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第閑話 神隠しの晩に

 俺は必死で祈っている。

 雪まじりの雨が降りしきる中、近寄るもののない廃神社で。

 石畳にひざまづいて、ただひたすらに、一心に祈りを捧げていた。


 小田原小春が熱を出したのは、十歳になったときのことだった。

 体温計が機能しないような高熱で、彼女はすぐに町の病院へと運ばれた。


「もう、助からないかも知れない」


 折り合いの悪かった両親が、俺をわざわざ呼び出し、沈鬱ちんうつな面持ちで告げたのだ。

 このときの衝撃を、例える語彙ごいを持たない。


 目の前が真っ暗になったとか、世界が崩れ落ちる音を聞いたとか、そんな月並みな表現ではまったく足りない。

 生まれたときからの付き合いである彼女は、その瞬間まで、単なる喧嘩相手という認識だった。

 ことあるごとに噛みついてきて、それが気に食わなくて殴り返し、お互いにボロボロになるまでやり合う相手だった。

 本当に、それだけ。

 友達とすら思っていないような、なんでもない存在。


 ――違った。


 なんと思わないぐらいに、彼女は俺の一部だった。

 隣にいるのが当たり前。

 毎日顔を合わせるのが至極当然。

 触れあうような距離いないことが、不自然でしかない女。


 菱河切人という人間にとって、小田原小春は不可分で、かけがえのない、大切な人だったのだ。


 ほかの村民達が、俺と距離を置き、一枚壁を隔てたような関わり方をする中で。

 彼女だけが俺を普通だと扱ってくれた。

 〝荒神様に定められた子どもきりばんめ〟などと特別扱いせず、などと言うこともなく、ただ友人でいてくれた。


 ゆえに、彼女が死ぬかもしれないという事実は、絶望以外の何物でもなかった。

 このときになって初めて、俺は恐怖を知ったのだ。


 子どもゆえの万能感。

 無鉄砲な全能感に満たされていたガキが。

 自分の力ではままならない、抗うことの出来ない恐怖が世界にはあり、ときに暴力として降りかかってくるのだという事実を思い知った。

 打ちのめされた。


 俺は無力だった。

 じゅうやそこらのガキに、人の生死を変えるすべなどあるわけもなかった。

 だから――祈った。


 降り積もる雪の中、何度も足下を取られながら、廃神社へともうでた。

 斑■神社。

 物心つく前から、数限りなく通った社の前で、俺はひざまずき、手を組んで祈った。


 どうか小春を助けてください。

 小春を助けてくださるのなら、なんだってしますからと、そう祈った。


 自分の命など惜しくはなかった。

 忍び寄る暗夜のごとき死から、幼馴染みを救い出せるのなら、なにをなげうっても惜しいはずがなかった。

 この先の人生などというものがあるのなら、それがすべて苦難と試練にまみれてもいい。

 お金は要らない。

 幸せは要らない。

 温かなご飯も玩具も要らない。

 友達だって。

 なんなら明日だって必要ない。


 だからどうか、どうか小春を助けてくださいと。

 俺は、いつまでも、いつまでも祈り続け。

 足の指先から感覚がなくなり、全身が無自覚に震え出しても、祈ることを辞めなかった。


 頭の上に雪が降り積もり、かじかんだ手がほどけなくなっても。

 涙と鼻水が凍り付き、息をするだけで肺と心臓がしくしくと痛んでも。

 大切な、大切なひとが助かるまで。

 愚かしいガキに出来る精一杯として、俺は祈りを続けた。


 寒さと飢えで意識が途絶える寸前。

 俺は、奇跡を聞いた。


『おまえに死はない』


 黄金の髪に、緋色の衣をまとったひとが、厳冬のなか、社を背にして立っていた。

 彼女は冷たい眼差しで俺を見おろす。


『死とは、〝ぱらいそのよろこび〟に戻るための祝福だ。ゆえに、定められた死を覆すことは適わない』


 黄金が告げる。

 おごそかに。

 あるいは、妖艶ようえんに。


『けどなぁ……此度こたびの死は■■■があたたまうたものじゃねーのよ。■■■にあだなすことを画策した者どもが、〝いぬへるの〟へと繋がる門を作るために捧げた不憫ふびんな生贄たちだ。だからよ、あがないの法はあるんだぜ』


 ゆっくりと、こちらへ向けてかざされる手。

 細く、光を纏ったように眩しい指先が、微かに裂けて。

 そこに、一雫の血がぷくりとたまをなす。


『……〝■■の実〟を受けよ。二千年、守り続けた秘蹟ひせき、旧き約束のしるしを受けよ。さすればなんじの前に、三の四倍、十二の十二倍の受難が降りかかることだろうよ。それは、受難の中で信仰を示したいにしえのヨブと同じく。汝の心を折り、肉を砕き、霊を削る困難な試練ディシプリンだ。それでも汝が、この苦難を受け容れるのなら。〝私〟に、己がすべてを捧げるのなら――』


 俺は舌を伸ばす。

 懸命に、もう動かない手足に変わって、唯一自由の利く舌先をそのひとの指へ。


『――おまえに死はない。〝はじまりの死〟、〝罪の女〟の名の下に、汝がを、かの娘へと与えよう』


 ――ぴちゃん。

 したたり落ちる熱い血液が、俺の舌へと触れた。

 ゴクリと、嚥下えんかして。


「いつまでも、この辺獄へんごくにて私と共に在れ。そうあれかし、昇天の日まで。実がじゅくすまで。おまえはいまより――私だけの、香油を注がれたものとなるのだから」


 酷く近くで。

 耳元で。

 彼女の声は響いた。

 それは、まぎれもない悦びと、慈愛に満ちた声だった。



§§



 かくして、俺は数ヶ月間、神隠しに遭う。

 家に戻ったとき、小春は元気になっていて、泣きながら俺へと殴りかかってきた。

 二度と。

 決して二度と、彼女を泣かせまいと、そのときに誓って。


 俺はこの記憶のすべてを、忘却したのだった。


 だから、覚えていなかった。忘れていた。

 あのひとのことを。

 斑屋まだらや鞠阿まりあ

 彼女は。



 かつて俺の魂を救ってくれた、救い主だったのに――

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