こりゃあ別れるな

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こりゃあ別れるな

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■高速バス編

 一人旅の途中、日本海沿いの県庁所在地の駅前から高速バスに乗って、次の目的地である比較的大きな地方都市に向かうことにした。二時間に一本しかない特急列車に寸(すん)でのところで間に合わなかったので、次の列車を待つよりも高速バスで移動したほうが、到着時間も早く、料金も半分で済むと咄嗟に皮算用したからだった。

 午後四時出発のバスは、駅前のターミナルを出ると、次に自動車教習所前に停まった。市内を走るローカルバスでもないのに、なぜ自動車教習所前に停まるのかと、車内アナウンスが流れた時に抱いた疑問は、停留所が近づいてくるにしたがってすぐに解消した。とにかくすごい数の乗客がこのバスに乗るために長い列をなしている光景が窓の外に見えたからだ。

 停留場は教習所の目の前にあり、正面に掲げられた教習所の名前の書いた看板の横の、倍以上も大きい看板には、「合宿免許 随時受付け中!」と目立つ色の文字が目に飛び込んできた。

「そうか、最短で免許をとるために、わざわざ地方都市からこの教習所にきているのだな」

 と、納得をしたのだった。

 その乗客の列の中に、少し変わったカップルがいるのに気がついた。

 彼の方は大学生くらいだが、彼女の方は明らかに年上だった。しかも、かなりの年齢差があると踏んだ。

服装はコスプレ仕様の、「不思議な国のアリス」の絵本から飛び出したような、レースやフリルのたくさん付いた水色のドレスを着ていて、明るいブラウンにカラーリングした頭には、同じ水色のリボンを飾っていた。

見た目は完全に大学生とつり合い(あくまでのファッションの好みとして)が取れているように思うが、彼女から醸し出される、「がんばっている感」が半端ではなかったのだ。

水色のドレスに包まれた背中はひどい猫背で、ちょうちん袖から出た腕は太く、しかも締まりがなくてブヨブヨしていた。また、列が進むごとに前に移動する時の歩き方も、大げさにいえばヨボヨボという感じだった。

二人の関係がラブラブ(かなり古臭い言い方だが、あえて使おう)なのは、しっかりと繋ぎ合った手が言葉よりも明確なメッセージを見る者に告げていた。

「あれ、ちょうと待て、あれはなんだ?」

 なんと、彼女は左手で彼の手をしっかり握っていたが、右手、いや右腕には、身長の半分はあろうかと思えるほどの巨大な、「プーちゃん」のぬいぐるみを大事そうに抱いていた。

 ウエストから大きく広がった水色のドレスに、頭に飾った同じく水色のリボン、右手に抱いた巨大なプーちゃんのぬいぐるみの鮮明な黄色。この色の組み合わせは、日本海沿いの町では完全にミスマッチだった。

 バスの窓から見えるのは、このカップルの後ろ姿だけだったので、二人が乗り込み正面から顔を確認できるのを、今か、今かと楽しみにしていた。二人の後ろ姿が少しずつだが、確実に乗車口に近づいて行く。

 バスは、通路を挟んで左右に二席ずつ、縦に十五列の六十席全てが指定席になっていて、チケットを買った時に座席が指定される。僕は真ん中あたりの席に座っていたので、確実にカップルを正面から観察できるはずだ。悪趣味だと自覚していても、ワクワク感が溢れ出して止まらない。

 いよいよ、カップルが乗車する番がきた。二人は繋いでいた手を一旦離すと、チケットを係りの人に見せてから、先に彼女の方が乗り込んできた。続いて彼。

「あれ、勘違いをしていたのかな?」

 一瞬そう思った。ひどい猫背とブヨブヨの腕から、彼の年上の彼女だろうと予想はしていたが(勝手にだが)、正面から顔を見たその瞬間、「二人は親子だったのだ」と合点がいった。勝手に勘違いしてしまったことを心の中で謝った。見た目の年齢差が、年上の彼女という物差しで測れるレベルを遥かに超えていたのだ。

「ごめんなさい」

 でも、違った。またまた勘違いをしてしまっていた。

「ヒナタちゃん、ボクたちの席はずっと後ろの方だよ」

 背中から彼がヒナタちゃん(本名か怪しい)に、チケットに書かれた座席番号を確認しながら言ったのだ。

「うん、わかった」

 声はかすれていて、潤いがなかった。そういえば、近くで見ると彼女の髪の毛にも艶がなかった。だが、この「ヒナタちゃん」が決定打となった。実の母親を、「ヒナタちゃん」と呼ぶ息子はいない。

 横を通りすぎて行く二人に再び心の中で詫びた。

「勘違いして、ごめんなさい」

 全員乗り込み、運転手がマイクで乗車のお礼のあと、「おかげさまで本日は満席のご予約をいただいています」と告げる。続いて、「着席しましたらみなさまの安全のために、必ずシートベルトをお締めくださるよう、ご協力をよろしくお願いいたします」と、運転手が生の声で話したあとは、走行中の注意事項につき、録音されている聞き取りやすい業務用の声が説明する。

 乗降口のドアが閉まる。

「済みません、全員着席をお願いします」

 まだ、座っていない人がいるのか? もたもたしているなあと思った。

 けれど、バスは出発をしない。

「お客様、お座りください。出発ができません」

 苛立った声で運転手が再び注意をする。ワンマンカーなので乗務員は運転手一人だけだ。

 それでも出発しない。とうとう、運転手が席を立ち後ろの座席に向かう。

 見ると、通路にヒナタちゃんの彼が、かなり困った顔をして立っていた。

「お客さん、どうしました?」

 座席は指定席だ。ヒナタちゃんの彼が座る席もちゃんと確保されているはずだ。

 僕はすぐに席を立つと通路に出た。それでなくても興味をそそる二人だ。何かやらかしてくれたなと、野次馬心に火が点いた。

 見ると、困った顔でヒナタちゃんの方を見ている彼に向かって、ヒナタちゃんが両手を合わせて必死で謝っている。

 つま先立って視線を高くし、さらに詳しく観察をした。

「おお!」

 思わず声が出てしまった。

 なんと、彼の指定席であるヒナタちゃんの横の座席に、プーちゃんのぬいぐるみが座っていた。しかも、先ほどの運転手の協力要請を聞き入れて、きちんとシートベルトまで締めている。今にも泣きそうな彼の顔と、いつも変わらないプーちゃんの笑顔の対比が、僕の目には痛かった。

 この顛末の結論を言おう。

 運転手からどんなに注意をされても、ヒナタちゃんは全く聞く耳を持たなかった。結果、彼は補助席を出して座ることで一件落着。バスは無事に出発をすることができた。

 ただ、彼は、大人一人分の追加料金を徴収されていた。

 目的地に到着し、バスから降りてきた二人は、もう手を繋いでいなかった。

 僕は確信をした。

「こりゃあ、別れるな」


■休日夜遅くの電車編

 その日は、品川の友だちの部屋で遅くまで飲みながら、素面では絶対にしないくだらない議論で結構盛り上がった。メンバーは四人。休日の午後に急に声をかけても必ず顔を見せる、つまりは暇を持て余している男たちが、いつも通り集まったということだ。

「おい、そろそろ帰らないと終電を逃してしまうぞ」

 一人がLINEのメッセージを確認したついでに画面に表示された時刻を見て、重大なニュースでも告げるような大げさな声を上げた。

「終電の時刻にはまだ余裕だろ」

 待ち合わせだけではなく、あらゆる約束時間に必ず遅れる奴が言った。時間に関するこいつの感覚は絶対に信用できないので、この言葉で、この部屋の主とこの男以外の二人が立ち上がった。要するに僕と、もう一人ということだ。

「そろそろお暇(いとま)するよ」

 時間にルーズなもう一人は、「俺、今日、ここに泊まるよ」と、主の了解も得ないで勝手に決めていた。

 部屋を出た二人は、歩くスピードを速めながら駅まで歩いた。

「どうやら、終電の二本前くらいの電車に間にあったようだ」

 僕は駅の改札口の黒字にオレンジ色の表示板を見て、胸を撫でおろしながら言った。

「休日の終電はめちゃ混みだから、絶対に避けたかったんだよな。あの時に部屋を出てきて正解だったよ」

 もう一人もSuicaをタッチしながら自分たちの判断が正しかったことを強調した。

 改札を抜けると、「じゃあ、また」と片手を上げて、もう一人は渋谷方面に行く山手線の、僕は大宮行きの京浜東北線のホームに急いだ。

 運よく三分も待たずに大宮行きの電車がホームに入ってきた。

 季節は、寒さの峠は越えたといっても、まだまだ春は名ばかりで寒い三月中旬だった。自動ドアが開いて乗り込むと、きついくらいの暖房が、駅までの歩きと、わずかだがホームで待っていた時に夜気に晒された体には心地よかった。おまけに車内はガラガラだった。

 座ると、まるで床暖房のような暖かさが尻の下から全身を包み込んでくれる。

「このままだと、居眠りしそうでヤバいな」

 そう自身に言い聞かせて、眠気を吹き飛ばすような材料を目で捜し始めた。

 見ると、席の斜め前に若いカップルが、ガラガラに空いているにも関わらず、ぴったり体をくっつけた状態で座っていた。乗客が少ないことを良いことに、かなり大胆にイチャイチャしている。

「これは、乗車マナーを守るためにも、僕がお目付け役を引き受けるしかないだろう」

 誰からも要請を受けたわけでもないのに、この時、僕はお目付け役に就任をした。

 二人の顔は飲酒の形跡を示すように頬が赤くなっていた。

「ははん、この大胆さは酒のせいでもあるのだな」

 誰に求められているわけでもないのに、僕は勝手に正解を導き出そうと推理した。

 電車は次の駅に到着したが、乗客は一人も乗ってこなかった。こうした状況を良いことに、二人はさらに大胆になり、唇が触れ合うような単発のキスをし始めた。

「おいおい、ここは公共の電車の中だぞ」

 立ち上がって苦言を呈してやろうかと思ったが、「だったら、あんたが別の車両に移りなよ」と説得力のある文句を言われてしまいそうで、僕はそのまま見なかったことにした。

 その僕の弱さがいけなかったようだ。お目付け役がヌルイことを見抜いた二人は、さらに大胆になり抱き合って本格的にキスをし始めたのだ。まるで、斜め前の僕の存在など最初からなかったかのように。

 僕は固く目を閉じた。

「これで、見なかったことにできる」

 発想がほとんど子供だ。

 僕は、頑なに目を閉じ続けたが、もの音に気づいて目を開けた。ちょうど、電車が新橋の駅を出たところだった。

 目を開けた視界に飛び込んできたのは、キスをしたまま、彼女がしきりに彼の肩を叩いている様子だった。この動作が何を表現しているのか判らなかったが、この叩き方に僕は彼女の必死さを感じ取っていた。

 事件が起きたのはその時だった。彼女が力いっぱい彼を突き放すと、正面にいる彼の顔に向かってすごい勢いで胃の内容物を吐き出してしまったのだ。その勢いを何かに喩(たと)えるならば、ゴジラが放射火炎を吐く時に似ていた。

 二人はお酒を飲み、酔った状態で暖房の良く効いた電車に乗り込んだ。乗客がいない状況に気を許してキスをしてみたが、酒と電車の揺れのダブルパンチで、彼女は猛烈な吐き気を催してしまったのだ。先ほど、彼女が彼の肩を叩き続けていたのは、唇を離して欲しいと行動で訴えていたのだ。それでも、キスに没頭していた彼はそれに気づけなかった。

 この結果が、汚物まみれの今の姿だ。キスの代償はあまりにも大きかった。

 吐く物を全て吐き出してしまった彼女は、すっきりした顔をしていた。また、吐き出す勢いがすごかったことが幸いして、彼女の洋服に一切汚物はかかっていなかった。

「ごめんね、ごめんね」

 と必死で謝り続ける彼女だったが、汚物まみれの彼は、お地蔵さんのように固まってしまい、微動だしなかった。

 汚物の強烈な匂いが車内中に急スピードで広がって行く。

 電車は有楽町を過ぎて、東京駅に到着した。

 すると、彼女はすっきりした顔のまま立ち上がると、汚物まみれの彼に、「おやすみ」と言って電車から降りてしまった。

 東京駅から数名の乗客が乗ってきたが、その誰もがこの臭いと、汚物まみれのお地蔵さんの姿に、速攻で別の車両に移動をした。

 僕も心の中で、「お目付け役解任」と宣言をして、とっとと別の車両に移動をした。

 ドアが閉まり、電車が東京駅を発車した時、ホームに立っている彼女の姿が目に入った。その顔はやはりすっきりしていた。

 この時、僕は確信をした。

「こりゃあ、別れるな」


■ワニにまつわる話編

 大学の仲良し四人組は、絵里(えり)と桐(きり)に美奈代(みなよ)、それに私マナミ。

 出身の高校はそれぞれ違っていたけど、全員が都内在住で自宅から通学していた。

四人が通う大学は、創立百年を超える女子高等教育の先駆けとなった伝統校で、偏差値も比較的高く、富裕層の子女が多く通う大学としても名を馳せていた。

四人の中では、私が最も庶民的で、最もお嬢なのが美奈代だった。私は普通のサラリーマン家庭に育ち、父親は東証一部上場の企業に勤めてはいるが、五十歳目前にしても課長職に留まっていたし、下には高校三年と一年の弟二人がいた。どちらも、比較的偏差値の高い都立校に行っていたが、進学の話になると、まるでオウムでも飼っているかのように父親から同じことを繰り返し言われていた。

「お姉ちゃんを、私立のお嬢様学校に行かせたのだから、お前たちは自宅から通える国公立の大学しか受験させないからな。浪人は、一年は許すがその次はないと思え」

「でも、俺が大学を受験する時には、姉ちゃんは卒業だし。だったら、俺の方は私立でも良くない? もしくは国公立でも地方に下宿も可とか?」

 その度に、末子(すえっこ)特有の甘えの発想で、次男のタケルが軽く反旗を翻す。

「兄弟で差はつけない。差別や区別が父さんは一番嫌いなんだ。このことは、お前らの頭の中にもしっかりと刻んでおくように」

「姉ちゃんは私立に通わせているのに、これは、差別でも区別でもないわけ?」

 意外にしつこい性格をしていて、タケルが執拗に食い下がる。

 こうなると、短絡的な発想で発言している父親は途端に返事に窮してしまう。そこで、登場するのが母親の泣きの演技だった。

「いいわよ、タケルもケンジも私立でも、地方でも行けばいいわ。そのために、母さんが昼間はスーパーのレジ打ちをして、みんなが寝静まったあとに道路工事の日雇いで働くから。お金のことは心配しなくていいからね」

 弟たちの進学の話が出るたびに、父親が持論を繰り返し、これに対してタケルが反旗を翻して父親が答えに窮すると母親が登場するという、このパターンはもう私が知っているだけでもTAKE10以上は繰り返されている。けれど、私は、これを見るにつけ毎回すごいと感心することがある。それは、毎回、母親がマジで涙を流しながら一字も違わないセリフを喋ることだ。そのたびに私は思う。

「確実に降臨したな」

 息子を希望の大学に進学させるために、寝食を惜しみ、身を削って健気にがんばる母親のイメージが、母親の中に降臨していた。

 母親の涙で、この一連のプチ騒動は終止符を打つ。毎回、同じことの繰り返しだ。私は、この光景を見るたびに頭の中で、「茶番劇場」の看板を掲げている。ちなみにケンジとは、長男の名前だ。 

 話が横道にそれてしまったので、仲良し四人組のことに戻そう。

 それは、初秋の真昼、学食でランチをしている時のことだった。

「わたし、結婚したいと思っている人がいるの?」

「えええええええ」

 お嬢の美奈代からの突然の告白に、残りの三人は、永遠に続くのではないかの思えるほどの「え」を繰り返して驚きを表現した。

「それって、本気の本気?」

 一番早く気を持ち直した桐が訊いた。当然の質問だと私も思った。

「こんなこと冗談で話せることじゃないもの、もちろん本気よ」

「両親か親戚からの紹介とか?」

 私がそう訊いたのにはちゃんと理由があった。美奈代の家は都内に貸しビルをいくつも持っている資産家で、自宅も都内の一等地に広大な敷地面積を有する、高級住宅街にあっても近所の住人から、「お屋敷」と呼ばれている豪邸に住んでいた。正真正銘のお嬢様で、しかも一人っ子のうえ、一人娘だったので、当然、結婚となると婿養子をとることになる。だから、自由恋愛はAKB48と同じくご法度のはずだ。

「マナミも古いなあ、いつの時代のことを言っているのよ。とうとう出会ってしまったのよ、運命の人に」

 金にモノをいわせて、すごい数のまつ毛エクステを施した目をうっとりさせて、美奈代はそう答えた。

「その人って私たちの知っている人……、じゃないよね」

 絵里の質問が途中から断定に変わったのは、これまでに誰一人として、「つきあっている彼なの」とみんなに紹介した事例がないことを思い出したからだろうと私は思った。

「わたしって、ワニが好きじゃない」

 まったく脈略のない話を始めた美奈代に、心の中で「話を戻せ!」と突っ込みながらも、ダチョウ俱楽部ではないが、「聞いてないよ」と三人が口を揃えた。美奈代がワニ好きなことを今日、この時に初めて聞いた。

「それでね、どうしても欲しいワニをペットショップで見つけたの」

 三人の発した「聞いてないよ」には一ミリも答えないで、美奈代は話を続けた。

「まさか、そのワニが結婚したい彼ということではないよね?」

 桐が真面目な顔で訊いている。桐はこういう女子大生だ。

「桐はおかしなことを言うわね。まさか、そんなはずないでしょう」

 そりゃそうだろう。まさか、そんなことあるわけがない。

「じゃあ、どういうことよ」

 図星をつかれて桐は少し憤慨しているようだ。

「わたしって、タロット占いが好きじゃない」

 またまた、話に脈絡がない。でも「聞いてないよ」は心の中だけにおさめた。

「タロット占いがどうしたって?」

 やけくそ半分に桐が訊いた。タロット占いにもワニにもまったく興味がないことを、やけくそ半分の表情が雄弁に語っていた。

「先々月、新宿の占いの館で良く当たると評判のタロット占い師に、私の運命を占ってもらったの」

 結婚でも、就職でも、健康運でもなく、運命とは実に大きく出たものだ。それで、結果は?

「ワニがあなたの運命を良い方向に導いてくれます。ですって」

 ここで、ワニとタロット占いが繋がった。これで、結婚したいと思っているという人が繋がれば、さんざん伏線を張ったあと、きっちり帳尻を合わせて最後はミステリーの種明かしに持って行く宮部みゆきの小説と同じだ。

「それで、ワニが好きになったの?」

 呆れた顔して絵里が訊いた。まあ、呆れた顔は他の二人も同じだったが。

「そう」と簡単に答えているが、「わたしって、ワニが好きじゃない」とまるで、幼い頃から好きだったようなニュアンスを醸し出していたのは、いったいどういうことなのだ。

「それでね、ワニを買ったの。ペットショップで」

 実に行動が早い。タロット占い師の「ワニが運命を良い方向に導いてくれます」の言葉を鵜呑みにして、生きたワニを買ってしまうなんて、この行動力を褒めるべきか、それとも軽率さを注意すべきか?

「現在のワニの相場は?」

 絵里が桐と私に訊いてくる。そんなの二人とも知るわけがないので、同時に大きく首を横に振った。

「よく判らないけど、買った時の値段は三十万円だったわよ」

「三十万!」

 三人は同時に驚きの声を上げた。先日母方の叔母が、ずっと飼いたいと思っていたトイプードルをやっと買った。この値段が三十万円だった。同じ値段だ。

「買ったワニって、大きさはどれくらい?」

 そう質問する桐の頭の中には、きっと水を飲みにきたシマウマにかぶりついている体長三メートルくらいのワニの映像が浮かんでいることだろう。

「十五センチくらいかな」

 だから、美奈子のこの答えに桐は落胆の表情を露わにしていたし、次にとんでもないことまで言ってのけたのだ。

「あんたさあ、悪徳業者にだまされて、ワニだと言ってトカゲでも掴まされたんじゃないの?」

「そんなことないよ、背中を触ったらしっかりトゲトゲしていたもの」

「じゃあ、本物か」

 拍子抜けするほど簡単に桐は納得した。

「でも、ワニを買うのに良く親が三十万円も出してくれたわね」

 金持ちとはいえ、それはあまりにも娘に甘すぎるだろう。

「ダメだって。ワニは危険だから」

 そういう理由かい。

「それでね、大学が終わってから、わたしアルバイトを始めたの。だって、もうローン組んじゃったし」

「お嬢様のアルバイトって、どこで?」

「メイド喫茶よ。これまた運命なのよ。この店で彼と出会ったの。まさに、ワニ様が導いてくれた幸せな人生そのものよ」

「その彼って、かなりのイケメンなの?」

 こういう話には絵里がいつもすぐに食いつく。

「わたしにとっては、まさに王子様という感じかな」

 少し世間ずれしているところはあるが、客観的に見ても美奈代の顔面偏差値は高かった。だから美奈代が好きになった彼もきっと相当な顔面だろう。

「知り合ったきっかけは?」

 絵里の鼻息が荒くなっていた。あわよくば、美奈代の彼に友だちを紹介してもらおうと目論んでいるのではないか。

「彼が五人くらいのグループで店にきたの。その時、グループのみんなが彼のことを『ワニちゃん』と呼んでいたの。だから、名前を訊いたら、『ワニブチ』と名乗ったのよ。これを運命といわずしてなんという」

 この話を聞いて、タロット占いから「ワニブチ」に行き着くまでの経緯が、実に短絡的すぎることが少々気になったが、社交辞令で、「近いうちに会わせて」と頼んだら、明日の夕方に紹介してくれることになった。なんと行動が速い子なのだ。

 翌日夕方、自由が丘のカフェで待ち合わせた。絵里はわくわく感を顔に出し、桐はスマホのカメラ機能を再確認していた。そして、私はというと全くなんの感情も持ち合わせないでここにきていた。美人のお嬢様とイケメンの彼の恋物語などに全く興味が湧かなかったのだ。

 初秋の太陽はバンジージャンプのようなスピードで西のビル街に落ちて行く。演出を狙っていたわけではないだろうが、大きく取られた窓側の席に座っていた私たちの目には、沈む太陽が織りなす濃いオレンジ色の夕日が眩しく映っていた。その、オレンジ色を背景にして美奈代の運命の彼が姿を現した。逆光が彼の姿をシルエットにしていた。

 私はこの時点で気づいていた。太陽の形と同じ形のシルエットの顔。彼がどんどん近づいてくる。店まで三メートルを切った時、私の目が彼の顔を捉えた。

「まんま、アンパンマンだ」

 落胆する絵里、嫌らしい笑顔を浮かべて連写する桐。急に興味が湧いてきた私。各自こもごもの思惑を胸に彼の登場を待った。

「初めまして、ワニブチショウと申します。いつも美奈ちゃんと仲良くしていただいて、ありがとうございます」

 そう言うと、アンパンマン王子は相当薄くなっている頭をさげた。言っていることはもう完全に美奈子の身内だ。

 その二週間後、美奈子から仲良しグループにLINEが入った。

『彼がわたしのワニを勝手にネットオークションに出した!』

 該当するサイトを覗くと、ワニブチが出したワニはすでに五十万円の値段まで跳ね上がっていた。次の日も覗くと、さらに値段が跳ね上がり、百二十万円に達していた。

『彼の目当ては、美奈子じゃなくて、ワニだったんだよ』

『あんな性根の腐った男とは一日も早く別れな』

『ワニは美奈子を幸せな人生に導いてはくれない』

 三人はワニブチと別れるように、毎日何十回もLINEで促したが、美奈子はそのたびに、『彼を信じている』という返信を繰り返した。

 それからさらに一週間が経ち、オークションのワニは三百万円まで値段が高騰した。

『ワニが売れたら、美奈子に何十パーセント入るの?』とLINEしたら、

『俺の所有物だと彼が言い張っている。まあ、わたしの物は彼の物だから良いんだけどね』という返信だった。

「これはもう熱病だな」と、三人が呆れ返っている時に、ことは大きな動きを見せた。

 なんと、ワニブチがテレビに出ていたのだ。しかも「容疑者 鰐淵翔」として。逮捕容疑は、ワシントン条約により輸入が禁止されている、絶滅危惧種のワニを密輸した疑いだ。ネットオークションにかけたことで、ワニブチが所有していることが判明したのだ。

 警察車両の後部座席でうな垂れているニュースの映像には、相当薄くなった頭皮がしっかり映っていた。

 このニュースを観ながら思った。

「こりゃあ別れたな」





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