解けた魔法。惨めな娘が寒空に立つ。

 ヨハンは呆然とした。この女、悪びれる気はまるでないようだ。一瞬感じた後悔がたちまち吹き飛んでいく。


「そういう話なら、旦那にしてくれない?」


 そう吐き捨てて、レイラはそっぽを向いた。先程から彼女は、都合が悪いとヨハンから目を背けている。


「離婚をしろとまでは言いません。ただ、分を弁えろと」

「別に、好きで嫁いだわけじゃないさ。確かに学院に行かせてもらったことは感謝してる。今の生活もね。でも、前の生活に戻れるんなら――」


 レイラの青い瞳が遠くのものを見透かすように細められる。それから減衰した言葉をすべて吐き出すような重い溜め息を吐いた。


「……ったく、どうしようもない。考えたって意味のないことだっていうのに」


 弱々しく頭を振る。それから苛立たしげに唸り、ヨハンのことを睨み上げた。


「ポー。言いたいことは分かったからさ。もうなにも喋らないでくれるかな」


 じゃないとアンタのことぶっ飛ばしそうだ。そう淑女にあるまじき台詞を吐いて、彼女は側方の壁に頭を預け、扉についた小さな丸窓の外に視線を向けた。徹底的にヨハンを無視するつもりらしい。喧嘩そのものが目的ではないヨハンも大人しく身を引き、黙り込む。


 馬車は、きらびやかな中心部を離れ、市民の住宅街の真ん中を走り抜けていた。街灯などないそこは、すっかり夜闇と静寂に沈み込んでいる。


 しばらくぼんやりと窓の外を見ていたレイラは、唐突に身を起こすと、窓に貼り付き出した。かと思うと、またパッと身を翻し、ヨハンの頭上――御者に通じる小窓を激しく叩き始める。


「止めて!」


 切羽詰まった声に、御者はただちに馬車を停止させた。

 馬車が止まるや否や、レイラは勢いよく扉を開け、裸足のままで飛び出した。

 ヨハンは慌てて開いた扉から身を乗り出す。真暗に近い街の通りを、ドレスの裾を掴み上げ、裸足で冷たい石畳の上を走るレイラの後ろ姿が目に入る。


「奥様!」


 夜の静寂に配慮しつつ、ヨハンはレイラを呼び止めようと試みるが、彼女は一心不乱に闇の向こうへと駆けていく。仕方なしにヨハンも馬車を飛び降り、彼女の後を追い掛けた。

 彼女が向かったのは、煉瓦造りのマンションの一階を陣取る店の前だった。大きな窓に布のひさしが張り出し、その下は小さな円卓のテラス席。テラスと通りを仕切る鉄柵にはマリーゴールドの植わったプランター掛けられ、その端には店名といくつかのメニューが書かれた黒い板がある。その隣を通り過ぎれば、大きなガラスの嵌った木の扉。目線の位置に〝閉店close〟と書かれた小さな板がぶら下がっている。

 レイラが大きく腕を振りかぶりその店の扉を叩こうとしたので、ヨハンは慌ててその腕を掴んで止めた。


「こんな夜更けに、家人を叩き起こすつもりですか!」


 短く叱りつければ、彼女はそのまま項垂れた。唇を噛み締め、肩をいからせ、両の拳を固く握りしめている。


「……どんなに遅い時間だって、きっと喜んで出迎えてくれるさ」


 ――なんと自分本意な。


 などとは、とても憤ることはできなかった。懇願するように扉を見つめる彼女が、何故かあまりに痛々しく感じられたからだ。

 剥き出しの肩が、あまりに寒々しい。

 その肩に手を置きたくなる衝動を押さえつけながら、ヨハンはレイラの腕を離した。彼女はそのままゆっくりと腕を下ろす。


「……ここ、アタシの実家だよ」


 夜霧に溶け込みそうなか細い声に、ヨハンは眉を顰めた。


「伯爵に手籠にされて妊娠したメイドが逃げ込んだ場所。そこで助けてくれた夫と産まれた娘と、楽しく三人で暮らしていた場所さ」


 その意味を理解した瞬間、ヨハンの胸の中は溶けた鉄を流し込まれたかのように熱くなった。自分が途方もない勘違いをしていたことに気付かされたのだ。


「でもある日、実父がやってきて、突然伯爵家に連れていかれた。ジュリアスあのひとに売られるためにね」


〝金で買われた女〟。先程の彼女の台詞が重く響く。まさしく物の扱いだった。ヨハンの中でジュリアスに対して疑念が生まれる。彼はいったいどういうつもりでレイラを〝買った〟というのだろう。

 ――そして、そんな彼女を〝卑しい〟と評した自分。

 後悔が怒涛のように押し寄せる。知らなかった、そんなつもりはなかった、なんて言えるはずもない。

 思わぬ話に呆然とし、ただ黙るしかないヨハンをどう思ったのか、レイラは弱々しく笑った。


「あの人は、人形よろしくアタシを飾り立てて、色んな人に見せびらかしたりするけど。まあ、そのことはそう悪いことでもないさ」


 でも、と彼女は目を伏せる。再び開いた瞳には、憎悪に揺れる青い炎が浮かんでいた。


「伯爵の家がどうなろうと、アタシには関係ない。家族がばらばらになろうが、路頭に迷おうが、知ったことか」


 だからもう伯爵家のことは引き合いに出さないでくれ、とレイラは言う。無言でかくかくと玩具よろしく頷くヨハンに、レイラは柔らかく微笑んでみせた。


「ありがとう、止めてくれて。料理人の朝は早いんだ。夜更ししたら、店に支障が出るの、忘れてた」


 それは、この夜でもっとも美しい微笑みだった。闇に瞬く星影のように、今にも掻き消えてしまいそうな儚さを持った笑みだった。


「さて、もう行こうか。いつまでも御者が寒くていけない。いい加減足先も冷えてきたしね」


 その言葉で、ヨハンはレイラが靴を履いていないことを思い出した。ひたひたと石畳を踏む素足は、きっと冷え切っていることだろう。

 ヨハンは慌てて、馬車に戻るレイラを追いかけた。


「……よろしければ、上着をお貸ししましょうか」


 乗り込んだ馬車が再び動き出してから、ヨハンはそっとレイラに声を掛ける。視線の先では、相変わらず赤い靴が転がっていた。


「あー、いい。止めとく。靴脱いでるのはアタシの勝手だし。アンタのコートを踏みつけたりしたら、借りは高そうだ。血で汚しても嫌だしね」


 彼女の言葉を不審に思い、ヨハンは視線を床に落とした。恥ずかしそうにドレスの裾に潜る小麦色の足。その親指の付け根のあたりに、小さく赤い豆ができているのに気が付いた。

 あんぐりと口を開けてレイラを見ると、彼女は苦笑した。


「あの若旦那様、ちょっと加減っていうものを知ったほうがいい」


 ヨハンは舞踏会を振り返る。帰る直前まで、レイラは公爵と立て続けに三度踊っていた。その間ずっと、足の痛みに耐えていたのだとしたら。


 たった一瞬で見事に覆ったレイラという女性の姿に、ヨハンは瞼を覆わずにはいられなかった。

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