体育祭

 窓側の隣の席の宇佐見うさみを表す形容詞は、「無口」のただ一言に尽きる。ただ今日、宇佐見は隣にいない。なぜなら、体育祭で外にいるからだ。 




 まだ残暑が感じられる季節。晴天の下で体を動かせばたちまち汗が噴き出す。

 グラウンドの白い砂に、汗ではない赤い一滴が落ちる。


卯月うつき! 悪い、大丈夫?」


 戌井いぬいが慌てて振り返った。


「うん、大丈夫」


 そう答えながらもどんどん鼻から血が滴り落ちる。鼻をつまみながら天を仰ぐと、戌井に止められた。


「血飲んじゃうから下向いた方が良い」


 言われた通り下を向く。すると、騒ぎになっているのを見たであろう先生が駆けつけた。


「卯月さん! どうしたの? あら鼻血?!」

「先生」

「俺のせいです! 肘が鼻に当たっちゃって……」


 それを聞いた先生はあたふたし始めた。


「えっと……保健室! とりあえず保健室行きましょう!」

「いえ、すぐ止まると思うので。ちょっと洗ってきます」





 手と顔を洗った後、階段に座ってタオルで拭いた。タオルがわずかに赤く染まる。

 人の気配がしたので見上げると、宇佐見だった。


「……大丈夫?」


 宇佐見はちょっぴり心配そうに顔を覗き込んだ。


「大丈夫……じゃないかも」

「……そう……だよね」


 何となく立ち去ってしまいそうな雰囲気だったので、咄嗟に呼び止めた。


「宇佐見。ここ、座って」


 宇佐見は一瞬考えるように瞬きをした後、こくりと頷き、腰を下ろすなりこう言った。


「困っていそうな子どもに『大丈夫?』って声掛けちゃダメらしい」


 何故このタイミングでそんな話をするんだ。そう思って、つい先程宇佐見が「大丈夫?」と声を掛けてきたことを思い出した。


「なんで?」

「大丈夫じゃなくても、反射的に大丈夫って言うから」

「……じゃあ、なんて声掛けるの?」

「……『何か困ってる?』」


 まるでこちらに向かって聞くように言った。


「宇佐見……」


 宇佐見はポケットティッシュを取り出し、無言で差し出した。


「……ありがとう」


 再び垂れてきた血を拭い取る。ふいに血が出ているほうの小鼻を指で押さえられた。


「……押さえるの、ここだけ。長くて五分」

「あ……うん」


 博識な宇佐見が言うのだから、きっとこの処置は正しいのだろう。


「……それでも『大丈夫?』って聞いちゃうよなぁ」

「…………」

「もちろん、何かしたいっていう気持ちで言ってるんだけど、言われた方からしたら『大丈夫なように見える?』って思うこともあるし、『大丈夫』って言って実は大丈夫じゃなかったりするし、かといって何も声を掛けないと『誰か助けろよ』って思うこともあるだろうからな……『何かできることある?』って聞けばいい話なんだけど、咄嗟に出てくるのは『大丈夫?』だよなぁ」

「……人間は、放っておかれることを好まない、構って欲しいと無意識に思う生き物だから」

「……宇佐見も?」


 問いかけに対し、宇佐見は反応しなかった。


「……ティッシュ……」

「ああ、ごめん。返すよ」


 宇佐見はふるふると首を振った。


「鼻に……詰めちゃダメ。……硬くて粘膜が傷付く」

「そうなんだ。……ものすごく手触りの良い高級ティッシュも?」


 こくりと頷く。

 やっぱり物知りだな、と思いながら空を流れる雲を眺める。


「……止まった」

「え?」


 鼻を押さえていた指をそっと離す。


「あ、止まってる」

「よかった」


 宇佐見は優しいほほえみを浮かべた。





「卯月! もう平気?」


 グラウンドに戻ると、熊谷がいち早く気が付き、声を掛けられた。


「うん。ありがとう、心配してくれて。もう止まったから次のリレーは出るよ」


 そこへ、戌井が駆け寄る。


「よかった、止まったんだな! もうマジで悪かった、卯月! 後で何か奢る!」

「いいって、気にしなくて。……まあ、ジュースくらいは奢ってもらおうかな」

「まもなくクラス対抗リレーが始まりまーす。走者は準備してくださーい」


 プラカードを持った体育祭実行委員が叫ぶ。


「それじゃあ、行ってくる」






「位置についてー、よーい!」


 乾いた音ののち、カラフルなハチマキが一斉に動き出す。

 走り出しは順調だった。しかし、第二走者と第三走者のバトンの受け渡しが上手くいかず、後れを取ってしまった。バトンが回ってくる頃にはビリになってしまった。

 バトンを受け取り、ギアを全開にする。アンカーのタスキをなびかせ、応援するクラスメイトの前を通り過ぎる。


「いっけぇぇぇ」

「がんばれー!」

「卯月!!」


 一瞬はっとする。この声は、宇佐見だ。宇佐見はこんなに大きな声で叫べたのか。

 脱兎のごとくトラックを駆ける。一人、また一人と次々に追い抜かす。先頭走者は手を伸ばせば届く距離になった。


「いいぞ、卯月! そのままいっけぇーー!!」


 熊谷の叫びが背中を押す。あと、少し。

 そして、ほぼ同時にゴールテープを切った。


「はあ、はあ……」


 強く脈打つ心臓が気持ち悪くて、思わずグランドの上に寝転がり、四肢を投げ出す。


「うっつきー!!」


 両腕を引っ張られ、体が起こされる。そして強く抱きしめられた。


「ぐるしい……」

「卯月! よくやった! 一位だ!」

「へっ?」

「おめでとうございます!」


 首に金メダルを提げられる。陽光に照らされ、眩しく輝いていた。


「卯月」


 宇佐見に水を差し出される。


「ありがとう。……応援も」


 宇佐見は少し気恥ずかしそうに顔を背けた。


「いよ~し! 今日の打ち上げはパーッといくぞ~!!」

「おー!!」


 クラスのみんなは今日一番の満面の笑みで応えた。

 それは、宇佐見も例外ではなかった。

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隣の席の宇宙人は。 KeeA @KeeA

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