だぁーれーだ?

oxygendes

第1話

「だぁーれーだ?」

 いきなり後ろから回された手で両目を塞がれた。顔にぴったりとかぶせられた手のひんやりとした感触に面食らう。

 一体、誰がこんなことを……。場所は付き合い始めた彼女との待ち合わせスポットである駅前広場、時刻は待ち合わせ時間の五分前という状況からすれば、答えはただ一人しかあり得ない。もしも名前を言い間違えたりしたら、修羅場になりかねない場面なのだけど、耳元で聞こえた声は断じて彼女のものではなかった。


 女性の声だけど、物憂げで感情を抑えているような気配けはいがあった。いつも自分の想いをストレートにぶつけてくる彼女の声とは違っている。知っているどの女性の声とも異なっていたけど、なんだか遠い昔に聞いたことがあるような気がした。

 ひんやりと冷たい手の感触も、記憶の奥底に何か引っかかるものがあった。


「もお、忘れてしもぉたん?」

 耳元の声が少し寂しげになった。その声とひんやりとした手の感触が結びついて、一つの記憶がよみがえった。

「もしかして……」


 十年ほど前、まだ小学生だった頃だ。祖母の実家があった山奥の村を家族で訪れたことがあった。十二月の終わり、年末の押し迫った時期で、村も周りの山々も深い雪に覆われていた。


 大人たちが年越しの準備で忙しくしている中、僕は一面の雪が珍しくて、祖母の家を抜け出して、村の背後にそびえる山につながる山道を上って行った。山道の雪は踏み固められていて、子供の足でも容易に進んで行けた。


 しばらく上って行くと山道の脇に木々があちこちに立つ雪原が現れた。雪原や木の枝を覆う雪が日の光を受けてきらきらと輝く様子は美しかった。僕は山道を外れ、雪原に踏み出した。踏み荒らされていない雪はざくざくと音をたてて沈み込む。それかが面白くて、僕は雪原を進んで行った。振り向くとはっきりとした足跡が続いているのが見え、これなら道に迷うことは無いと思った。


 雪原の中をずいぶん進み、周りを木々に囲まれた林に入った時、辺りの様子が変わった。木々の間から湧き出すように白い霧が現れて、たちまち四方を覆いつくした。頭上にも霧がかかり、さっきまでの青空がまったく見えなくなった。

 霧はドライアイスの白煙のように濃く、伸ばした手の先さえ霞んで見えた。四、五メートル先は白い壁で覆われたようでその先が全く見えなかった。


 僕はあわてて来た道を戻ろうとした。でも、白い霧の中で足跡は見えづらく、気が付いた時には目の前の足跡は消え失せていた。おおまかな方向は間違っていないと思い、そのまま歩き続けたけれど、いくら進んでも踏み固められた山道にはたどり着けなかった。


 とうとう僕は歩き疲れて、霧の中から現れた大きな木の下で座り込んでしまった。地面の雪や周りの白い霧から、冷たさがどんどん体の中に入って来る。もう、方向もわからなくなった。僕はひどく心細くて、一人で山に来たことを後悔した。

 その時、

「君、どこから来たん?」

 かけられた声に顔を上げると、霧の中に僕と同じぐらいの年頃の女の子が立っていた。袖の先が手の甲を覆う手甲てっこうになっている上衣に、膝から下を絞り込んだズボン、毛皮でできた半纏のような上着のすべてが白づくめで、藁でできた長靴を履いていた。長い髪をそよがせて首をかしげている。


 白い霧の中に立つ姿は、霧から生まれた妖精のようにも見えた。僕は自分が幻を見ているのでないかと目をしばたいた。それでも女の子はそこに存在していた。

 僕は彼女に助けを求めた。

「僕は下の村のばあちゃんの家に来ていたんだ。雪が珍しくて山に上って来たんだけど、急に出て来た霧で道が分からなくなって……」

「なんじゃ、そぉじゃったんね」

 女の子は表情を緩めた。

「普段、下の村のもんが上がって来んようなところにおるから、どないしたんかのぉと思ぉとったんよ。道に迷ぉたんね。それは難儀じゃね」

 ぼくのそばへ来て、手を差し出してきた。

「村の近くまで送ってあげるけぇ、まぁ、立ちんさい」

 細い指をした女の子の手を握る。その手がひんやりと冷たくてちょっとびっくりした。布の手甲てっこうを着けていたけど、指と手のひらの素肌は寒風にさらされていたので、そのためかなと思った。女の子の手をつかんで立ち上がった。


 女の子は霧の中でぐるりと辺りを見回し、手を伸ばして一方向を指さした。

「こっちじゃけぇ」

 そのままさっさと歩きだす。僕はあわてて後を追った。

「ほ、ほんとにこっちなの」

「心配せんでも、間違いないけぇ」

「でも、こんな霧の中でよくわかるね」

「こんぐらいの霧じゃったら全然問題ないんよ。ここらはいついき歩き回っとるところじゃけぇ」

 女の子はそう言ったけど、僕には霧の中でぼんやりと見える景色の中に目印になるようなものは何も見つけられず、見分けのつかない雪原が続いているようにしか見えなかった。


 女の子は真っ白な雪原をどんどん進んで行く。その速度はずいぶん早い。彼女が作った踏み跡に足を置いて辿って歩くことで、僕はどうにか付いて行くことが出来た。


 しばらく歩いたところで女の子は立ち止まった。少し前にある雪のなだらかな盛り上がりを見つめ、ちらりとこちらを振り返ってから歩き出した。方向を少し右寄りに変え、盛り上がりに近づかないように弧を描いて歩いて行く。盛り上がりの周辺を通り過ぎると、また真っ直ぐに歩き始めた。


「ねえ、今の所に何かあったの?」

 僕は弾む息の中、女の子に尋ねると、女の子は歩きながら、盛り上がりの方向に目をやって答えた。

「あっこはね、黒百合がよおけ生えてくるところなんよ。うちらの里の娘は黒百合の花をまじないに使うけぇね。踏みつけるのはかわいそうじゃけぇ、よけてとおったんよ」

「まじないって?」

「黒百合は春になったら、空に向かって真っすぐに茎と葉を伸ばしてね。梅雨が明けたらてっぺんに黒紫の花を咲かせるんよ。里の娘は年頃になったら黒百合の花を一本摘んで……。あ、いけんわぁ」

「え?」

「これは、うたらいけん話じゃった」

「まじないの話だから?」

「そもそも里の話を外の人にしたらいけんかったんよ。今の話は誰にも云わんとってね」

「う……ん」

「山の草とか花の話じゃったら、ええんじゃけどね」


 女の子は歩きながら、左右の雪原のあちこちを指さして、ここにはどの季節にどんな花が咲く、あそこにはどんな形の実がなってそれをどう使う、と話し始めた。指さした先にあるのは積もった雪だけだったけど、楽しげに話す女の子の声を聴いていると、僕にも花が咲き誇る景色が見えたような気がした。


 やがて、僕たちは雪を踏み固められた山道に出た。相変わらず濃い霧に囲まれていたけど、村に近づいていることは間違いなかった。

 山道を下って行くうちに、女の子の口数は少しずつ少なくなっていった。霧も薄くなっていき、眼下に広がる景色の中にぼんやりと村の姿が見えてきた。


「ほら、あれが君たちの村じゃけえ」

 女の子の声が少し寂しげに聞こえた。


「この先は一本道じゃけぇ、一人でも大丈夫じゃろぉ。うちはここでいぬるけぇね」

「うん、案内してくれてありがとう。何かお礼を……」

「お礼なんてええよ。その代わりにひとつ約束して。山でうちにぉたこと、村まで案内してもろぉたことは誰にも話しちゃあいけんよ」

「え、どうして?」

「それがうちの里の掟ちゅうか、決まりなんよ」

「よく、わからないけど……、君がそうしろと言うのなら」

「じゃあ、約束よ」

「約束だ。今日は本当にありがとう」


 僕は女の子と握手して別れた。彼女の手はやはりひんやりと冷たかった。

 祖母の家に戻った僕は、僕がいなくなったことで大騒ぎしていた大人たちにひどく叱られた。危険だからもう一人で山に行ってはいけないとも言われた。

 僕は女の子との約束を守り、山で彼女に会ったことは誰にも話さなかった。村に滞在していた間だけではなく、その後もずっと。


 もしかしたらと、僕は目隠しをしてきた女性に話しかけた。

「君は僕が雪山で道に迷った時、助けてくれた女の子なのか?」

「そうよ、ちゃんと覚えとったんやね」

 耳元の声に安心したような響きが加わった。

「あれから、ずいぶん経っているよね。どうして今ここに?」

「いろいろあるけど、もっぱらは約束の確認と念押しのためなんよ。たちまちは約束の確認、うちに会ったことや村まで案内してもろぉたことは誰にも話しとらんよね?」

「うん、誰にも話していない」


 あの出来事の後、祖母が町中に引っ越したため山奥の村を訪れたことは無かった。約束を守ったと言うより、その機会がなかったと言うのが正直なところだ。

「よかった。次は念押し、これからもうちのことは誰にもうたらいけんよ。たとえそれが心から信頼する人であってもね」

「うん」

「もし、云うたりしたら君をうちの里に連れて行ってりにせんといけんけぇね。それがうちの里の掟なんよ」

 ヨリにすると言う意味は分からなかったが、ひどく物騒なことのように思えた。まるで……。

「会ったことを誰にも言ってはいけないなんて、なんだか昔話の雪お……」

「しっ!」

 僕の言葉は途中で遮られた。

「それを云うたら、君をうちの里の寄りにせんといけんことになるけぇ……。うちはそれでもええんじゃけどね」

「……」

 僕は押し黙るしかなかった。


「じゃあ、うちはいぬるけぇ。手を外すけど、十数える間だけ目をつぶっといて欲しいんよ」

「わかった」

 目を覆っていたひんやりした感触が消えた。僕は訳が分からないまま、十数えて目を開けた。辺りを見回しても、それらしい人影はなかった。まあ、十年ほどたった今、あの子がどんな女性に成長しているかはまったくわからなかったのだけど。


 ふと、足元を見ると一輪の花が置いてあった。茎と葉は百合の形をしていたけど、黒紫色をした花は少しずんぐりしている。あの日、雪原であの子が話していた黒百合かもしれなかった。それを手に取ろうと、しゃがみこんだ時、


「お待たせ」

 かけられた声に見上げると、すぐ前に、待ち合わせしていた恵里紗ちゃんの姿があった。

「遅れちゃってごめんなさい」

「いや、全然大丈夫だから」

「あれっ、その花はどうしたの」

 恵里紗ちゃんは僕の足元の黒百合の花を指さした。

「なんか、いつの間にか置いてあったんだ」

「いやだ、気持ち悪い。正体がわからないものには触らない方がいいわよ」

「あ、ああ」

「早く行きましょ。私は今日のこと、ずっと楽しみにしていたのよ」

「そうだね。行こうか、恵里紗ちゃん」

 僕はゆっくりと立ち上がった。


 その時、僕の頭の中で何かが引っ掛かった。昔話でも似た場面があった。会ったことを話してはいけないと言う約束、その後で知り合った女性が実は……。

 まさか、でも、もしかしたら……。僕はおそるおそる彼女の手を握った。

 そして、


 恵里紗ちゃんの手は、柔らかくて温かかった。

「あたたかい」

 思わずつぶやいた声に恵里紗ちゃんは首を傾げる。

「何、当たり前のことうとるん。でも……、約束はきちんと守らんといけんけぇね」

 彼女はにっこりと微笑んだ。


              終わり


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