江戸の「闘」
白浜 台与
第1話 あまから清兵衛・前
ある時は隠居仲間と碁を打ち、ある時は近所に住む同心と俳諧を楽しみ、暇な時は縁側に座り遠い目をして日向ぼっこしながら
雇われて半年、朝晩の食事と家の掃除に通っている女中のお沢は贅沢もせず口数少なく小言を言ったことも無い清兵衛に対して
あの日のあの夜までは。
ご隠居どこか体の具合でも悪いのかしら?
空になった飯茶碗を洗いながらお沢はここ三日、清兵衛の朝晩の食事が湯漬けばかりなのを心配していた。
「お茶漬けにしましょうか?」
「胃の腑が重くなるのでいいです」
「せめてお新香を添えましょうか?」
「それは…いりません」
と何度か問答を繰り返したが主は黙って湯漬けを啜るばかり。
「お沢さん、掃除が終わったらもう帰っていいですからね」
とこの日は珍しく早目の帰宅をお沢に促し、はあい、とたすき掛けをしたお沢が返事をすると縁側に座って白湯を飲む。
お沢には老人の横顔がいつになく覚悟を決めたように見えて胸騒ぎがした。
暮六ツ(夕方六時)。
辺りが薄暗くなる中迎えに来た伊予屋の手代、徳兵衛に戸締まりさせて背中に火打ち石を打ってもらう清兵衛は、持っている着物の中で一番な高価な亀甲柄の大島紬の上に大根のぶつ違いを白く染め抜いた伊予屋の家紋の羽織姿。
いつの間にか近所の同心や御家人たちが妻子を連れて出てきて十四、五の人影が老人を取り囲む。
「ご隠居…ご武運お祈り致します」
と何やら厳粛な面持ちで見送るお武家たちの激励に「では行って来ますよ」といつも通りの穏やかな顔と声で応えた。
今だ!
と暗がりに紛れ少し離れてご隠居と手代の跡をつけるお
言われたとおりに裏口から出て帰った振りをした彼女、実は裏庭の竹藪に隠れて日が暮れるのを待っていた。
ご隠居が入っていった先は八丁堀からさほど遠くない柳橋の大きな料亭、
元々花街である柳橋が夜賑わうのは当たり前だが…今夜の人の集まり方は神田川にかかる柳橋から料亭の周りの両隣三件先の道までみっしり野次馬が溢れ、大工、町人、お忍びの武家たちが袖触れあってもお構い無しの緩さと、方々から囁かれる
「今夜の闘いはお上のお目こぼしだからさ」
という怪しげな宴の前のいかがわしさで異様な活気に溢れていた。
躊躇った末にお沢は入場料百文(3250円位)払って全ての襖を取り除かれた料亭の壁際である一階立ち見席の見物客の中で頭巾を取り、室内のあらゆる場所に目をやってご隠居の姿を探していると…
どん!と太鼓が鳴り齢八十近いのにてらてらと脂ぎった顔をした楼主、
「さあさ皆様お待ちかねの闘食会が今年の今宵始まりますよ…
士農工商身分関係無しに胃袋自慢は名乗りを上げて食らい続けるのみ!
吐いたら負け、食い倒れたら負けの食の
これから始まる闘食という名の大食い大会の挑戦者たちが名を呼ばれ、観客の掛け声に応えて次々と手を振り入場する。
最後に…「昨年の勝者、漬物屋伊予屋の大旦那、伊予屋清兵衛~っ!!」
と我が主が名を呼ばれ、
ご・隠居!ぱんぱん!
ご・隠居!だんだん!
と観客達が拍子良く手を叩き足を踏み鳴らしながら送る歓声に応えるため両手を後ろに下ろして素早く羽織を脱ぎ、袖の端を持って羽織をぐるぐる振り回した時、おおおお…と建物が震える程の叫び声が上がった。
武州多摩の農家の後家だったお沢が奉公のために江戸に上がったのは八か月前。
江戸にはこんな贅沢を極めた闘いがあり、その闘いの常連が我が主であるご隠居だなんて…!
お沢はただただ目の前の光景が信じられず、卒倒しそうになるのを辛うじて踏ん張りながら、
大鉢に盛られた餅、大福、煎餅、樽ごとの梅干しと沢庵、甘酒を前にしたご隠居がいつもは眠たそうに細い目をくわっと見開き
「では、始めっ!」と楼主が号令をかけ再び太鼓が鳴る。
ああ、あんなに沢山のお餅をこれから一気食いするだなんて…
頑張ってご隠居!
死なないでご隠居!
と今は一人の士として鶯餅の最初の一個を口に齧る清兵衛を神仏への祈りをこめて見つめた。
江戸の「闘」 白浜 台与 @iyo-sirahama
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