<case : 36> capsule - 本物の混沌
数時間後、緑川レイカはツゲに付き添われて、クシナダ配達の営業所に入ってきた。二人の目から見ても、緑川レイカは明らかに憔悴しきっていた。
「下層の公園で意識を失っていたのを保護されたらしい。社員証でうちの従業員だと分かったらしく、俺が身元引受人になった」
「ツゲ所長……」
ノアがレイカに話を聞こうとするのを、ツゲが身体で制する。
「分かってる。お前さんら、レイカに会いに来たんだろうが、ちょっと待ってやってくれねえか」
本来ならば、押し切ってでも彼女に話を聞いて、少しでもアイザックに繋がる手がかりを探した方がいい。だが、彼女の様子から会話になりそうな状況でもないことはヴェルには理解できた。
ヴェルはノアの肩に手を置いてゆっくりと首を振ると、ツゲの方を向いて言った。
「話は後で構わない。今は彼女を休ませてやってくれ」
「すまねえ」
しかし、二人の会話に割って入ったのは、意外にもレイカ本人だった。
「いえ……話させて下さい」
消え入りそうな声で、レイカが言った。
「いいのか……?」
「あなた達、アイザックのことを……聞きに来たんでしょう?」
レイカの口から突然突きつけられた核心に、ヴェルとノアは顔を見合わせる。
休憩室に移動して、ツゲがソファにレイカを座らせ、向かいにヴェルとノアが座る。場を察して、ツゲは終わったら呼んでくれとヴェルに言って、部屋を後にする。ツゲが出ていったのを確認すると、ノアが話を切り出した。
「アイザックがどこにいるか知ってるの?」
俯いていたレイカが、ゆっくりと顔を上げて、ノアの赤い瞳を見つめる。
「昨日まで一緒にいました。今は、どこにいるか分からないけれど……」
「どこへ行くか言ってなかった? 思い出して!」
ノアは強い口調で言い、レイカに詰め寄る。それを見たヴェルが間に入る。
「まぁ、待て。ゆっくりでいい」
「待て、ですって? 待てるわけないでしょ」
ノアは一転してヴェルに目を向けながら、荒い口調で話を続ける。
「このドームの運命がかかっているの。クメールルージュは実験場だって言ったでしょう? マキナスの人権を尊重するような、彼らにとって都合の悪い人間は怪物に変えられて、手あたり次第に周りの人々を殺す。一方で、マキナスは暴走を続ける。人類がマキナスを排除するように仕向けた後に、タイミングを見計らって、篠塚宗次郎が創り上げた新しい人工生命体が、マキナスに取って代わるのよ。実験を経てアップデートされた〈カオティック・コード〉が、アイザックから篠塚宗次郎の手に渡ったら、そうなったら全ておしまいよ。そこから起きる本物の混沌は……もう誰にも止められない……いったいどれだけの命が失われるか……」
「……分かるが、彼女を怯えさせても解決はしない」
そう言うと、ノアは黙り込む。
ノアの気持ちも理解できるが、見て分かるとおりレイカは疲れ切っている。尋問のようにまくし立てても効果的ではないことを、ヴェルは経験上よく知っている。
「彼は……」
レイカの頬を、スッと涙が流れ落ちていく。
「アイザックは、後悔していました。友達を怪物にしてしまったことを」
「後悔? あれは、彼の意思じゃないのか?」
「彼は、お父さんを裏切れない。だから仕方なくやったって……」
「仕方なくても、許されることじゃないわ」
ノアがそう言うと、レイカは彼女を睨みつける。
「彼が何をしたって言うの? 彼は、ちょっと人とは違う力を持って生まれただけよ! 人間たちの勝手なエゴで凍結される未来だって受け入れていたわ。それなのに、二百年の眠りから無理矢理目覚めさせたのは誰? 素体と人格データの適合性が取れずに、拒絶反応で苦しんで死ねって言うの? 症状を緩和する薬物は彼のお父さんしか造れない。そんな状況で……彼は自分が生きるために合理的な選択をしただけよ!」
レイカの目を、大粒の涙が伝っていく。
「許されないと言うのなら、彼ではなく、二百年の時を経てもなお、彼の力を利用しようとする、醜い人間たちのほうだわ!」
まくし立てるように半ば叫びながらそう言うと、レイカは声を挙げて泣いた。ギリギリで留めていた感情が堰を切る、そんな感じだった。
「ごめんなさい……あなたの言う通りだわ」
自分の意見を曲げないかと思ったが、レイカの言葉を聞いたノアは、意外にも素直に頭を下げた。
「彼が苦しんでいるのなら、助ける」
ヴェルの言葉を聞いたレイカが、顔を上げる。
「だから、知っていることを教えてくれ」
////
それから、アイザックと出会った経緯から今に至るまでを、緑川レイカは二人に語った。
最下層の先鋭街にあった研究所跡で、アイザックはレイカを守るために、その場にいたテンペストの構成員二名を殺害し、篠塚宗次郎が創生を目指している新たな人工生命体──彼はそれを〈第三の知性〉と呼んでいた──をも、停止させたという。
その後、彼と一夜を過ごしたところで記憶が途切れ、気が付くと下層の公園で保護されたらしい。
話している間も、レイカは何度もヴェルにアイザックを助けてほしいと懇願した。すべて話し終えるとレイカは部屋を出て、ツゲが別室で休ませた。
部屋には、ヴェルとノアが残される。
「十中八九、彼は〈カオティック・コード〉を篠塚宗次郎に渡しに行ったんだわ。何とかして行き先を突き止めないと……」
「だが、アイザックは完成した〈カオティック・コード〉を篠塚宗次郎に渡すだろうか」
「ど、どういうこと?」
突然出たヴェルからの疑問に、ノアは首をかしげる。
「緑川レイカの話によれば、アイザックは彼女を守るためとはいえ、テンペストの構成員を殺している。それに、話に出た〈第三の知性〉をも止めた。篠塚宗次郎がそれを知ったら……」
「……確かに、裏切ったと思うかもしれない。でも、それならアイザックはどうして逃げないの?」
「逃げないんじゃない、逃げられないんだ」
「そうか……素体の拒絶反応ね」
ノアが答えに行きついたのを見て、ヴェルは頷く。
「アイザックがどう考えているにせよ、篠塚宗次郎が欲しいのは完成した〈カオティック・コード〉だ。奴の周りにはテンペストも、国家安全保障調整局もまだいる。捕まったら終わりだ」
それに、キオンやミコト長官も未だに囚われたままだ。
「今、真実を知って動けるのは、負傷しているあなたと私だけ。その私たちは下層の違法配達屋に缶詰めになっていて、外には、恐らく今も調整局がうろついている……」
ノアの言葉を聞きながら、ヴェルはナタリの顔を思い浮かべた。今もまだ、再生水槽の中で眠り続けているのだろうか。彼女を連れて捜査をしていた日々がすでに遠い日に思えてくる。
ナタリの負傷後、病室にやってきたキオンと再びアイザックについて調べ始めて……。
「そうだ、そこの俺の服を取ってくれないか」
ヴェルはノアからジャケットを受け取ると、裏地のポケット例の写真を出して、ノアに手渡した。
「アリシアの遺品の中にあった写真だ。見覚えはないか?」
ノアは、ヴェルから受け取った写真を、一枚ずつゆっくりと眺める。
「これは……私?」
「ああ。そっちの少年はアイザックだろ? 覚えは?」
幼いノアと、アイザックと思われる写真を、ノアは不思議そうに眺める。
「覚えてない……。私、昔の記憶の一部に、靄がかかってるの……。彼より長く眠っていたせいかもしれない。このドームのことだって、圧縮知育の拡張機能が上手くインストールされなかったから、目覚めた時はすごく驚いたもの」
「そうか」
しかし、次の写真を見たノアは、あっと小さく声を挙げる。それは、どこかの研究所のような場所で、夕霧博士がカプセルに入っている写真だった。
「そうか。そうだったんだ……。私、どうして……」
「何だ?」
「ここに行けば、アイザックの居場所が分かるかもしれない」
「だが、それは恐らく二百年前の写真だ。現在のドームにこの場所があるとは……」
「あるわ。思い出したの」
ノアは自信に満ちた表情で言った。
その時、唐突に休憩室のドアが開いて、ツゲが足早に入ってきた。その緊迫した表情でヴェルとノアも何かしらの事態を察する。
「お前たち、そろそろ逃げたほうがいいかもしれねえ」
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