第四話 獣たちの黙示録

『――――』


 羽虫にも劣る俺の宣言を耳にして、しかし、悪魔は動きを止めた。

 やつは俺を見る。

 いや――正確には、俺の背後を見て、驚愕に両目を見開いていた。


『バカな……貴様は〝罪の女〟のはず。ただ古きメシアに許されただけの、死ねないだけのマグダラのマリアが正体のはず! なのに、なんだ? その姿は、そのはなんだ……!?』


 一歩前に進み出た黄金が。

 鞠阿さんが。

 耳まで口が裂けたように、ニタァッと笑う。


「よくぞ決別の言葉を放ったな、反キリ番目ひしかわきりひと! そうさ、こいつはまがものだ。似ても似つかない駄作に過ぎない」


 見下すようなつり目と、つり上がったその口が相まって、彼女はまるで。

 まるで――


「しかし……マグダラのマリア、ね。たしかに、そんな名前の時もあった。ひとつ前は華陽かよう夫人。さらに前は妲己だっき。この国では玉藻たまもまえを名乗ったこともあったし、おひゃくとも呼ばれた。なあ、悪魔。所詮その程度の歴史しか持たない紛い物よ、貴様には――私が、なんに見える……?」

『――ひっ』


 怯えたように、悪魔が空へと飛び上がる。

 その全身を、緋色の鎖のごときものが縛り付けた。

 鞠阿さんのコートの裾、九つに裂けたそれが、尻尾の如く自在に動き、悪魔を拘束し、地面へと叩きつけたのだ。


 同時に、彼女の身体へ変化が生じる。

 しなやかな身体が前傾姿勢を取り、ゆっくりと全身の体毛が伸びていく。

 それは黄金。

 どうしようもなくあでやかで、世界のすべてと等しい価値を持つ、万民を魅了する金毛。

 四つ脚をついた彼女は、首を伸ばす。

 口は大きく裂け、耳は尖り、目はますます鋭さを増して。

 なによりも――白い。


 見上げるほどの巨大な肉体は、緋色とも黄金とも付かない妖艶な毛並みによって覆われ、顔だけが純白。

 九本の尻尾が波打ち。

 獣は、嬰児えいじが産声のごとき、咆哮を上げる。


――――・・・・!』


 金毛白面九尾の狐。

 かつて浄一センセーが口にした、この島国へと渡ってきた神秘の一端。

 聖堂を遙かに超える大きさの瑞獣ずいじゅうが、愉快そうに笑いながら、悪魔へと躍りかかった。


『ひ、ひぃぃい……!?』


 体格差は歴然。

 悪魔はなすすべもなく、あちこちを噛み千切られ、傷口から血液の代わりの黒いモヤをこぼしながら、完全に背を向けて逃げ出す。

 その肉体が分裂。

 無数の飛蝗イナゴへと変じる。


 だが、九尾の狐は動じない。

 尻尾を風車のように回転させれば、天変地異のごとき大嵐が起こり、飛蝗をすべて巻き込んでしまう。

 再び悪魔の形になったルシフェルの顔には、焦燥しょうそう


『ああ、ああ、そんな、ありえない……だって……わたしは神になったはずで……おにいちゃん……こわい、こわいよぉ……あれは、あくまよりよっぽどおそろしい、ふるき神の……』


 泣き叫びながら逃げ惑い、血の涙をほとばしらせる悪魔は、なおも諦めることなく両腕を天空へとかざす。

 すると、星が降った。

 毒々しい苔色こけいろの星は、白面を打ち砕かんといくつもいくつも降り注ぐ。が、そのすべては、尻尾の一振りにて撃墜され、消滅。


『無駄だ。貴様に石を投げる権利はない。いにしえの香油を注がれた者メシアが定めた、私に害なせるのは――罪を犯したことなき無垢のみであると!』

『ひぃいいいい!? 〝罪の女〟ァ!!!!』


 恐怖。

 おそらく誰が見ても解っただろう。

 悪魔は――おそれという感情に支配されていた。


『はッ! そんなに怖いンだったら、二度と顔を合わせねーですむようにしてやるよ。幡指剣ばんしけん――〝爆〟!』

『――ッァアアアアアア!!!』


 九尾が、高速で空間へと文字を刻む。

 〝爆〟の一文字が完成すると同時に、悪魔の全身が次々に爆散する。

 ダメ押しとばかりに、尻尾を叩きつけられ、弾き飛ばされる悪魔。

 恐ろしい速さで天空へとかち上げられたそれは、そのまま地獄の門へと激突。

 衝撃で、扉が閉まる。


『に、にげ――ひっ!?』


 なおも逃走しようとする悪魔。

 しかし、許されない。

 もはや、天命は尽きたのだ。

 審判は降されたのだ。


『あ、ああああ……』


 亡者たちが、門の構成要素となった子どもたちが、偽神ぎしんの身体を掴んで離さなかった。

 地獄への道連れを、彼らは決めたのだ。


『は、はなして――』

『もう遅い。私が、貴様の死だ』

『――――』


 天空へと舞い上がった九尾の狐が、歪みきった笑みを浮かべ。

 口腔こうくうを、限界まで開いた。

 尻尾が天空へと最後の文字を刻む。


太極たいきょく幡指剣ばんしけん――〝禁〟!』


 放たれたのは、地獄の業火すら生温いような熱と閃光。

 すべてが、焦土しょうどと化すような一撃。

 悪魔は。

 真っ向からそれを受けて。


『あ、ああ、あああ――わたし、も、いきて、みたかった、な――』


 欠片も残さずに、この世から消滅した。


『……生きられるさ。兄妹ともども、地獄ですべてをあがなえよ、幼子』


 門が閉じる。

 門が消える。

 暗雲は消え去り。


 そして――朝日が昇る。


灰は灰にダスト・ザ・ダスト。悪夢の時間は終わりだ。


 空へほどけるようにして消えていく黄金が。

 完全に消え去る一瞬。


『守ったひとを大切にして、誠実に愛せ。精々人として真っ当に、残された時間を生きるんだな、菱河切人。あばよ、また――おうぜ』


 そんな言葉を俺たちへ、言い残してくれたのだった――

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