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殻半ひよこ

抱きしめること、られること

「失礼する」


 黒髪が風に翻り、昼休みを間近に控えた三時限後の休み時間、一年一組に緊張感が走った。

 雑談のざわめきに潰れることなく凜と通ったその声は、それくらいの影響力を持っている。


「御歓談のところ済まないね。薪田与一まきたよいち君は在席かな」


 クラスメイトの視線が、入り口の現れた女生徒と、窓際の席のぼくとを往復する。


 片や、容姿も佇まいも一分の隙無く麗しい、先月、入学式の在校生挨拶で新入生に男女の別無く「この高校に進学してよかった」と心のガッツポーズを取らせた、我が校の名物生徒会長、逢沢雪鶴あいざわゆづる


 片や、のほほんと次の授業の準備をしていたところ、科目を間違えてノートも教科書も丸ごと忘れていたことに気づいたが、今から焦ってもどうしようもないので開き直ってスマホをいじっていたぼく、薪田与一。


 ふいに、後ろの席から、肩を叩かれた。

 高校入学と同時にイメチェンを計り、【一見不真面目でチャラそうだが実は真面目でデキるというギャップで、高校でこそ彼女を創る】と息巻いていた、髪型をビシッと決めた幼稚園からの悪友が、真剣な表情を浮かべている。


「与一。何やらかしたかは知らんが、立派におつとめ果たしてこい」

「待って? お前の中でぼくってそこまで信用ない?」

「どっちかというと、鶴さん会長の信頼度が馬鹿高い。見ろあの形相」


 見ました。

 ――入学式の壇上で見たときもそうだけれど。

 逢沢先輩は、まるでむかしばなしから抜け出てきたようだ。


 それは、浮世離れしているとさえ感じる美しさだけでなく。雰囲気が、どこか古風というか。ビルが立ち並ぶ街の中にいるより、空が高くて緑が多い場所に佇んでいるほうが、しっくりくる気配というか。


 ……そんなふうに、改めて感じたのも。

 逢沢先輩のつるりとした眉間に、わずか、皺が寄るように張り積めているのが見えたからだろう。


「鶴さん会長、相当腹に据えかねてるご様子じゃねえか。事情は訊かないでいてやるから、とっとと行ってこい。そのほうが傷も浅かろう。……与一。俺たち、何があってもそれなりにダチだぜ。骨は拾ってやるからな」


 できれば抗議したい扱いだったが、悪友の発言はクラスの総意っぽくはあった。席を立つぼくを見るクラスメイトたちからは『薪田がなんかやらかしたんだろうなあ』と『薪田もあいつの友人だけあって見かけによらないんだなあ』がミックスされた視線を感じた。こいつは一年生の五月から高校生活の平穏がやばい。


「あー、ども、薪田です。何の御用事でしょう、逢沢先輩」

「うん。ちょっと場所を移そうか。ついてきてくれるかな」


 クラスからの出る際、いよいよもって背後からの視線が痛い痛い。それに構っているまでもなく、足早に歩いていく逢沢先輩を追う。――いや、やっぱりこの人何やってても姿勢がいいなあ。歩く姿もなんとやら。


「あの。次の授業まであんまり間もないんですけど」

「安心したまえ。時間はそう取らせない」


 生徒会室は、一年教室と同じ三階にあり、逢沢先輩は生徒会長としてその鍵を預かっている。

 奥まったこの場所には、用事でもない限り、他の生徒も教師も通りがからない。


 鍵が開かれ。

 中へ招かれ。

 真正面から、自分より少しだけ背の高い上級生と、向かい合う。

 その時にはもう、逢沢先輩の眉間の皺は、あかさらまなものになっている。


「薪田君」

「はい」

「限界だ」

「っぽいですね」

「いいかな?」

「そういう契約じゃないです?」

「――――頼む」

「では、失礼します」


 そうして、ぼくは。

 我が校の誇り、男女共に尊敬を集める生徒会長を。

 腕を広げて、背に手を回して、抱き締める。


「おつかれさまです、逢沢先輩。今日もがんばってたんですね。もう少しで昼休みなのに、待ちきれなくなっちゃいました?」


 抱き締める力は、強すぎず、弱すぎず、制服の皺を作らず。

 そうしていると、ぶるり、身体の中で、震える。

 逢沢先輩は、ぼくの胸で「はぁ………… ♪」と、温泉に浸かったみたいな、長い長い、気持ち良さそうな息を吐いた。

  

    Ω


 ……と、まあ。

 他の生徒に知られようものなら、その日の放課後を待つまでもなく学内SNSでバズり散らかすこと受け合いであろうぼくらの関係を、果たしてどのように解説すべきか。


 とりあえずきっかけは、今から一ヶ月前、例の入学式、新入生への在校生代表挨拶後。

 これから三年間お世話になる校舎をぶらぶら散策していたところ、電気もつけていない生徒会室で、ぐったりとうずくまっている逢沢先輩を目撃してしまったことから始まった。


『あー……さっき入学式で挨拶してた逢沢先輩ですよね。大丈夫ですか。保健室行きます?』


 絵面が絵面なもので、見て見ぬふりをすべきか声をかけるべきかは迷った。

 迷ったけど、一瞬見えた横顔の、危うい青さが戸を開けさせた。


 ……下衆な好奇心がなかった、とは言い切れない。

 心配だと思うのもあったけど、それと同じくらいに、壇上であれほど背筋をぴんと伸ばして喋っていた人が、こんなぐんにゃりした有り様になっている理由が気になったから。


『……君は……』

『1−1の新入生、普通科の薪田です。ども』

『……そうか。これはいきなり、恥ずかしいところを見られたね』

『いえ別に。醜態なら、悪友ので見慣れてるんで大抵は。動けます? 立ちくらみとかですか? 人呼びましょうか?』

『……大丈夫だ。少しすればよくなる。こういうの、いつものなんだ。ちょっとした……でさ』

『はあ。なんか、耳馴染みのないワードが出ましたね』


 ぜい、と肩で息をする逢沢先輩曰く、これは彼女の持病というか、癖のようなものらしい。


『新入生君。私の挨拶、見ていたのだよね』

『はい。実に御立派で、回りにも明らかにやついましたよ。お見事でした』

『ははは、それじゃますます、人を呼ばれたら困るな。私の正体を知ったら、さぞや幻滅させてしまう』


 逢沢先輩は、うずくまり、床を見たまま苦笑する。


『苦手なんだよ、人目が。大きな期待を向けられたり、注目を浴びると、すごくすごく緊張する。その場はどうにかしのぐんだけど、後で反動が押し寄せる。いい加減慣れればいいんだけど、これがどうもうまくいかない。我慢ができなくなったら、こうやって、こっそり発散してるんだ』


 遅ればせながら気付く。

 逢沢先輩の身体は、小刻みに震えている。


『そりゃすみません、おせっかいに首突っ込んじゃって。大きなお世話でしたね……ってか、よかったんですか。そんな事情話しちゃって』

『あはは。なんだろうね、気付かれないようには気を付けていたけど、もう見られてしまった以上、嘘をつくのは潔くないと思ったし……ほら。何より、わざわざ親切に心配してくれた君をごまかしであしらうなんて、そんなの、義理を欠くだろう』


 ……そんな言い方も、そういうところを気にするのも、逢沢先輩の古風さを補強して感じさせた。

 弱々しく見えるのに、芯の部分の強さは折れていない。ぼくは、それを――。 


『――そっすか。一応言っておきますけど、ぼく、このこと誰にも話しませんから。言ったところで、ぼくのほうが嘘つき呼ばわりされると思いますし』


 そう。

 入学式の反応からして、二年も三年も教員も、校の誇りの生徒会長が本当はこうだと知っている感じはなかった。どうやら逢沢先輩は、自分の本質をしっかりかっちり、バレずに隠し通すことに成功していたらしい。

 何の間違いか、用もないのに生徒会室までぶらりとやってきた、ぼくみたいなやつを除いて。


『……えっと。確認ですけど、ぼくにできること、あります?』

『ないね。残念ながら。お気持ちだけは、十分に受け取ったよ』

『ですよね。そんじゃあ行きます、お邪魔しました。――ああ、でも。逢沢先輩、休むなら、せめて椅子に座りましょう。電気もつけないで、一人で地べたに直なんて、言い訳ききませんよ。ちゃんと座ってるなら、まだ集中するために部屋を暗くして考え事してた、で済みますから』

『――ごもっともだ。では、進言ありがたく……む』

『先輩?』

『……足、痺れた。ち、力が、入らん』

『そりゃ、そんな姿勢じゃそうもなりますって。ほら』


 肩を貸して、起こして、椅子に座ってもらう。

 ただそれだけのつもりだったのだけれど、そこで一個、事故があった。


『――っと』


 逢沢先輩が、バランスを崩した。

 倒れかかってくる身体を、反射的に受け止める――抱き締める、格好になる。

 背に腕を回し。

 密着する感じで、ぎゅっと。


『……あー、失礼しました。不可抗力です、ごめんな――』

『待って!』


 なんとか重心も安定したので、回した腕を話そうと圧迫を弱めかけた瞬間、驚かされた。

 同じ人物が放ったとは思えない、切羽詰まった声。姿勢の乱れ、揺らいだ声。


『もうちょっと……もう少し、まだ……そ、そのまま……!』

『あ、え、は、はあ……?』


 呆気に取られたまま、緩めかけた腕の締め直すが、しかし、考えるほどわからない。初対面の、他人同然な相手に抱き締められて、『早くやめろ』ではなく『まだ待って』とは……?


『……逢沢先輩…………?』


 恐る恐る呼びかけるも、返事がない。

 どうしたものか、この状況は何なのか、自分は何をやっているのか、それにしても柔らかいな、全力で抱き締めたら壊れそうだな、などなどを現実逃避気味にとりとめもなく考えていると。


『――なんということ』


 胸のところから声がした。

 もう大丈夫か、と思って腕の力を緩めると、今度はもう『待った』はかからない。姿勢を戻すと、彼女もまた姿勢を正した。

 真っ直ぐに背筋を伸ばして、ぼくを見てきた。


『こんな方法があったなんて。こんな気分があるなんて。これは、由々しき発見だ』


 呟く逢沢先輩には、もうさっきまでの弱った雰囲気がない。

 入学式の壇上で新入生に語りかけていた演説の時ともまた違う、艶やかに潤った、赤みの差した元気な顔がそこにはあった。


『きみ。薪田君、と言ったね』

『あ、はい』

『どうだろう。君さえよければ、私と契約を交わしてはもらえないかな?』

『あー……はい?』


 ちょっと待ちたまえ、と話し、逢沢先輩はきびきびと、姿勢良く、生徒会室ということもあってすぐさま一枚の書類を手書きで完成させた。


『詳しい科目はそこに記載した。急かしはしないから、そうだな。今週中を目処に返事をくれると嬉しい。昼休みや放課後は大体ここで作業をしているから、いつでも会いに来てくれたまえ』


 手渡されたA4用紙に目を落とす。

 そこにはこのように書かれている。


【精神安定による高校生活の完遂を目的とする相互抱擁契約ダキホーダイプラン締結について】

  

    Ω


「薪田君」


 昼休み。

 屋上でぼけっと惣菜パンを食べていたところ、先の休み時間ぶりに声をかけられた。


「逢沢先輩。珍しっすね、昼休みに生徒会室にいないなんて」

「いや、さっきまで寄っていた。急ぎの資料確認があったんだが、それが手早く済んだものでね、時間が出来たのさ」

「ははあ。そりゃおめでとさんです」

「何を他人事のように。きみのおかげじゃあないか」


 つやつやとした顔で微笑み、逢沢先輩は上等な包みの中から取り出した漆器を開ける。なんとお上品で手間かかってそうな。ありゃ昨夜の残りもん急いで詰めました、とかじゃ絶対ないな。煮しめとか入ってる。


「うむ。ゆったりとした昼食、素晴らしきかな

「生徒会の皆さんと食わないすか。仲、良さそうでしたけど」

「……う。作法に自信がないというわけではないし、無論関係も良好なのだが……その。身の丈に合わぬ、過分な尊敬を受けてしまっている、というか」

「あー。うちの第八十四期生徒会、会長の采配の下に働く有能集団、ついたアダ名が鶴翼衆かくよくしゅうでしたっけ。そんな方々と一緒だと、居たら居ただけ対面も保たにゃならんで、緊張もしますか」

「――皆には申し訳ないんだが。やはり食事は、こう、肩肘を張らんのが一番合う」


 うーん、知るほど難儀なお人だこと。

 家柄も経歴も能力も一級、常人からすれば最早「ほへーすんげー」と大口開けるしかない勝ち組っぽい逢沢先輩。

 厳格な家庭に生まれ、期待をかけられ真面目に育ち、望まれる以上に成果を上げることを是として育った彼女には、【弱音】【頼る】【甘える】とかの当たり前な行為が縁遠かった。


 加えて、そういうのをやんなくても、わりあいどうにかなってしまったのが、ある種の不幸だ。

 本人は、期待をかけられたりだとか、注目を浴びたりが、とてつもなく苦手なのに、耐えて耐えて耐えられてしまった。


 結果として出来上がったのが、表面完璧、裏で消耗の、しんどい状況。

 優秀さ以上に、やせ我慢の達人過ぎて。誰にも辛さを共有できないまま、自ら引き受けた重荷で、翼がゆっくりと折れ曲がっていく……そんな状況だったのが、逢沢雪鶴という、別に完璧でもなんでもない常人なのだ。


 ――まったく。

 親でも生徒会の連中でもいいから、さっさとそれに気付いてやれという。

 おかげで、妙なお鉢がこっちに回ってきたじゃないか。


「きみにはまったく感謝だ。薪田君」


 解放感に満ちた青空の屋上で、逢沢先輩が柔らかく笑う。


「実に白眉の効果だよ。誇っていいぞ。よっ、抱擁の達人」


 ……一ヶ月前の、あの日。

 逢沢先輩の提案した【相互抱擁契約】の目的は、以下。


【1:抱擁にはリラックス・ストレス解消・ドーパミン分泌など、様々なプラス効果があると言われている(効能実証済)】

【2:抱擁を適宜有効に活用することで、学生生活で溜まりがちなストレスをケアし、健やかな日常を送る】

【3:甲または乙が精神安定目的の抱擁を求めるとき、乙または甲は、可能な限りこれに応える】


『きみの両腕が私を包んだ瞬間、動悸も息苦しさも頭の中の絡まりも、すっとほどけて消えたんだ。あんな感触、あんな感覚――あんな安らぎは、もしかして、生まれてはじめてだった。お願いだ、薪田君。どうかあの支援、定期的に受けさせていただくわけにはいかないか?』


 果たしてどう返事すべきか、迷ったままで対面したぼくに、逢沢先輩はそう熱弁して。

 ぼくは、結局、それを受けた。

 彼女の切実な、ともすれば飢えめいた切羽詰まった感情を、どうにも見捨てられなくて。


「聞いてくれたまえよ。最近は日々が楽になったどころか、寝付きまでよいのだ。毛布の圧迫に君の抱擁の感触を重ねると、余分な思考がすっと溶けて、安らかに入眠できてなあ。目覚めた後、激しく君の抱擁を受けたくなってしまうのが難点と言えば難点だが」


 こんな砕けた喋りかたも、彼女が大勢の前で語る時、生徒や先生に応対する時、生徒会のメンバーと話す時にも聞かない。力の抜けた表情だって、他では見ない。

 ……こういう状況も初めてではないが、近頃はよく思う。

 彼女と自分の関係の奇妙さと、出会ったばかりの相手について、たった一度の出来事でここまで――ある種、依存ともいえなくないほどの踏み込みかたをしてくる、彼女の距離感の危うさについて。


 たぶん。

 強くて強くて甘えベタだった彼女は、こういう機微についての学習が、全然足りていないのだ。


「……あのさ。逢沢先輩」


 四月の契約から、一月経って、五月。

 彼女はショックを受けてしまうかもしれないが、一度ちゃんと、なあなあにしていた部分を話しておかなくてはならない。


 ここいらが、もしかしたら。

 ちょうど、契約の改め時だ。


「例の、今日もご利用いただいた【相互抱擁契約】についてなんだけど――」

「そう」


 こと、と。

 逢沢先輩が、上品な所作で箸を置く。


「私も、まさに。それを話したい、と思って訪ねたところなのだ、薪田君」

「え?」


 彼女の表情が、変わった。

 先程までの柔和さから一転、どこか鋭さを含む、真剣な眼差しが向けられる。

 な、なんだ。

 この人のこんな顔、初めてだぞ。


「――どうしたんですか、一体」

「どうもこうもあるものかね。きみ、わかっててとぼけているのではあるまいな」

「そんなことは。本当に、検討もつきません」

「……はぁ」


 ため息まで吐かれてしまった。そんなにもか?


「いいかね、薪田君。一月前、私たちが結んだ相互抱擁契約だが――」

「……はい」


 果たして、逢沢先輩は。

 これは由々しき事態だ、とばかりに、真剣に言い切った。


「――相互などとは名目ばかりで。きみ側からの使用申請が、まったくないではないか!」

「……………………はい?」


 思わぬ台詞にとぼけた声を出してしまうぼくに、逢沢先輩は、矢継ぎ早に畳みかけてくる。


「私がどれだけ、きみの抱擁に助けられ、楽しみにすることで日々を乗りきれていることか。この感謝感激感動といったら、山より高く海より深く、句にも詩にも載せきれない。百万の言葉でも代えられぬとなれば、身をもっての行動で伝えるほかになしと思うこと幾夜、いざその時が訪れた際、無様を晒すなどあってはならないと、日々のわずかな時間を使って稽古も重ねているのだぞ」

「稽古!?」


 つまりエアハグ!?

 エアハグやってるの、逢沢先輩が!? なにその光景!?


「だというのにきみは、この三十日間、私の要望を聞くばかり。抱き締めはしてもその逆は一度も無し。恩を返すどころかますます積み重なる一方……これでは、不公平にも程があろう! いかがなものか!」

「――いや。いかがなものか、と仰られましても。単純に、利用しよっかなーって気分には特にならなかっただけで……」

「――待て。待ってくれ、薪田君」

「はい」

「もしかしてだが、きみ……日常的に、抱き締められたい、という欲求に襲われていないのかね」

「……ないっすね、別に」

「授業中や作業中、ふとした瞬間に抱擁欲求に見舞われたりは? ついぼそっと、『抱き締めが欲しい』と呟いてしまったことは?」

「中毒ってません、それ?」

「ないのか」

「ないです」


 今、白日の元に、衝撃の齟齬が晒された。

 逢沢先輩は、彼女にしてはあり得ないほどのふらついた動きで、スカートのポケットから折り畳まれた紙片を取り出した。


 何か、と思ったら――なんと、それは例の、【相互抱擁契約】のコピーされた控えであった。

 いやなんてもん持ち歩いてるんだこの人。


「う、うぅぅぅぅ……」

「って、ちょちょちょちょ」


 あろうことか、逢沢先輩は契約書を引き裂こうとする。


「待った待ったなにしてんすか逢沢先輩」

「仕方がない……仕方がないんだ……。き、きみからの利用がなくては、私は一方的にきみから抱擁を搾取することになる……。そんな不平等で不公平な契約はあってはならない、速やかに破棄せねばなるまい……!」


 ……あぁ、もう。

 どこまで不器用で、生真面目なんだかこの人は。

 そんなに顔を青くして、涙目になってまで……抱擁無しの生活は、相当に苦しいだろうに。

 逢沢先輩はいっつもそうだ。周り周りのことばっかりで、自分を全然顧みない。

 そんなだから、ぼくだって――。


「わかりましたよ」

「――え?」

「抱擁契約、こっちも権利を行使します。今なんか、ちょうどそういう気分です」

「い、いいのか? けどきみ、別に気分が悪いとかでは……そこに抱擁なんて重ねてしまったら……過剰接種でえらいことになるんじゃ……」

「なんすかその理論。いいんです。いいじゃないっすか。幸せな気分になるのが、特別辛いときだけじゃなくって。何を損するわけでなし、あんがい集中力とか上がって、授業に一層身が入るかもだし。ちょうど午後の現国で、小テストありますんで。エナドリキメる気分でひとつ」

「そ、そうか? ……そうか、よし!」


 力強く頷くと、逢沢先輩はまず、食べかけだった弁当を片付けた。急いだふうだが、その姿勢も行儀も悪化しないのはさすがなところ。ごちそうさまでした、と手を会わせる所作も麗しい。


 屋上には、人気がなく。

 どういう神のいたずらか、抱擁を行える条件が揃っていて。 


「待たせたな。体力を補給した。これでこちらからきみへも、十分な活力を受け渡せるはずだ」

「わあ。そりゃ実に頼もしい」

「…………ゆ。ゆくぞ」

「どんとこいです」

「…………御免!」


 かくして。

 決闘に望む武士がごときのかけ声で、逢沢先輩は、ぼくに抱きついた。


 はじめて。

 逢沢先輩側から、ぼくのほうに、抱きつかれた。


「――――――――っ」


 さてはて。

 別に、こういう密着も、こういう状況もはじめてではないのに。

 抱きつく側と抱きつかれる側、攻守が入れ替わると、こうも、感じることまで代わってくる。


 普段、こっちから抱きついている時には意識しない、服の上からでも確かに感じる身体の感触だとか、耳元で聞こえる細い息づかいだとか。

 そういったものが、殊更に分かってしまって。

 こっちの鼓動が、相手に伝わっているのではないか、とか思う。


「……………………」


 逢沢先輩の、背に回される腕は、少しだけ、強すぎて痛い。緊張や気負いの力みが、慣れない行動に籠ってしまっているのだろう。


 だけど、それが、悪くない。

 彼女の誠実さと、本気さと、相手を思っている気持ちが、伝わってくるようで。 


 ――こうしているとき、この距離で。

 相手の表情が気になるのも、はじめてだ。


「……あの。…………あの、逢沢先輩。もう、そろそろ」


 呼びかけると、逢沢先輩はぎこちなく身を離し、無言だった。

 不安に思っている様子に、できうるかぎりの笑顔で応える。


「いいもんですね、されるハグ。これ、午後めちゃくちゃがんばれそうっすわ」

「……うむ! それは、実に、たいへんよかったっ!」


 この一言で安心したのか、逢沢先輩も再び笑顔になってくれた。


「なんで、相互抱擁契約、破棄ではなく更新ということで。これからはこっちのほうからも、こまめにお願いさせてもらいます」

「任せたまえ。私のほうも、まだまだ研鑽を積むからな。期待しているといい」


 手を掴まれ、ぎゅっと握って、逢沢先輩が宣言した時、ちょうど、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。


「おっと、もうこんな時間か。楽しい時間は早いものだ」

「――あーっと、どうぞお先に、逢沢先輩。一年教室は近いし、ぼく、あともうちょっとだけ居ますんで。ほらほら、パンも食べかけ」

「む。言っておくが、サボりはいかんぞ」

「しませんって。せっかく貴重なエネルギーもらった後なんですから、正しく使わせていただきます」

「……ふふ。そうか、そうだよな。きみはそんなやつではないよな。ではまた、次の抱擁で会おう、薪田君」

「――そうだ。相沢先輩。最後にひとつ!」


 危ない危ない。

 怒涛の展開に押し流されて、大事なことを忘れるところだった。


 ――契約を解消しましょう、とはとても言えない雰囲気になってしまったけど。

 せめて、これだけは釘を刺しておかないと。


「ん?」

「こういう抱きしめあいとかって、普通、おいそれとするもんじゃないですからね? いくら我慢ができなくなっても、やたら他の人に頼んだりしちゃいけませんからね?」

「ははは、おいおい。私だって年端もいかない児童じゃないぞ、それくらいはわかっているさ。信頼できる相手は選んでいる」

「はあ。ぼく、ほぼほぼ初対面でしたけど」


 揚げ足を取るような発言に、しかし彼女は態度を乱さず、余裕たっぷりに答えた。


「あの時、話しかけてくれた目を見れば分かったさ。きみがどれだけ誠実で、よこしまな思いなどなかったかはね。これからも持ちつ持たれつやっていこう、薪田君。癒し癒される抱擁同志ダキトモとして!」


 そんなふうに言って、逢沢先輩は後ろ姿も美しく、屋上を後にした。

 ……足音が遠ざかったのを見届けてから、ぼくは、だらしなく、ぐにゃりと屋上に倒れ込む。


「……よこしまな思いがなかった、ねえ。ダキトモ、ねえ……」


 まったく。

 まったく、あの人は。


「……何が、目を見れば分かった、っすか」


 こっちから、逢沢先輩のために抱き締めることはあっても。

 あっちから、ぼくのために抱き締めてもらうのをしなかったのは、なんでか。

 本当のところを、ちっとも、わかっちゃいない。


「するだけだったら、まだ耐えれてたのに。これからは、向こうからもされるって……?」


 頭に浮かぶのは、絶対に遵守せねばならない、ぼくと彼女を結んでいる、契約項目、その三番。


【3:甲または乙がを求めるとき、乙または甲は、可能な限りこれに応える】


「そういうどころじゃ、済まなくなりそうなんだって、こっちの場合……」


 心臓の鼓動が、うるさい。

 得意気な微笑みが、頭から離れない。

 自分の全部があの抱擁から伝わっていないことを切に祈りながら寝転んで見上げた空に、一羽の鳥が舞っていた。

 ――くそぅ。

 気持ちいいなあ、抱き締められんの。


    Ω


 ちなみに。

 午後の現国の小テスト、頭がクリアで嘘みたいにスラスラ解けてしまって、ぼくは小さく「マジかよ」と呟いた。

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