あの日、君が笑ってくれたから

無雲律人

前編:無雲、結婚と同時期にブラック企業に就職する

「だーかーらー、このミスはあなたがやったんでしょ? そうとしか考えられないんだけど!」


 職場に怒号が響く。無雲むうんの直属の女上司S(と言っても役職も何も無いただの先輩)の声だ。


 無雲はそのミスをした覚えが無かったし、無雲がミスをした証拠があったわけでもない。しかし、無雲がいくら否定しても、その言われなき叱責は、全員の前で・立たされたままで・大声で三十分間続けられた。


***


 無雲とおいたんが結婚した当時、無雲はまだ無職だった。


 独身生活を終える頃、精神病が快方に向かい、『自分に何が出来るのか? 何がしたいのか?』をよく考えた結果、入籍した当時は医療事務の勉強をしに大手医療サービス会社の講座に通っていた。


 無雲は、元来お勉強が出来るタイプの脳みそをしていた。だから、医療事務とそれに伴う資格はすんなりと取得できた。



 しかし、その後の就職活動は上手くいかなかった。



 ろくに職歴が無く、経歴がスカスカの無雲がやっと掴んだ就職先は、資格を取りに行った大手医療サービス会社だった。そこの会社が事務を請け負っている病院の算定要員となるべく、無雲は正社員として採用された。


「今までほぼ職歴が無いのに正社員になれた! これで私も立派な社会人だ!!」


 無雲はやる気と希望で心が満たされていた。どうにかしてその会社・その現場で認められるように頑張ろうと思っていたのだが────。



***


 無雲が配属された現場は、とてもじゃないが良質な環境とは言えない職場だった。

 

 自分の仕事は終わっても上司たちの仕事を担わなければいけないので残業が多く、上司たちは常に理不尽な事ばかりを言い、業務も効率化されておらず、何よりもほとんどの人間が口にしているのが『愚痴と悪口』だけという、劣悪な環境だった。


 無雲は、それでもこの職場にしがみつきたかった。


 やっと入社できた会社は業界では大手の企業だ。しかも正社員だ。薄給ではあったが、仕事はやりがいがあったし、算定の仕事もレセプトの仕事も自分には向いていると思っていた。


 しかし、この職場の人間関係の悪さは、確実に無雲のメンタルをむしばんでいった。


 持病の精神疾患の薬は倍増し、消化器関連も弱まって、内科クリニックにも頻繁にお世話になり、めまいや腹痛に常に苦しめられていた。


 長時間の叱責があったこの日は、大型連休の直前で、残業は深夜十一時にまで及んでいた。それでも、無雲はこの時はまだこの会社で頑張り続ける気だった。


 残業が嫌なわけじゃない、上司たちの仕事までしなきゃならないのが嫌なわけじゃない、ただ、このパワハラ女上司Sの存在だけが心に重くのしかかっていた。


***


 深夜零時近くに帰宅すると、おいたんが心配そうに迎えてくれた。



「飯まだだろ? 風呂も入れ。明日、俺は仕事だけど、寝てていいからね」



 この時、おいたんが見ていたテレビでは芸能人の転職エピソードについて放送されていた。


「あぁ、転機って、ある日突然来るものなんだなぁ。こういう転機がある人っていいよね」


 ほぼ他人事ひとごとでそのテレビを観ていた無雲だったが、その芸能人の思い切った転職エピソードは少しだけ無雲の心の中に留まる事になった。


 翌朝、一応は起きたが、おいたんが仕事に行った後また寝た。泥のように寝た。次の日から大型連休だったから、精神科の主治医M先生の所に行けるチャンスはこの日だけだったのだが、『仕事で疲れてテンションが低い』と訴えに行っても仕方ないので、この日は寝て過ごした。

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