。突き当たりまでの距離もそう遠くはないと見えて、近づけば近づくほどにその音もだんだんとはっきり聞こえてくるようになる。

 そしてついに帝釈天は、それがしかと幼子たちの泣き声であることを悟るのであった。


「……だがしかし、そんな人喰い鬼でも唯一食べなかった、いや、食べることのできなかった存在がいましてね」


 ここで地蔵菩薩が、今まさしく向かおうとしている前方の暗闇を指差す。


「それが、今から我々が保護しに行く童子どうじらなのですよ」


 そう言った矢先、一行は洞穴の細道を抜けて少ばかりひらけた空間に出た。その場所には確かに、三十人前後の小さな幼子たちが身を寄せ合って、助けを求めるように泣き叫んでいるのであった。


「おお、よしよし。もう大丈夫ですよぉ」


 これを見とめた地蔵菩薩は、すぐさま腰を低めて近寄り、慣れた仕草で幼子たちの慰撫に取りかかる。他の眷属らも、その手伝いに加わった。


「なぜに訶梨帝母は、子らは食べずに残しておいたのか……」


 傍ら、灯火役の帝釈天は、率直な疑問を地蔵菩薩に投げかける。地蔵菩薩は、両手一杯に幼子たちを抱きかかえながら、やおらポツリと話し出した。


「訶梨帝母にはことさらにべっぴんな娘さんが一人おりましてな、もともとはとても愛情深かったそうですよ。その面影を、この子らに見たのやもしれませんね……」


 そうしておもむろに、抱えきれなくなった幼子を三人ほど、帝釈天の腕に移す。

 何の前触れもなく己の手へと渡ってきた、いたいけな三人にわずかに戸惑いながらも、帝釈天は無言のままに優しく抱擁して上体を揺らすのであった。


「では、訶梨帝母は、今は……?」

「おそらくは、世尊せそんのところに。どうも、回心えしんしたようですね」

「おや。退治はせぬのですな」

「そう。もちろんその手も考えておったようですよ、梵天がね。ところが一人、訶梨帝母には救済の処置をと、釈迦如来に祈願申し出たがいたのですよ」

?何者です、そやつは」


 幼子全員を泣き止ませた地蔵菩薩は、屈した背筋を伸ばして「ふぅ」と息をつく。そして、答えを待つ帝釈天のほうを振り向き、愉快げに笑った。


毘沙門天びしゃもんてん。あの夜叉の王とかいう」


 地蔵菩薩のこの一言に、帝釈天は眉をひそめる。夜叉王という用語にふと、いつの日かにであった虎将軍の片影へんえいを思い出したのだ。

 一方、これがおかしく思われたのか、抱いていた三人からは、その眉間を人差し指でつつかれるのであった。





 それから一行は、幼子たちを連れて洞窟の外へと出る。

 眩い光が視界を覆う拍子に、帝釈天はたまたま大空を見上げた。すると、天界へと続く雲の坂を、かの壮麗な虎の軍勢が悠々と登って行くのが見えたのだ。先頭を、例の将軍が歩んでいる。


「あ、あれは!あの時以来、久しぶりに見る姿だ」

 

 帝釈天が、無意識に感嘆の声を漏らした。口調こそ淡白なものの、つねづね追い求めていた虎が今まさしく現れた目前の光景に、心の高揚は抑えられなかった。

 すると地蔵菩薩も、天を仰いで虎軍を目にとめる。


「あれはきっと世尊のところに挨拶にでも行くのでしょう、供物をいっぱい乗せていますもの。最近はああやって、よくお見えになりますよ。帰依はしていないみたいだけど、悪いヒトでもなさそうで」

「へぇ、左様ですか」


 地蔵菩薩の言葉から、その上虎が須弥山を周回しているとの事実も知った帝釈天、さらに胸を高鳴らせて微笑んだ。

 隣りで地蔵菩薩はしばらく、片手を額にかざして目元に影を作りながら大空を眺めていた。やがて今度は、瞳だけを横にずらして帝釈天の横顔を見て声をかける。


「我々もあのような武神がいたとは、知らなんだが。君も、毘沙門天の存在を把握したのは、この前が初めてですか?」


 帝釈天も瞳だけを横に動かせつつ地蔵菩薩と向き合うが、そのまぶたは丸々と見開かれていた。虎という夜叉の姿に毘沙門天という名が即今そっこん、帝釈天の脳内で重なり合う。帝釈天の表情は、この合点に納得しているようであった。


「ああ!毘沙門天とは、あの虎のことで……!」

「知らなかったようですねぇ」

「ええ。奴らと羅刹、アスラどもと海底の龍族、それから希臘ギリシャ領土。ヴェーダ時代には数々の霊山を治めてはおりましたけれど、私の支配するところではなかった土地も案外広いのですよ」

「ふうん」


 地蔵菩薩は、自分から尋ねておきながら、帝釈天の答えにさも興味なさげな相槌を打った。

 そうして一行は、虎軍の姿が雲に隠れて見えなくなるまで、上空の美しき景色へ視線を送る。その中、帝釈天は図らずも、勇猛にして慈悲深きかの将軍に思いを馳せるのであった。



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